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メッセージ主題:『イエス様の愛』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年10月13日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌199「主を仰ぎ見れば」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「すべてにまさる愛」

交読: 交読文30:詩篇 第96篇:新聖歌p.903-904

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌333「神の時の流れの中で」

聖書拝読:コリント人への手紙第一13章1-13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13)

メッセージ主題:『イエス様の愛』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『ひとつのからだ:調和』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント第12章は、御霊の賜物のことが記されています。御霊は同じでも、奉仕(賜物)にはいろいろの種類があり、知恵や知識、信仰や癒し、奇跡や預言、そして異言であります。これらをキリストのかただとしての器官になぞらえ、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(27)と、パウロは説きます。12章の終わりには、「さらにまさる道をしめしてあげましょう」と、これらの賜物よりもすぐれたものがあることを示します。それは、「愛」であり、有名な「愛の章」13章へとつなげていきます。先週は、11章での「主の愛餐」の意識から13章「主の愛」へと移行する話の流れのなかで、さまざまな賜物は、同じ主からのものであると「主にあって一つ」を強調しているところ、それをオーケストラになぞられて学ばせていただきました。

今朝は、『イエス様の愛』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント第13章は、12章で説かれたいろいろな賜物があり、その上にある、賜物を活かすものがあると説かれています。それは、愛です。それもイエス様の愛です。そのイエス様の愛がなければ、12章で説かれた全ての賜物は何の意味も持ちません。この第一コリントの13章は「愛の章」と言われるのですが、この13章こそ、イエス様の愛を語っているところでございます。今朝はこの13章全体を読みつつ、イエス・キリストの愛を覚えさせていただきたいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

この13章1節から2節では、神様からいただいているあらゆる賜物、たとえば、人の異言(何か国語も話せる能力)、そして、御使いの異言(通常の言葉ではない言葉で話せる能力)、預言や知恵や知識、また、強い信仰は、愛がなければ何の価値もないと、パウロは説いています。この時に用いられているギリシャ語の愛は「アガペー」です。ギリシャ語には愛は、三つあります。「エロス」「フィレオ―」そして「アガペー」です。簡単に言いますと「エロス」は男女の愛、「フィレオー」は友情、「アガペー」は、神の愛、無償の愛です。神様ご自身のひとり子であるイエス様を人間のために与えて下さることによって示された愛、相手から報酬を期待しない、自己を犠牲にしてまで相手を愛する愛であります。そのようなアガペーの愛がなければ、神様からの賜物は何の意味もなく虚しいと主張します。神はイエス様を通してこのアガペーの愛をお示し下さいました。つまり、イエス様は、言葉の能力、預言や知恵や知識、そして山をも動かす信仰をお持ちでしたが、神の性質ともいえるアガペーの愛によって、それらの能力を完全に使うことができることをお示しくださったのです。逆に言えば、アガペーの愛によって、それらの能力は神様から与えられたのです。

そして、イエス様は世俗の富に固執しませんでした。全てを分け与え、足らない部分を補い、ご自身までも私たちのためにささげて下さいました。それは、アガペーの愛から出た行為でありました。パウロは3節で、そのことを伝えています。全財産を貧しい人々に分け与えても、人のために命尽きるまで働いたとしても、アガペーの愛がなければ、何の役にも立たない、と主張します。ほとんどの人は、全財産を貧しい人々に分け与えることも、人のために命尽きるまで働くこともできません。これを可能にするのは、アガペーの愛があるからこそなのです。この行為を成就させられるのは、アガペーの愛をおもちのイエス様だけなのです。

4節から7節は、アガペーの愛の性質を描いています。つまり、イエス様ご自身を描いているとも言えます。このところを「愛」という言葉を「イエス様」に置き換えて読まれると、イエス様の事が、そしてアガペーの愛のことがよく分かると思います。

「イエス様は寛容であり、イエス様は親切です。また人をねたみません。イエス様は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

これを聞いて、ある人は、「イエス様は怒りをあらわにされたことがあったじゃないか」と思われるかも知れません。たしかにイエス様は怒りを表されました。神殿内での物売りや両替商の商売道具をひっくり返したり、弟子のペテロに対して「下がれ。サタン」と叱咤しています。しかし、イエス様の怒りは、悪に対してであり、自己中心的な自分の利益のために怒ったわけではありません。神を冒瀆することに対して、怒りを発せられるのです。これは神様も同じです。義である神は、神を冒瀆するような行為、偶像礼拝に対して、怒られるのです。しかし、同時に、神は「怒ること遅い」方で、忍耐強い方でもあります。詩篇103編では、次のように賛美されています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。」(8-9)神は忍耐強いお方ですが、怒らない方ではありません。怒るに遅い方ではありますが、私たちが神の忍耐に甘んじたり、チャレンジする必要はないのです。神は私たちを愛するがゆえに、私たちをしつけられるのです。神様もイエス様もやはり愛のお方です。

8節から12節では、アガペーの愛の永遠性が説かれています。「愛は決して絶えることがありません」これは、神は愛だからです。使徒ヨハネはヨハネの第一の手紙の中で次のように告白しています。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神が永遠であるように、神の愛も永遠なのです。しかし、この世で与えられた能力である賜物は、私たちが天の御国に上げられるときは、必要なくなります。それらの賜物は、この世で神を信じる人々の集まり、教会において、成長のために必要なものであります。天の御国では、そのような成長のための賜物は必要なくなるのです。12節がそのことを説明しています。いっしょに読んでみましょう。「今、私たちは鏡にぼんやり移るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか分かりませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」それは、私たちがキリストによって神の相続人とされているからです。神とすべてのものを分かち合える者とされたのです。パウロはそのことをローマ書の中で述べています。8章14節から17節です。お読みいたします。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人であります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」私たち、キリストを信じる者は、神様の子どもであり、ゆえに相続人であり、イエス様との共同相続人であるので、天の御国では、すべてのものを分かち合える者とされるのです。

最後に13節です。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」信仰と希望も神様から与えられたものですが、私たちの積極的な応答がなければ成立しません。つまり、私たちに選択権があるとも言えるでしょう。信仰は「信じる」という決意から始まります。もちろん、「信じる」ということも、神の御霊である聖霊様によってなされることではあります。そして、「希望」も同じことが言えます。しかし、愛に関しては、全面的に、一方的なる神様からのものです。愛は神と人とを和解させ結びつけるものであり、キリストの十字架に象徴されるものです。私たちが否定しようが肯定しようが、アガペーの愛は神が存在し続けるように存在し、神そのものでもありますから、較べようもないほどに最もすぐれたものであるのです。

私たちは、イエス様を通してでしか、神を知ることはできません。同時に、イエス様の愛を感じ、受け入れることでしか、神様の愛を感じることができません。イエス様を見倣うことでしか、アガペーの愛を実践することはできないのです。もちろん、完璧なことはできません。しかし、「神様を心の底から愛そう」「隣り人をイエス様が愛されたように愛そう」と決意し、一歩を踏み出し、また一歩、また一歩と歩み始めることが大切だと感じるのです。

――――――――――

熊: あれ、なんかメッセージ終わった感じじゃない。俺たちの出番はないのかい。

八: おれ、ちょっと質問があったんだけどなぁ。結局、信仰と希望と愛って、どんな関係なんだい。分ったようで分かんねぇんだよな、牧師さんの説明だと。

熊: 信仰と希望と愛ねぇ。そうだなぁ、俺はこう思うんだよ。信仰っていうのはよ、神様とイエス様と俺っちが、スクラム組んでるって感じかな。

八: なんだよ、そのスクラムって。俺には、余計分かんねぇよ。

熊: 俺たちは、イエス様を通してでしか、神様は分からねぇ。けどよ、さっき牧師さんが言ってたように、俺たちは、キリストとの共同相続人なんだよな。いわば、イエス様は長男で兄貴だ。神様はおやじ殿だ。俺はイエス兄貴を尊敬しているから、イエス兄貴の真似をするんだ。そうするとおやじ殿から褒められるから。色んな事を聞いたり話したりするんだけど、まず兄貴に相談し、そして親父殿にも相談する。それに、教えやアドバイスをいただいて、スクラム組んで、その問題に取り組むっていう感じ。だから、信仰は絆かな。

八: ん~、信仰は神様とイエス様とお前の三人のスクラムって訳か。じゃあ、希望は?

熊: 希望は永遠の命だし、天の御国に入ることじゃねぇか。俺たちゃ、神様の相続人なんだから。兄貴や親父殿といっしょに暮らせるって言うのはいいやね。希望は俺たちに取っちぁ、目的でもあるけど、その目的に対する取り組む姿勢もはいっているかも。

八: なるほどね。希望が目的やその取り組む姿勢であったら、信仰は、その取り組み方やその相談や絆って訳だ。じゃ、愛は?

熊: 愛は、そうさなぁ、行動かな。ほれ、ヤコブ書にもあったじゃねぇか。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは死んだものです」(2:17)って。この時の信仰は愛でもあると思うんだ。「愛も、もし行ないがなかったなら、それだけでは死んだものです。」だから、愛はなにがしかの行動を伴うんだと思う。逆に言えば、すべての行ないに愛を添えていないといけない。

八: 信仰がスクラムや絆、希望が目的や姿勢、愛が行動か。ちょっとは見えてきたかな。

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熊さんのいう、信仰は神様とイエス様とその人とのスクラムねぇ。面白い発想ですね。それを聞いていて、ヤコブと神様とのすもうを思い出しました。あのすもうは、神様との真剣な祈り、ヤコブがもものつがいを打たれたのは、「へりくだる」ということを覚えた証拠。それから、ヤコブはイスラエルと名前を変えられ、性格も変わりました。愛のない、人を押しのけて歩むものから、人の事をまず先に考えらえる者へと変えられました。神様とイエス様との三つ巴のスクラム。真剣な祈りの様子がうかがえますね。そして、愛は行動。行動だけが先走ってはいけませんが、行ないを伴わない愛も、アガペーの愛ではないのでしょうね。この第1コリントの13章は、イエス様の愛が示されています。私たちもイエス様に倣うものとさせていただきましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「イエス様の愛」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。常に、イエス様だったら、どうされるかを考えて、祈り行動することができればいいですね。

黙想の前に、ヨハネの福音書13章34-35節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

(3分間黙想)Ma Navu (How Beautiful)

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「イエス様の愛」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか、私たちが、日常生活において、信仰と希望と愛をしっかりと保ちつつ歩むことができますよう、お導きください。つねに、主の声に耳を傾けつつ行動することができますよう、私たちを造り変えてください。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌397「神の御子にますイエス」

賛美: 今月のワーシップソング「すべてにまさる愛」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Ma Navu (How Beautiful)

 https://www.youtube.com/watch?v=sWrZyBsNcQY&list=RDXIk0_WWIvU8&index=3

今月のワーシップソング「すべてにまさる愛」♬

すべてにまさる

すべてにまさる

すべてにまさる

あなたのあい

https://www.youtube.com/watch?v=8_-BaA1zLyw

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。