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メッセージ主題:『生ける神の宮』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第二』

2019時年12月15日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌89「神は独り子を」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Amazing Grace」

交読: 交読文37:詩篇 第119篇:新聖歌p.909-910

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌316「御言葉なる」

聖書拝読:コリント人への手紙第二6章14-18節(新改訳聖書)

中心聖句:

「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」(16a)

メッセージ主題:『生ける神の宮』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『すべてが新しくなる』と題しまして、神様からのメッセージをお聞きいただきました。

コリント第二第5章は、「神様との和解」がメインであります。神様との和解をイエス様が成し遂げてくださいました。パウロはその「和解の務め」を、先に救われた私たちが担うべきだと説いています。つまり、「福音を宣べ伝えよ」と励ますのであります。しかし、そのことも、私たちが「イエス様によって新しく造られた者である」ことを自覚するかどうかにかかっています。先週は、「すべてが新しくなりました」とはどういうことなのか、ともに黙想させていただきました。

今朝は、『生ける神の宮』と題しまして、神様からのメッセージを学ばせていただきます。

コリント第二第6章は、キリスト者の生き方を述べています。今朝の聖書の箇所は、その後半部分で、キリスト者は、「生ける神の宮」であることが強調され、キリスト者として世と交われない部分があることを示唆しています。今朝は、「生ける神の宮」として、世とどうかかわっていくのかを考えたいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

パウロは、信者と不信者、正義と不法、光と闇、キリストとベリアル(悪魔)、何の調和もなければ、つながりもないと、二極分離を強調しています。私たちは、神の宮なのだから、聖くあれと言われるのです。

また、17節では、「彼ら(不信者)の中から出て行き、彼らと分離せよ」と告げ、18節では、「彼らとの交わりを断てば、神はその人たちを受け入れ、その人たちの父となり、また、あなたがたは、神の息子、娘となる」と告げられています。

不信者たちと分離せよとは、「世を愛してはいけない」ということでもあります。使徒ヨハネは第一の手紙の中で次のように述べています。『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人たちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅びます。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。』(2:15-17)

では、私たちは、世と隔離してクリスチャンだけの共同体で暮らしていかなくてはならないのでしょうか。それは現時点でほぼ不可能です。それに隔離して生活するのであれば、イエス様のおっしゃる、「世の光」にはなりえません。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」というイエス様のご命令は遂行できなくなります。世に対して、世の光であるイエス様を紹介できないことになります。

しかし、世とどっぷり交わり過ぎますと、塩気をなくした塩となってしまいます。イエス様はおっしゃいます。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々にふみつけられるだけです。」(マタイ5:13)

ヤコブも塩気をなくした塩にならないようにと、はげまします。ヤコブ4:4です。

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」中途半端はいけません。シロか黒か、どの神を礼拝しているのかと、立場をはっきりさせる必要があるのだと、使徒たちは言うのであります。

まことにジレンマであります。私たちは世の中で生活し、ほとんどの方がクリスチャンではありません。その人たちとの交わりもございます。日曜日の教会では、クリスチャンと交わることが楽しみのひとつでしょうが、月曜日から土曜日まで、クリスチャンでない人ともお付き合いをしないといけません。イエス様はさらに追い打ちをかけるように、次のようにおっしゃいます。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

イエス様は、ここで三つのキーワードを出されておられます。「愛する」ということと、「仕える」ということと「富」ということです。この三つをしばらく見ませていただきましょう。

「愛する」という言葉を「心を捧げる」という言葉に置き換えると、私たちは、本当に、世に心を捧げ、または心を奪われているのでしょうか。それもと、神様に心を捧げようとしているのでしょうか。聖書にある第一の戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」であります。まさに、主である神様には誠心誠意、全身全霊をもって、自らをささげなければなりません。脇見をしている余裕はありません。わき見運転怪我のもと、ではなく、わき見信仰死に至る、のであります。ですから、キリスト者がかえって、「世に心を捧げる」とはむずかしいことなのかも知れません。しかし、中途半端に陥ってしまう可能性はあるでしょう。二頭追うもの一頭も得ずとも言われます。「世に心を捧げる」ことがむずかしいのであれば、神様に心を捧げることに専念してみましょう。

「仕える」とは、仕える相手に敬意を表しつつ、その人のために働くことであると思います。この世の中で生きてはいますが、神以外の何かに仕えているのでしょうか、また仕えようとしているのでしょうか。そもそも、「仕える」という感覚が、この日本の社会の中で、今の私たちの中で、ありうるのでしょうか。「奴隷」として「仕える」のではなく、精神的に「奴隷」として「捕らえられる」ことは、日常茶飯事に起きることなのかもしれません。しかし、「仕える」とはもっと積極的行為であります。世に仕えることはないかもしれませんが、神に仕えることは、神を見上げることであり、世にいて、世に交わっていても、神を見上げることはできるのではないでしょうか。それ相応の危険は伴うかもしれません。世と交わる中で、精神的に世の奴隷になってしまうことはあることです。仕事や趣味や家事や、それに育児にも没頭すれば没頭するほど、それらの奴隷となってしまうことはあるでしょう。それにならないようにするためにも、教会生活は大切なのです。同じ信仰をもつクリスチャンとの交わり、それがたとえ一週間に一度でも、その交わりは、共に神に仕え、世の奴隷にならないためにも大切です。

三番目は「宝」です。イエス様はおっしゃいます。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)では、「天に宝をたくわえる」とはどういうことでしょうか。ある例として、イエス様が金持の青年将校に告げた言葉があります。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)財産を放棄するだけではなく、その放棄する財産を貧しい人たちに分け与える、つまり世の富で友だちを作ること(ルカ16:9)と同じことをしなさいとイエス様はおっしゃったのです。

話を「生ける神の宮」に戻します。イエス様を救い主キリストと信じた時点で、聖霊様が私たちの心にお住まい下さり、私たちは「生ける神の宮」とされます。しかし、神様同様、具体的に見えるものではありませんので、どのように、神の宮としての聖さを保つかということが重要になってきます。私たちは、この世に住んでいる限り、なにがしかの関わりを世に求めざるをえません。しかし、それは、百も承知で、神様はパウロを通しておっしゃっておられるのです。「生ける神の宮」としての行動の中に、神様に祈り、賛美を捧げることも大切です。しかし、今朝、イエス様に導かれたのは、「生ける神の宮」として、「神を愛する」こと、「神に仕える」こと、そして、「天に宝を積む」ことです。そして、これらの事が、主の栄光が現われるためになされることによって、私たちは主の証し人となり、世の光とも、また地の塩ともなりうるのではないでしょうか。

さて、天国長屋の八さん熊さん、「生ける神の宮」として、どのようなことが大切、または難しいと思われますか。

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八: 「生ける神の宮」として、何が大切かって、おらぁ、やっぱり、「神様をいつも思う」ということかな。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」って、格好はいいんだけど、俺には、よく分かんねぇんだ。だから、神様といつもお話しして、神様にありがとうございますって感謝することが、おれの精一杯かも知れねぇ。もちろん、聖書も読むんだけどな。熊はどうだい。

熊: おれには、「天に宝を積む」っていうところが、大事だと思うんだ。とくに、人に知られずにこっそりといいことをしてぇもんだ。イエス様、おっしゃったよな。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」って。おらぁ、報いが天に積む宝だと思ってんだ。人に知られないように良いことをするっていうもの難しいぜ。なにせ、「右の手でしていることを左の手に知られないように」(マタイ6:3)って言われるぐれぇなんだから。

八: そうだよな。下手に知られて、ほめられた日にゃあ、嬉しい反面、がっくりだ。せっかく天に宝を積んだと思ったのに、人に知られて褒められて、水の泡だ。なかなか、人知れず良いことをするっていうのも苦労する。

熊: この季節、サンタクロースも大変だ。見られないようにこっそりとプレゼントを置いてかえるんだけど、みんながサンタクロースが置いていったって知ってんだから、サンタもなかなか天に宝をつめねぇや。

八: いやいや、サンタは天に宝を積むんじゃなくて、ソリに積むんだよ。

――――――――――

あら、八さん、熊さん、もう終わりですか。今日は短かったですね。八さんは、「生ける神の宮」として、神様をいつも思って、会話するんですね、熊さんは「天に宝を積む」。いいですね。わたしは、生涯、「生きることはキリスト」と言い続けて、主を証ししたいと思います。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「生ける神の宮」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。世に必要以上に交わる必要はありませんが、私たちは世に生きていて、主を証しする者でありたいと願います。また「主を愛する」こと「主に仕える」こと、そして「天に宝を積む」ことも考えさせていただきました。

祈りの前に、マタイの福音書16章27節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがてこようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」

(3分間黙想)Sing hallelujah to the lord

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「生ける神の宮」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。この世で生きている限り、「生ける神の宮」として、ふさわしい行動ができますよう、私たちを最後まで見守って下さい。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Sing hallelujah to the lord

https://www.youtube.com/watch?v=OIlSpEWunWo

Amazing Grace

Amazing grace how sweet the sound

That saved a wretch like me.

I once was lost but now am found,

Was blind but now I see.

(訳)

アメージング・グレース  何と美しい響きであろうか

私のような者までも救ってくださる  道を踏み外しさまよっていた私を

神は救い上げてくださり  今まで見えなかった神の恵みを  今は見出すことができる

https://www.youtube.com/watch?v=rO5GSLWodxo

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。