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メッセージ主題:『喜んでする献金』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第二』

2020時年1月5日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌350「主の恵みを語るは楽し」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「御腕にいだいて」

交読: 交読文39:詩篇 第122篇:新聖歌p.911-911

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌172「望みも消え行くまでに」

聖書拝読:コリント人への手紙第二9章6節~10節(新改訳聖書)

中心聖句:

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(7)

メッセージ主題:『喜んでする献金』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『主にあって富む者に』と題しまして、神様からの語りかけに心をよせさせていただきました。

コリント第二第8章は、自発的な献金、とくに苦難な中にある諸教会への献金を奨励しています。先週の中心の御言葉のように、主が豊かさを私たちに分け与えてくださったように、私たちも財政的に諸教会をサポートしなければいけないと、パウロは説いています。このように、この8章の主題は、他教会への援助でありますが、そのすすめの中で、パウロの口からポロリと出てきた真理が、先週の御言葉であります。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」先週はこの真理を再確認させていただきました。

今朝は、『喜んでする献金』と題しまして、神様からの御声に耳をかたむけたいと思います。

コリント第二第9章では、パウロは、困難の中にあるエルサレム教会の支援のための献金をうながしています。キリスト教会では、よく献金が問題となり、それに躓く人がでます。それは、「什一献金」という目安があるからです。今朝は、この献金について、主に導いていただきたく思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

キリスト教会の什一献金とは、旧約聖書の記述にのっとったものです。レビ記27章30節では「地の十分の一は、地の産物であっても木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである」とありますし、申命記14章22節では「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」とあります。早い話、収入の十分の一、つまり10パーセントを神様に捧げなさいというのです。

しかし、この献金、まあ、当時では、収穫物をささげることになるのですが、この規定があるということは、これを守っていない人も多くいたはずだということです。この献金は税金ではありませんから、自由です。自由なので、10パーセントというのは、だいたいの目安でしかない場合も多いでしょう。献金は、神様と個人の、個人的な問題です。教会と個人の問題ではありません。ここをはき違えますと大変なことになります。確かに、神様にささげるという気持ちで、実際には教会に預けます。教会は、その献金を預かっているのであって、牧師個人の所有でも、役員会の所有でもありません。勝手に使うことは許されないのです。もし、牧師や役員会がワンマンで自由勝手に教会のお金を使うようになれば、神様は悲しむだけではなく、それなりの報いがくるでしょう。献金は神様のものだからです。先ほど引用しました、レビ記の「ささげものは、主の聖なるもの」であるという気持ちを忘れてしまえば、神様からの祝福は受けられません。

献金の話を10パーセントに戻しますと、実は、新約聖書には、どこにも十分の一という献金の規定はありません。ただし、今朝のパウロの記述のように、「喜んで神にささげる」ことが大切なのです。決して金額ではありません。今朝の中心聖句をもう一度お読みたします。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

パウロは心で決めたとおりにしなさいと告げています。それが、たとえ5パーセントでも20パーセントでも、自分で決めたらそのようにすればいいのです。パーセントのように割合でなくても結構です。そして捧げるときには、喜びと感謝をもって神に捧げます。

神様にささげるのは、金額ではなく心が問題なのです。詩篇では、次のように記しています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまされません。」(詩篇51:17)神への一番の献げものは、砕かれた、悔いた心、感謝と喜びに満ちあふれた心なのです。とはいえ、実際、献金は必要です。教会の活動費や牧師への謝礼など、心を形に表していくのが献金です。

では、そもそもの話に戻りますが、収入の十分の一を神様にささげるというのは、現実的に可能な数字でしょうか。十分の一の献金は月初めにささげることが多く、残りの十分の九で、生活をしていきます。そうしますと、あまり贅沢はできなくなり、節約する知恵が与えられます。収入の十分の九で、ひと月をやりくりすることは、大変かもしれませんが、我慢することも覚え、また神様に感謝することも多くなるのです。いろいろと神様が助けてくださっていることに敏感になるからです。なによりも、自分(の欲)をあきらめて、自分自身を神様にささげていく、そのような生き方ができれば最高であると考えるのが、クリスチャンだとしたら、献金自体はクリスチャン冥利につきるのであります。まさに、2コリント9章6節で、パウロが言う、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」このように、自らの収入に応じて、精いっぱいの献金は、豊かな喜びが伴うのです。

イエス様はこうおっしゃいます。涙でイエス様の足をぬらし、自らの髪の毛で、イエス様の足をぬぐった女性のことについてです。「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」つまり、自分の罪が赦されたという感謝の気持ちが足をぬぐうという形になり、ひいては献金というかたちになるのです。金額のことを申し上げているのではありません、献金という行為が感謝の現われであると申し上げているのです。

どうか、献金のことでつまずかないでください。献金する行為自体が、神様を愛し、神様に感謝する形であるのです。プレッシャーに感じる必要もなければ、強制されるものでもありません。また、献金の時には、「神様、ありがとうございます」と心の中で言いながら、差し出すようにいたしましょう。決して、牧師や教会に対して「ありがとう」ではなく、その上にいらっしゃる神様に、感謝の気持ちをそえて、献げてください。

さて、天国長屋の八さん熊さん、「献金」のことについて、何かご意見がございますか。

――――――――――

八: まだ、神様を信じていないときに、献金袋や献金の係の人が回ってくるのが、プレッシャーだったなぁ。まあ、礼拝堂の後ろにひっそりと置いてくれているところは、そのプレッシャーもあまりなかったけど。その時は、献金の意味がわからねぇんだから。しかたがねぇやな。

熊: そうそう、それに「ご用意のある方だけで結構です」というのはいいんだけど、「お心のある方だけで結構です」って言われたときは、ちょいと気分良くなかったな。献金しないと心がねぇみたいに聞こえて、頭ん中、クエスチョンマークだらけだった。

八: それにメッセージの前に献金するところと、メッセージの後に献金するところと、どうちがうんだろうと思っちまったもんだ。俺といっしょに来た連れなんて、メッセージの前の献金は、劇場のチケットみないなものだな、メッセージの後の献金は、説教料だなと言ってたな。もっとひでぇ奴は、ご祈祷してねぇのに金とるのかって、言ってやがった。

熊: どうも神社仏閣と比べてしまうから、そういう勘違いも起こる。ちゃんと「神様への感謝の献金」と説明してくれればいいんだけど、まあ、神様を信じていなかったときは、それを言われても分からなかったかもしれねぇな。

八: だから、おれの連れたちは、この献金でつまずいた。

熊: じゃ、八はなぜ、つまずかなかったのさ。

八: 俺ははじめ、献金は、拝観料みてぇなものかなと思ってたよ。ほら、神社仏閣にいけば、拝観料を取るところがあるじゃねぇか。神社仏閣に維持費がかかるように、教会も維持費がかかるんだろうと思っていた。宗教も金が必要なのさ。まあ、金まみれの宗教もあることだしな。けど、横丁のご隠居が教会の献金のことを教えてくれたんだ。「献金は神様への感謝の心の現われ」だって。

熊: おめぇもご隠居からかい。実は俺もご隠居に教えてもらったんだ。ご隠居が言うのにはよ、神社で賽銭投げるじゃねぇか。あの時の心は、だいたい、「今まで、お守りありがとうございます。そして、これからのお守りもよろしくお願いいたします」っていう気持ちで、賽銭投げるじゃねぇか。それと似ているところがあるかもしれねぇって言われるんだ。賽銭を投げる相手は、キリスト教じゃあ、この世をお造りになった神様さ、それに、賽銭を投げるんじゃなくて、献金袋に入れるんだけどな。だから、「ささげる」っていう気持ちが強いんだよ。

八: それに、あれだよな。俺たちが稼いだ金は、実は俺たちの物じゃなくて、神様からいただいたものだ。だから、神様にその一部をおささげし、残りを大切に使わせていただく。こういう気持ちが大切なんだって、ご隠居が言ってたな。

熊: そうそう、教会には、いろんな名前で献金がある。まず、礼拝献金にはじまって、月定献金、感謝献金、特別献金、会堂維持献金ってぇのもある。教会によって、さまざまだ。初めのころは、俺はこれも分からなかった。けど、ご隠居は、それは、人間の都合で考えた、用途に応じた名前だって。すべては、神様への感謝献金だっていうのさ。俺ははじめ、いろんな名前をつけて、お金搾り取ろうとしてんのかって思っちまったこともあった。神様おひとりなんだから、献金の名前も一本化して、感謝献金にしてくれればいいのにと思ったぐらいだ。

八: ところで、熊、おめぇは什一献金しているかい。

熊: 収入の10パーセントってやつだな。俺たちゃ、サラリーマンじゃねぇから、収入に浮き沈みがある、しかし、固定経費はほぼほぼ一定だ。だから、黒字の時もあれば赤字の時もある。だから、正直言って、10パーセント献金できねぇ時もあるし、それ以上するときもある。

八: 実は俺もそうなんだ。ご隠居に相談したら、金額にこだわらないでいいんだ、って言ってくれたよ。要は、自分を目いっぱい神様にささげているかどうか、神様といつも向き合っているかどうかなんだと。神様と向き合って、感謝して、心を神様にささげていれば、ささげる金額はおのずと分かるって。神様を喜んで、ささげるのだったら、神様はささげた以上の祝福をくださる。倍返しどころじゃねぇ、何倍にもしてくださるんだって、ご隠居はおっしゃったよ。

熊: そうだよな。それで、イエス様のたとえを思い出した。あの「タラント」の譬えのところ。

八: おっ、マタイの福音書25章のイエス様の譬えのところだね。

熊: 5タラントを主人から預かった人は一生懸命働いて、もう5タラント儲けて10タラントにした。5タラントを預けた主人とは神様だ。それに5タラント儲けさせてくださったのも神様さ。その10タラントを神様に差し出したんだけど、神様はその10タラントをそのままその人に預けることになる。ささげれば、それ以上の祝福がえられるんだ。もちろん、お金だけが祝福じゃない。人それぞれさ、その人にとって一番いいものを、神様はごほうびにくださるのさ。

八: まさに、多く愛したものは、多くの罪がゆるされている、それだけ、多くの喜びがあるっていうことだな。(ルカ7:47)

さて、こんなところで、献金の話はいいですかい、牧師さん。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。お二人とも、献金のことではいろいろ悩んだのですね。それでも、つまずかなかったのは、感謝であります。ちなみに、この教会では、「感謝献金」しかありません。

しかし、献金は金額とは関係なく、信仰の現われでもあるとも言えます。八さんが最後のところで引用したルカの福音書の7章47節のところでは、多くの罪が赦されるとは、幾度も神様の御許にひざまずき、悔い改めているからこそのことであります。そして、罪が赦されれば、安らぎがあり喜びがあります。それは、神様を愛し、神様に愛されている実感がえられるということでもあります。その実感じたいが神様からの祝福なのであります。そして、その喜びが献金へと導かれるのであります。ですから、献金は、信仰の現われでもあり、喜びの現われでもあります。ここが、神社の賽銭とは似ているけれども違うところなのです。お守りを願って賽銭するのではなく、お守りを確信し、そのお守りを感謝し献金するのです。ですから、私たちが信じる神様のお守りは、私たちの献金に左右されることはないのです。献金をしたから守られるのではなく、守られるから感謝をあらわすのです。ですから、教会の献金は、過去のことにおいても、未来のことにおいても、すべて感謝献金なのです。そして、献金は金額ではありません。

初めのころに引用しました詩篇51篇17節をもう一度お読みいたします。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまされません。」

ただいまより4分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「喜んでする献金」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。献金は、賛美と同じように、感謝をあらわし、主の御名をほめたたえるものなのです。

黙想の前に、ヨハネの福音書15章11節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

(4分間黙想)My Peace - Maranatha Singers (instrumental)

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「喜んでする献金」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか、献金のことで、人がつまずくことがありませんように。また、献金の意味を理解し、喜んで、神様におささげすることができますように。また、各教会の運営が祝され、また献金が主の目に正しい使われ方がなされますように。アーメン。

賛美:新聖歌201「イエスはわがいのち」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

My Peace - Maranatha Singers (instrumental)

https://www.youtube.com/watch?v=JJW52HNoO04

●御腕に抱いて 

いま主よ わたしの心に触れて  あたなの御腕に 抱いてください 

いま主よ わたしの心に触れて  あたなの御腕に 抱いてください 

すべてのつかれた人よ、おもに悩み負う人よ 

イエスのまえに出て行こう、すべてをいま手ばなそう

repeat×1 

repeat×2 

あなたの愛に飛び込みます。かならず受け止めてくれるから

あなたの腕に飛び込みます。かならず受け止めてくれるから 

repeat×1 

repeat×2

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。