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メッセージ主題:『人の弱さを分かろうとする』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第二』

2020時年1月19日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌339「恵みの高き嶺」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「御腕にいだいて」

交読: 交読文41:詩篇 第127篇:新聖歌p.912-912

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌203「ああイエス君 こよなき友よ」

 

聖書拝読:コリント人への手紙第二11章16節~33節(新改訳聖書)

中心聖句:

「このような外から来ることのほかに、日々私におしかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(28-30)

 

メッセージ主題:『人の弱さを分かろうとする』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

 

先週は、『主をほこる』と題しまして、神様からのメッセージをお聞きいたしました。

コリント第二第10章では、パウロが誇りとするものについて述べられています。これは、コリント教会の中の一部に、自分を高くし、他人を見下したり、扇動したりする人がいて、そのことで教会に混乱が生じているからです。先週は、パウロのいうところの「主をほこる」とはどういうことなのか、考えさせていただきました。

 

今朝は、『人の弱さを分かろうとする』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けたいと思います。

コリント第二第11章では、偽使徒が自分たちを誇っている中で、パウロは誇るなら弱さを誇ろうとしています。パウロの弱さは、パウロが受けた迫害や苦難であります。偽使徒たちは、そのような迫害や苦難をうけることなく、自らを誇っていますが、パウロはその弱さを誇ることによって、偽使徒との区別をつけ、かつ教会が受けている迫害や苦難が理解できるとしたのであります。今朝は、パウロが言うところの弱さを考えてみたいと思います。

 

短くお祈りいたします。(祈り)

 

パウロは、本当の愚か者は、自らを誇ると思っています。ですから、16節のように、「私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。」と言ったり、17節では、「愚か者としてする思い切った自慢話です」と言っています。そして、パウロは自らを「弱かった」と言っていますが、これは、自らを誇ったり、パウロのしている宣教を自慢したりしなかったことを、皮肉たっぷりに、偽使徒たちに向けていっているのです。

 

そして、22節からは、偽使徒が自慢するように、パウロもわざと自慢していきます。

「彼ら(偽使徒)はヘブル人ですか。私もそうです。」

「彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。」

「彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。」

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。」

ここからは、パウロの方が偽使徒より勝っていることを述べています。

「私の労苦は彼らよりも多い」

「牢に入れられたことも多い」

「ムチ打たれたことは数え切れず」

「死に直面したこともしばしばでした。」

そして24節からはそれらの迫害や苦難の具体例、つまり偽使徒が経験していないことを列記していきます。

 

しかし、そのような苦労の自慢話は、実は、パウロにとってはどうでもいいことなのです。本当にパウロがコリント教会に言いたかったことは、28節です。「このような外から来ることのほかに、日々私におしかかるすべての教会への心づかいがあります。」この新改訳の『すべての教会への心づかい』とは、口語訳や新共同訳では『諸教会の心配事』、リビングバイブル訳では、『諸教会がどうなるかという心配』となっています。パウロは、パウロこそが、諸教会に対して常に祈り案じていることを述べています。偽使徒はしていないことの決定打なのです。

 

パウロがなぜ、『私こそが諸教会をいつも気にかけている』と言えたのでしょうか。それは、29節に現れています。「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」さまざまな辛苦をなめてきているパウロだからこそ言えることなのです。24節から27節までの迫害や苦難の列挙はこのためにあったのです。これらのパウロの経験は、諸教会の恐怖や労苦に対して、同情以上の感情をもたらします。

 

同情という言葉には、二つの英語があります。sympathy と empathy です。同情とは、広辞苑によりますと『他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること』とあります。これは英語の sympathy に当たりますが、極端な言い方をすれば、所詮、他人事なのです。経験をしたことのない人にとっては、相手の感情を想像するしかないのです。そして、それは一時的なものにしかすぎません。一方、empathy は『共感』とも訳されていますが、同じような経験を持つものが共有できる感情であります。

 

パウロの身に起こった迫害や苦難は、諸教会が経験するものと同じであり、パウロは、そのことを『私は共感できる』、ゆえに、『私は諸教会を案じ』手紙を送るというのであります。

 

そして、偽使徒に対して最大の皮肉は、次の30節にあります。「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」ここで言うパウロの「自分の弱さ」とは、21節の「弱さ」であり、自分自身の自慢話をしたり、高慢にならなかったことを意味しています。つまり、「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分が自慢話をしたり、高慢にならなかったこと、それに対して消極的だったことを誇ります。」と言っているのです。

 

結局は、10章でも言いましたように、「誇るなら主を誇れ」と示唆しているのであります。

 

しかし、今朝は、『主を誇る』というところではなく、『人の弱さを分かろうとする』ところに焦点をあてさせていただいています。

 

パウロの一番言いたかったこと、おそらく、「人の弱さを分かる、また分かろうとする」気持ちが大切だということです。仮に、sympathyを「同情」と empathyを「共感」と便宜的に訳して考えたとき、私たちは、同情はできますが、同じような経験がなければ、「共感」は難しい。しかし、少なくとも、相手の悲しみや苦痛を理解しようと努力しないといけないのではないでしょうか。

 

また教会は人の集まりであります。その中には同じような経験をもつ人々がいるかもしれません。そうなると、教会全体で考えますと、教会は同情もできるし、共感もできるということになります。パウロは一人でそのことを担当し、諸教会を案じておりましたが、教会を信仰共同体であり、ひとつのキリストの体であると考えますと、教会内の問題だけではなく、対教会の問題にしても、「同情」と「共感」そして「祈り」へと導かれるのではないでしょうか。

 

さて、天国長屋の八さん熊さん、「同情」と「共感」、人の弱さを分かろうとする気持ち、どう思われますか。

 

――――――――――

八: 「同情」は難しいなぁ。「共感」できないくせに、「同情」しちゃうと、「同情してほしくない」と言われちゃうときもあるから。

熊: そうだよな。「私の気持ちなんで分からないのに、同情しているふりもをするなんて、偽善者だわ」って言われそうだしな。だけど、心が折れそうになっている人には、寄り添っただけでも心が軽くなるときがあるらしいし。

八: まったく難しいもんだよ。おれは、そういう時は、イエス様に祈ることにしてんだ。

熊: ほう、どのように祈るんだい。

八: 「神様、ある人が悩んでいます。私にはどうしてあげればよいのかわかりません。どうか、その人に助け手をお送りください。その人に必要な人や環境を備えてください。また、私にできることがあれば、そのことをお示しください」てな感じで祈るんだよ。

熊: なるほどね。自分がすぐに動くのではなくて、すべてをいったんイエス様におあずけして、お願いするんだな。

八: 無責任と思われるかも知れねぇけどよ。人間的に考えて、良かれと思って動いても、それが正しいとは限らねぇ。かえって傷つけてしまうこともある。だから、俺は、一番正しいイエス様に、真っ先にお願いするのさ。

熊: それは、病気を治してもらうときのお祈りと同じだな。俺たちゃ、医者でも看護師でもねぇ。だから、医者や看護師にゆだねるしかねぇんだけど、俺たちゃ、「どうか、その人が癒されますように。医者や看護師の手が守られ、最善の処置がなされますように」って祈るよな。

八: そうそう、それと同じなんだよ。何かの理由で落ち込んでいる人は、病気じゃねぇかもしらねぇけど、ド素人の俺たちには手に余るんだ。だから、祈るしかねぇんだよ。

熊: 隠居がこんな風にいってたな。「人の話を聞くときには、まずその前に祈りなさいって。クリスチャン同士だったら、祈り合えばいいし、クリスチャンじゃあねぇ人の相談だったら、少なくても心の中で祈りなさい」って。

八: それで、ご隠居は、どんな風に祈れって言ってた?

熊: 「その人の言いたいことがちゃんと聞けますように。聞いている間に、答えが出せるときにはそのようになさってください。」って祈るんだと。

八: なるほどね。つまりは聞き上手になれっていうこったな。

熊: そうだな。俺たちゃ、なにか、こういいアドバイスはできねぇもんかと考えちまうところがある。けどよ、同情できても共感できねぇもんが、とやかく言っても仕方がねぇさ。そりゃ、まるで、テレビの茶の間の、コメンテーターみないなもんさ。なんの責任もなく、あれやこれやと自己満足的に言っているだけなんだから。ほんとうに親身になっている人は、あんなところにでて、くっちゃべっちゃぁいないんだよ。

八: あぶねぇ、あぶねぇ。俺たちもそうならねぇ、ように気を付けねぇとな。

熊: まあ、俺たちみたいなものに、相談にはあまりこねぇけどな。相手も人見るさ。それはそれで幸いだけどな。

 

――――――――――

 

八さん、熊さん、ありがとうございます。聞き上手になるっていうのは、なかなか難しいですね。わたしも勉強になりました。まず、祈って聞く。これ大事ですね。聞くという行為は、一種の同情や共感の現われでもあるかもしれません。私たちは、聞くということをもっと大切にしてみましょう。それはあたかも、主のみ言葉に耳を傾けるように、ただしみ言葉のように聞き従うのではなく、相手の言うことに辛抱強く耳を貸すことも重要であります。

 

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「人の弱さを分かろうとする」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。人の弱さを分かろうするということは、まず聞くことから始まるのではないでしょうか。そして、聞く前に祈りましょう。祈りあいましょう。

 

黙想の前に、マタイの福音書13章22節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことである。」

 

(4分間黙想)Maranatha! Praise Strings - He Is Able (Instrumental)

 

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「人の弱さを分かろうとする」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちが、つねに人の弱さにも気づかいのできる者になるよう、まずは主に耳を傾けることができますように、おみちびきください。主イエス様の御名により、お祈りいたします。

 

賛美:新聖歌232「弱き者よ われにすべて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

 

 

 

黙想時の歌

Maranatha! Praise Strings - He Is Able (Instrumental)

https://www.youtube.com/watch?v=ForduraTgQU

 

 

●御腕に抱いて 

 

いま主よ わたしの心に触れて  あなたの御腕に 抱いてください 

いま主よ わたしの心に触れて  あなたの御腕に 抱いてください 

すべてのつかれた人よ、おもに悩み負う人よ 

イエスのまえに出て行こう、すべてをいま手ばなそう

 

repeat×1 

repeat×2 

 

あなたの愛に飛び込みます。かならず受け止めてくれるから

あなたの腕に飛び込みます。かならず受け止めてくれるから 

 

repeat×1 

repeat×2

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。