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メッセージ主題:『キリストにコントロールされる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第二』

2020時年1月26日

礼拝前祈祷:8:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:9:00

賛美: 新聖歌316「御言葉なる」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「御腕にいだいて」

交読: 交読文42:詩篇 第130篇:新聖歌p.912-913

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌261「流し給いし」

聖書拝読:コリント人への手紙第二12章1節~10節(新改訳聖書)

中心聖句:

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(9-10)

メッセージ主題:『キリストにコントロールされる』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『人の弱さを分かろうとする』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。

コリント第二第11章では、偽使徒が自分たちを誇っている中で、パウロは誇るなら弱さを誇ろうとしています。パウロの弱さは、パウロが受けた迫害や苦難であります。偽使徒たちは、そのような迫害や苦難をうけることなく、自らを誇っていますが、パウロはその弱さを誇ることによって、偽使徒との区別をつけ、かつ教会が受けている迫害や苦難が理解できるとしたのであります。先週は、パウロが言うところの弱さを考えさせていただきました。

今朝は、『キリストにコントロールされる』と題しまして、神様からのメッセージを心にとどめたいと思います。

コリント第二第12章では、パウロは誇らざるをえない、神のすばらしい啓示について語ります。キリストがパラダイスまでひきあげられ、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたとパウロは告げるのであります。つまり、キリスト・イエスは神の右に座し、神の子として、君臨したのであります。キリストの力がパウロをおおい、ゆえにパウロは喜んで自分の弱さ、未完成さを誇ると主張するのであります。人の弱さに万能の主の力が臨み、かえって強くなるからであります。罪深いものが、主の贖いによって、罪なき者とされるからであります。また、未完成な者が、主が補われることによって、完成へと導かれるからであります。今朝は、このことを学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。(祈り)

コリント人第二の手紙の10章から、「誇る」ことがテーマのようになっています。10章では、17節のように「誇る者は、主にあって誇りなさい」、11章では、30節に、「どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」、そして12章では、9節のように、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」。

パウロは、人間の弱さ、そして未完成を逆手にとり、「主にあって弱さを誇ろう」と信徒を励まします。だれでも、弱さは持っています。肉体的な弱さ、精神的な弱さ、そして罪に対しての弱さであります。ほかに弱さを語りだすと、いろいろと出てくるのではないでしょうか。みんな、弱さをもっていますが、その弱さを隠そうとします。なぜなら、弱さを見せるというのは、弱みを握られている、弱みを握られて相手にコントロールされる、行動や思考が制限されるのではないかという不安が付きまとうからであります。誰一人、他人からコントロールされ、自由を奪われている状態に陥りたくないのです。当然です。みんな自由でいたいのです。

では、弱さを隠すと自由なのでしょうか。私たちは、自由でありたいと願いつつ弱さを隠しますが、実は、その弱さによって不自由になってはいませんでしょうか。例えば、私には見栄っ張りという弱さがあります。どうしても人目を気にしたり、人からの評価を気にしたりするところがあります。ですから、私をコントロールしようと思えば、この見栄っ張りなところを、うまくくすぐって、誘導すれば、私をたやすく操れるのであります。ですから、そうはさせまいと「見栄っ張り」な部分を隠そうとするわけです。その隠そうとする努力によって、私は、実際、不自由なのです。人は弱さを隠そうとすれば、その隠そうとする力によってがんじがらめになってしまうことがあるのです。

問題は、「弱さを見せる」相手なのです。他人に弱さを見せるというのではなく、キリストに弱さを知っていただく。もちろん、神さまは、私たちが言うまでもなく、私たちの弱さをご存じです。しかし、あえて、神さまは私たちの口から私たちの弱さを聞こうとされるのです。神さまは私たちの告白を待っています。弱さを打ち明けることを待っていてくださるのです。

「弱さを打ち明ける」ということは、別の言葉では、「白旗上げて降参する」ということです。神様の統治下におかれるということです。もっと言えば、神さまにコントロールされるということです。私たちの主であるイエス・キリストに降伏し、すべてをゆだね、主の言いなりになるということであります。なにか、こう「言いなりになる」と言いますと、マイナスのイメージが漂うわけですが、主は私たちに一番良いことをご計画されておられると信じるのであれば、「主の言いなりになる」ことは、もっと言えば、「キリストに私たちの行動や思考をコントロールされる」ということは、私たちを正しい方向へと導いてくださっているということです。

私たちは常に、「主の導き」を祈り願いますが、「主によるコントロール」を、口に出して祈りません。なぜでしょう。もちろん「コントロール」という言葉の威圧感もあるでしょう。しかし、「お導き下さい」という祈りの中に、辛口に申しますと、まだ「自分」が残っているのです。あわよくば、自分の願う方向に主が導いてくださいますようにと、まだまだ心の中心に自分の影があるのであります。

英語のHillsong というワーシップソングの中に I Surrender というタイトルの曲があります。また、私が青年の時にアメリカで歌っていた Maranatha Singers の I surrender という曲や、歌手は分からないのですが、よく口ずさんでいた曲 All to Jesus I Surrender という曲があります。このsurrender という英語は、「明け渡す、降参する、屈服する」という意味です。つまり、「白旗上げて、降参して、捕虜となります」ということであります。

昔の戦争映画で「大脱走」というアメリカ映画があります。スティーブ・マックィーンやジェームス・ガーナー、チャールズ・ブロンソンなど、豪華キャスト共演の映画で、ドイツ軍の捕虜となった連合軍が集団脱走を図るという物語です。実際のモデルがあったそうですが、彼らは捕虜となったにも関わらず、脱走を試みるのであります。彼らの言い分は、「脱走こそが、捕虜となった兵士の戦いである」というようなことで、脱走という形でドイツ軍と戦うのであります。戦闘シーンのない戦争映画でした。彼らは、実際には敵に対して surrender はしていません。ところが、日本人が捕虜になると、虎が借りてきた猫のようにおとなしく従順になり、日本人の捕虜こそが、surrender していたそうです。

私たちはどうでしょうか。神様に弱さを見せ、自分をすべて明け渡して、白旗上げて、捕虜となりますと降参したにも関わらず、「大脱走」のアメリカ軍よろしく、どこか、まだ主に抵抗していませんでしょうか。「主よお導きください」と言いつつ、まだ自分の思いを保留していませんでしょうか。

それは、裏返せば、まだ神さまの絶対であり絶大なる力を信じ切れていないところがあるということです。もっと言えば、神さまを本当には、畏れていないのです。ひれ伏していないのです。どこか、神さまと対等な気持ちがあるのかも知れません。イエス様は私たちを友と呼んでくださいました。だから、イエス様に対して馴れ馴れしくしすぎているのかもしれません。

パウロは言います、「キリストの力が私をおおう」と。口語訳では「キリストの力が私に宿る」とあります。また、パウロは、主の言葉として、次のように紹介しています。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」それは、「キリストの力が宿り、完全に現われる、つまり完成される」ということであります。

「主に弱さを知っていただく」ということは、「主に自分を明け渡し、降参する」ということであり、「主の力を信頼し、従っていく」ということであります。主に自分の人生をコントロールしていただくということでもあります。主のコントロールのもとにあって、私たちは自由なのです。分かりにくいかも知れませんが、「あなたの弱さは、あなたを不自由にしているのです。ですからキリストの力が完全に現われ、その時点で弱さは、弱さではなくなり、あなたは自由になるのです。」

主を全く信頼し、主に自分の弱さを打ち明けましょう。そして、主の力によって自由にしてもらいましょう。あなたの人生を主にコントロールしてもらって、喜びの人生を歩ませていただきましょう。

さて、天国長屋の八さん熊さん、あなたたちは、「イエス様いのち」だとお聞きしましたが、イエス様によって、あなたたちの人生はコントロールされていますか。

――――――――――

八: おい、熊さん。今日の牧師さん、えらい力はいってるなぁ。俺たちの人生、イエス様にコントロールされてるか、だって。

熊: あたりまえのこんこんちきじゃねぇか。え、俺たちゃ、「イエス様いのち」さ。イエス様に俺たちのいのちを預けたんだ。ということはよ、イエス様が俺たちのいのちを煮て食おうと焼いて食おうと、俺たちは、「どうぞ」っていうしかねぇじゃねぇか。俺たちのいのちは、もう俺たちのいのちじゃあ、ねぇんだから。

八: だよな。それは、アブラハムの気持ちと一緒だろうよ。アブラハムはやっとできた跡取りの一人息子のイサクを、神さまに「ささげなさい」と言われた時、自分の気持ちとしては、そうはしたくねぇ。けど、神さまからくださった約束の息子だ。神様がくださったんだから、神さまがささげろとおっしゃるなら、仕方がねぇ。そうしようという気持ちと、いや神様は星の数ほどの子孫繁栄を約束されて、イサクをくださったんだから、イサクは死んでも生きるんだという、なんか訳の分からねぇ確信みたいなものが与えられたにちげぇねぇんだ。アブラハムは神様の言いつけに従った。神様への信仰のテストにパスしたんだよ。つまりは、アブラハムも神さまに従い、コントロールされていたとも言えるんじゃねぇか。

熊: 神様に白旗上げるということは、俺たちは神さまの手の中にいるということだ。どうあがこうと、そこから出られねぇし、でちゃぁいけねぇんだよ。俺たちゃ、守られてんだから。イエス様のコントロールっていうのは、愛のコントロールさ。

八: なんでも、「愛」をつければ、万事収まるっていう感じだけど、神さまの愛には、優しさと厳しさの両方ともあるからな。まるで、羊飼いの杖みないなものさ。はぐれないように、また目的地にたどりつけるように、導いてくださるのさ。

熊: 今で言ったら、カーナビみたいなものか。

八: いや、カーナビは、ただ道を示すだけだろ。俺が思っているのは、目的地を入力したら、すべてやってくれる、運転もさ。アクセルもブレーキも車間距離もぜーんぶやってくれる。すべて主によるお任せ運転だな。目的地は永遠のいのち。

熊: それじゃ、結構楽じゃねぇか。

八: 本来はな、楽なはずなんだ。けど、人間はどうも手動に切り替えたがる。今の車のナビだって、それに従っていたら、一番いいのに、指示に従わずに、自分が信じた道や通り慣れた道を行きたがる。結局、迷いに迷って遅れてしまうこともある。神様の指示に従う時に、自分の我がでてしまうから、案外難しいんだ。

熊: なるほどねぇ、俺たちも気を付けねぇとな。自分の我っていうのは、弱さでもある。あらかじめ弱さをイエス様に知っていただいてもらっておかないとな。

八: 弱さを知っていただくっていうのが、自分を明け渡すってことの始まりなんだろうねぇ。

熊: ということは、弱さをかくしたままじゃ、明け渡したことにはなんねぇんだ。

八: そりゃそうよ。キリストの力は弱さのうちに完全に現われるっていうんだから。弱さは死ってもらわないとな。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。最新のカーナビのように、主はすべてをコントロールし、守ってくださるから、信頼してお任せすればいいんですね。それと、自分の弱さを、イエス様に告白し知っていただかないと、主に自分を明け渡したことになりません。つまり主のコントロールがききません。「キリストの力が弱さのうちに完全に現われる」ことにならないのです。どうか、イエス様にまずご自分の弱さを告白してみましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「キリストにコントロールされる」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。完全なる降参をし、キリストの力が弱さのうちに完全に現われるために、まずご自分の弱さを主に告白し知ってもらうことから始めてみてください。

黙想の前に、マタイの福音書5章3節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

(4分間黙想)All To Jesus I Surrender by Robin Mark Lyrics

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「キリストにコントロールされる」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。主に弱さを告白し、主にすべてを明け渡し降参しましょう。主が私たちの弱さに主の力を注いでくださって、弱さに完全に主の力が現われ、私たちを自由にしてくださいますかから、感謝いたします。この祈りを主イエス様の御名により、御前におささげいたします。

賛美:新聖歌136「御霊よ降りて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

All To Jesus I Surrender by Robin Mark Lyrics https://www.youtube.com/watch?v=SW8EA7DEQ2M

●御腕に抱いて 

いま主よ わたしの心に触れて  あなたの御腕に 抱いてください 

いま主よ わたしの心に触れて  あなたの御腕に 抱いてください 

すべてのつかれた人よ、おもに悩み負う人よ 

イエスのまえに出て行こう、すべてをいま手ばなそう

repeat×1 

repeat×2 

あなたの愛に飛び込みます。かならず受け止めてくれるから

あなたの腕に飛び込みます。かならず受け止めてくれるから 

repeat×1 

repeat×2

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。