· 

メッセージ主題:『誰の歓心を買おうとするのか』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ガラテヤ人への手紙』

2020時年2月9日

聖書拝読:ガラテヤ人への手紙1章1節~10節(新改訳聖書)

中心聖句:

「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(10)

メッセージ主題:『誰の歓心を買おうとするのか』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『真理のためなら』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。

コリント第二第13章では、パウロは、自分自身の信仰をチェックしなさい、主にあって完全な者・正しい者となりなさい、一つ心となりなさい、とコリント教会を励ましています。しかし、そのことを成してくださるのは、自らの力や能力ではなく、キリストをよみがえらせた神の力であると強調しています。聖霊様が内から働いてくださるのは、神の栄光が現われるためであり、純粋に福音のためなら、どんなことでも可能となるのです。先週は、そのことを学ばせていただきました。

今週から、ガラテヤ人への手紙に入ります。ガラテヤ地方とは、黒海と地中海にはさまれた小アジア地域の山間地区を示し、パウロが3回の伝道旅行で立ち寄った、アンテオケやイコニオムやルステラやテルベという町にある教会にあてた手紙であります。これらの町にあるキリスト教会では、ユダヤ主義者に影響され、「救われるためには割礼を受けなければならない」といった考え方が教会内で横行していました。また、パウロは十二使徒には含まれていないのに、使徒の働きをしていることへの非難もありました。おもに、それらのことを払拭するために、この手紙をかかれたと考えられています。

その中で、今朝は、『誰の歓心を買おうとするのか』と題しまして、神様にメッセージを導いていただきます。

ガラテヤ書1章は、唯一の福音のことと、パウロの使徒としての神様からの任命のことが記されています。キリストの十字架上での贖いと復活が唯一の福音のはずなのに、ユダヤ教の割礼を重視した教えが、入り込み、そのことによって、教会が混乱していることに、パウロは危惧しているのです。ですから、手紙の冒頭部分4節で、キリストの福音の神髄を述べて、それに他の教えを足しても、また割愛してもいけないことを諭しています。ガラテヤの諸教会の教会員は、ギリシャ系ユダヤ人が多く、本家本元のエルサレムでの生粋のユダヤ人が割礼を重視した教えを説くと、彼らの信仰は、どうしてもゆらぐのであります。ゆえに、パウロは、この4節のキリストの福音だけを思うようにと勧めるのであります。そして、10節で、「世と迎合すること」「人の歓心を買うこと」「ほかの教えを受け入れてしまうこと」に警笛を鳴らします。今朝は、私たちの心に巣づくっているそのような弱さを探っていただきましょう。

短くお祈りいたします。(祈り)

まず、4節のキリストの福音の神髄を、私たちの心に確かなものとさせていただきましょう。

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」これだけでしたら、キリストの死者からの復活が記されていませんので、片手落ちです。しかし、それは、1節の後半に「キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神」と前置きがありますので、この1節と4節で完全となります。

では、私たちは「私たちの罪のためにご自身をお捨てになられた、キリストが、私たちの神であり父である方によって死者の中からよみがえられたこと、そして、それは父なる神のみこころであった」ことを信じているのでしょうか。そして、「イエス・キリストを信じることによって、私たちの心に聖霊様がくだり、私たちの心に住まわれて、私たちを永遠の御国へといざなう。キリストとともに、天の御国の共同相続人とされる」ことを確信しているのでしょうか。

それ以外に何か付け足したりしてはいないでしょうか。例えば、献金をしないと救われない、とか、他の人を導かないと救われない、とか、教会の奉仕を熱心にしないと救われない、とか。救いは、イエス・キリストをただただ信じる、その単純なる信心によるのであって、それ以上になにも付け足してはいけないのです。皆さんは、そんな付け足しは思ってもいませんとおっしゃるでしょう。そして、それは皆さんの真実の言葉だと思います。

では、もう少し、見方を変えてみましょう。他の人が献金をしなかったら、その人を裁いてはいませんでしょうか。教会での奉仕をしなかったら、ずるいとちょっとでも思ったりしてはいませんでしょうか。皆さんは、できる限りの献金もし、教会奉仕も一生懸命し、聖書も熱心によみ、礼拝も居眠りもせずに、御言葉に耳を傾け感謝している。しかし、礼拝は出席するが、献金もせず、礼拝後の交わり会で食事をいただき、さっさと帰ってしまう。もしも、そんな人がいたとしたら、あなたは、その人たちを裁かないでしょうか。仮に、裁かなかったとしても、その人たちのことを祈っているでしょうか。

信仰的に熱心になればなるほど、知らないうちに人を裁いてしまう弱さを、実は、私の心の中にもあります。自らの信仰を高めるだけでいいのに、どうして人を裁いてしまうのでしょうか。実はその熱心の中に、「人によく見られたい」という思いが入っていることも、その要因のひとつではないでしょうか。「私は一生懸命にやっていますよ」というアピールですが、なぜ、そのアピールを神様にではなく、人に対してしてしまうのでしょうか。私たちは、どうしても「傍目(はため)」が気になってしまう。神様にアピールすればいいのですが、また、そのように「神さまにほめてもらいたい」と思っていたのにもかかわらず、人に「あなたはよくやってるね」と認められてしまうと、それまでのアピールも人に向かってしまう。私自身も情けないなと思うことが多々あります。

しかし、パウロはきっぱり言うのです。10節「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」

パウロは、「人にではなく、神に取り入っている」「キリストのしもべとして、人の歓心を買おう、人にほめられようとはしていない」と断言するのです。私は、つねづね、パウロのようになりたいと思っているのですが、私とパウロの決定的な違いは、この10節のところなのです。パウロのようにきっぱりと言えない、弱い自分がいるのです。いえ、この10節に、打ちのめされるのです。「真のキリストのしもべ」になりたいと思う反面、その目標と自分の姿とが、まだまだかけ離れていることに愕然とするのです。もちろん、自分の力で、「真のキリストのしもべ」になれるはずはありません。心の内に住み給う聖霊様によって、古い自分の薄皮を一枚一枚はがされながら、近づいていると期待しています。しかし、期待しながらも、心はゆれるのです。

イエス様はおっしゃいます。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)善行や祈りや献金や断食や教会の奉仕やその他もろもろ、人が見てしまうのは仕方ありません。しかし、イエス様は、「人に見せるために」「人にほめられるために」「人に認めてもらうために」「人に取り入るために」それらのことをしてはいけないとおっしゃるのです。なぜなら、人に見せるためにする善行をする時の心は、この世にあるからです。イエス様はおっしゃいます。「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」(ルカ12:34)天のお父様に心を寄せるなら、私たちの宝は天にあるのです。天のお父様から、報いを受けるようになるのです。

周りの人の信仰が、熱くても冷たくても、それに心を止めるのではなく、天のお父様に、心を置いて、感謝をもって、すべての事にあたることができますように祈りましょう。また、周りの方々のために祈りましょう。ほめていただく相手は、天のお父様であり、この世ではありません。主にある兄弟姉妹でもありません。ただただイエス様とお父様に、救いの感謝をもって、ご奉仕させていただきましょう。

今日は、天国長屋の八さん熊さんは、ブライダルのお手伝いに行っておりますので、メッセージはこれまでとさせていただきます。

お祈りの前に、イエス様のお言葉をお読みいたします。ルカの福音書6章31節、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」35節、「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」36節、「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」37節、「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪にさだめてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「誰の歓心を買おうとするのか」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちはよく人にアピールするために行動する弱さをもっています。どうか、この弱さを主によって変えてくださいますように。真のキリストのしもべを目指して、主を見上げつつ進ませてください。この祈りを主イエス様の御名により、御前におささげいたします。アーメン。