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メッセージ主題:『神の恵みを無にしない』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ガラテヤ人への手紙』

2020時年2月16日

礼拝前祈祷:8:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:9:00

賛美: 新聖歌136「御霊よ降りて」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「主の栄光宮に」(末ページに記載)

交読: 交読文44:詩篇 第139篇:新聖歌p.914-915

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌378「罪の世人らに」

聖書拝読:ガラテヤ人への手紙2章15節~21節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(20)

メッセージ主題:『神の恵みを無にしない』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『誰の歓心を買おうとするのか』と題しまして、神様にメッセージを導いていただきました。

ガラテヤ書1章は、唯一の福音のことと、パウロの使徒としての神様からの任命のことが記されています。キリストの十字架上での贖いと復活が唯一の福音のはずなのに、ユダヤ教の割礼を重視した教えが、入り込み、そのことによって、教会が混乱していることに、パウロは危惧しているのです。ですから、手紙の冒頭部分4節で、キリストの福音の神髄を述べて、それに他の教えを足しても、また割愛してもいけないことを諭しています。ガラテヤの諸教会の教会員は、ギリシャ系ユダヤ人が多く、本家本元のエルサレムでの生粋のユダヤ人が割礼を重視した教えを説くと、彼らの信仰は、どうしてもゆらぐのであります。ゆえに、パウロは、この4節のキリストの福音だけを思うようにと勧めるのであります。そして、10節で、「世と迎合すること」「人の歓心を買うこと」「ほかの教えを受け入れてしまうこと」に警笛を鳴らします。先週は、私たちの心に巣づくっているそのような弱さを探っていただきました。

今朝は、『神の恵みを無にしない』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。

ガラテヤ書の2章は、まず、エルサレムでの使徒会議によって、宣教のすみわけがなされたことを記されています。割礼をうけているユダヤ人に対しての福音宣教は、ペテロを中心とする使徒たちが、割礼をうけていない人々に対する宣教は、パウロやバルナバが中心となるということです。しかし、パウロは、この割礼をうけたかうけないかという宣教のすみわけは別にして、割礼自体は、福音をうけるのに必要ではないということを常に強調しています。それは、エルサレムでの使徒会議で、使徒ペテロが次の結論をだしたことに同調します。ペテロはことように言いました。「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たち(つまり割礼をうけていない人たち)もそうなのです」(使徒15:11)つまり、割礼を受けているかどうかは、福音の恵みをうけるのには関係がないと告げたのです。そのことは、パウロがずっと主張しつづけたことでした。そして、このガラテヤ書2章の15節からは、「すべての人は信仰によって義とされる」ことを説くのであります。今朝は、その福音の中心となる信仰義認のことを、再確認させていただきましょう。

短くお祈りいたします。(祈り)

「信仰義認」という言葉は、神学用語でもありますので、難しく感じられるかもしれませんが、簡単に言いますと「信じるだけで救われる」ということです。パウロは今日のガラテヤ書2章16節で、次のように説いています。「人は律法の行ないによって義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。」「義」とは神様の正しさであります。私たちは、良い行いをすることによって、神さまから「正しい・聖い」と認められるのではなく、神さまのひとり子であられるイエス・キリストを信じる、つまり、イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかり、イエス様のいのちによって、神さまに私たちの罪を赦していただき、三日目に死者の中からよみがえって、イエス様を信じる者が永遠のいのちにあずかれるようにと、イエス様を信じた時点で、聖霊様を私たちの心にお送りくださり、聖い者、罪を犯しにくい者へと導いてくださる、そのことを信じるだけで、神さまから、最終的に、「正しい・聖い」者と認められ、天の御国に入ることを許され、永遠のいのちにあずかれるのです。ただ単純にイエス様を救い主と信じるだけで、救われるのです。これが信仰義認です。

これは今に始まったことではありません。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、信じるだけで義と認められたのです。アブラハムと妻サラには子どもがありませんでした。しかし、神は年老いたアブラハムに次のように告げます。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』『あなたの子孫はこのようになる。』「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6)神様を主とあがめ、信じることで、義と認められるのです。

パウロが言うところの律法は、実は神様からの贈り物でした。それはモーセが神さまから賜わった「十戒」に細則がついていったものです。神さまは、神を信じることを前提に、神を信じる者に、神の聖さを知ってもらうために十戒をさだめ、モーセに与えられました。しかし、人間は勘違いをしてしまいました。十戒から派生していった律法は、神を信じる者である神の民としての聖さを知るためのものでしたが、律法を守りさえすれば、神の民とされ、聖くなれると思ってしまったのです。律法に重点をおくことで、信仰が薄れていってしまったのです。律法を守りさえすれば、良い行いをすれば、救われると思ってしまったのです。これでは本末転倒です。

しかし、残念ながら良い行いをしているから、救われる、天国に行けると思っている人は実に多いのです。この世で、社会的な、人道的な罪を犯していないから、天国に行けるのではありません。そもそも天国は神の領域、神のものです。つまり、神さまの目から見て、罪を犯していない人だけが、天国に行けるのです。そして神さまの目から見て一番の罪は、神さまを無視することです。この世を造られた創造主であられる神さまから目を背けることです。神さまと対等になろうとする心も罪です。自己中心、自分を常に中心において考える心、自分を擁護する心も罪です。誰しも自分は可愛い、そこに罪があります。

そんなことを言い出したら、だれも天国に行けないじゃないか、と言われるかもしれません。はっきり言って、だれも天国に行けません。しかし、それだからこそ、神さまは、イエス様をこの世にお送りくださって、イエス様を信じる者が、神の目から見て聖い存在として映るようにされたのです。イエス様を信じる者には、心の内に聖霊様がお住みくださって、いわば、私たちを罪なき者として、神さまに訴えてくださるのです。

パウロはそのことを、ガラテヤ人の信徒に熱く語ります。信徒とはイエス様を信じている人たちです。教会はその信徒の集まりです。イエス様を信じれば救われるのですから、わざわざ、このようなことを、教会に対して言う必要はないはずです。しかし、ここに人間の弱さがあります。

「イエス様を信じた」という確信を得ようと、毎日聖書を読み、静まりの時をもち、毎週の礼拝や祈祷会に出席し、教会奉仕に励み、献金もできるだけする。はた目から見れば、とても良いクリスチャンです。また自分自身もそう思っているかも知れません。しかし、これらすべての行いは、辛口に言わせていただくなら、動機が不純なのです。信仰の確信を得ようと行いをすることは、パウロが言うところの、「律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいない」(16節)と同じで、実は「神さまの恵みを無にしている」(21節)のです。イエス様を信じ、救われたという喜びと確信がなければ、何をしても無駄なのです。いえ、無駄とは、少し言い過ぎかもしれません。遠回りしすぎなのです。実は、これは私のことです。

アメリカで洗礼を受けた時には、救われたことに対する喜びがあり、その喜びが原動力となって、教会奉仕をさせていただくことに。そして、それは日本に帰って来てからも同じでした。しかし、いつのまにか、教会奉仕をすることによって、信仰の確信を得ようとしていました。そして、そのことに満足していました。主はある時、そのことに気づかせてくださいました。洗礼から約二十数年たっていました。私はやっと、主の召しを受け入れ、牧師となるべく、個人的に聖書を読み直す時期が与えられました。それから約1年後、神学校の門をたたきました。

私は、皆様に、私と同じような間違いをしてほしくないのです。救いの喜びと平安のうちに、主と語り合って、毎日を過ごしていただきたいのです。

天国長屋の八さん熊さん、あなたたちはいかがですか。お二人はイエス様いのち、とお聞きしています。「神の恵みを無にしない」とはどういうことだと思いますか。

――――――――――

八: たしかに、俺たちゃ、「イエス様いのち」さ。イエス様のご命令とあれば、なんだってする。火の中、水の中って。パウロの旦那も言ってるじゃねぇか。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」って。

熊: 「イエス様いのち」って言うだけのことはあるねぇ。「キリストが私のうちに生きておられる」てぇのはいいやね。これが、俺たちの基本だな。「イエス様に生かされている」感謝じゃねぇか。

八: イエス様が俺の心にいらっしゃらなかったら、俺は死んだも同然さ。だって、イエス様と俺は一心同体だ。だから、俺はいつもイエス様にお伺いをたてる。「イエス様これでよござんすか」ってね。

熊: 俺は、このイエス様のお言葉が好きなんだ。「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ6:57)

八: お、熊さん。そりゃ、「わたしはいのちのパンです」っていうところじゃねぇか。「イエス様を食べる」ってぇのは「イエス様をまるっぽ信じる」ってぇこった。いいねぇ。

熊: 俺たちゃ、単純さ。「信じる」となりゃ、条件なんてつけねぇ。

八: 条件をつけるほど、俺たちゃ、えらかぁねぇしな。

熊: イエス様をまるっぽ信じなきゃ、神の恵みを無にすることになるんじゃねぇか。

八: そうだな。疑わずに信じるってぇことが大切さ。

熊: そうそう、ご隠居がいってたよ、イエス様のおっしゃった、「あなたは、わたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ってぇのがあるだろう。あの『見た』っていうのは「疑う心がある」ってぇことだそうな。つまり、「疑わずに信じる者は幸いです」ってことだ。

八: 「疑わずに信じる。」これに尽きるね。

熊: そう、まるかじりの信仰さ。それでこそ、「イエス様いのち」だ。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとう。そうですよね。「疑いなく信じる者は幸いです」。そのように信じれば、つねに平安が心にあって、心の内から勇気がでて、燃えてくる。それが、パウロの言う、「キリストが私のうちに生きておられる」ということなのでしょうね。このようなイエス様をお一人でも多くの方が疑いなく信じることができますよう、願っております。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「神の恵みを無にしない」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。聖霊様の導きがなければ、だれも心の底から「イエス様はわたしの主です」とは、告白できません。それと同じで、イエス様を疑いなく信じなければ、「キリストが私のうちに生きておられる」とは、宣言できません。どうか、今、心を開いて、イエス様をそのまま受け入れてみてください。大きな喜びと平安に包まれるでしょう。「イエス様はわたしの主です」とは、告白いたしましょう。

黙想の前に、ヨハネの福音書17章3節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」

(3分間黙想)Holy, Holy, Holy - Audrey Assad

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「神の恵みを無にしない」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか私たちが常に喜び、いつも祈り、すべてのことに感謝できますよう、イエス様を少しも疑わず、信じ切ることができますよう、お導きください。この祈りを尊き主イエス様の御名により、御前におささげいたします。アーメン

賛美:新聖歌211「天なる喜び」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Holy, Holy, Holy - Audrey Assad

https://www.youtube.com/watch?v=AgHrNNM23p8

●主の栄光宮に

主の栄光宮に 主の平和うちに

主の喜びが満ち溢れる

イエスのみ名により 罪きよめられ

今聖霊が心に住まわれる

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。