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メッセージ主題:『キリストを着る』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ガラテヤ人への手紙』

2020時年2月23日

礼拝前祈祷:8:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:9:00

賛美: 新聖歌108「丘に立てる荒削りの」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「静まって知れ Still」(末ページに記載)

交読: 交読文45:詩篇 第146篇:新聖歌p.915-915

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌143「いとも尊き」

聖書拝読:ガラテヤ人への手紙3章21節~29節(新改訳聖書)

中心聖句:

「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(26-27)

メッセージ主題:『キリストを着る』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『神の恵みを無にしない』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。

ガラテヤ書の2章は、まず、エルサレムでの使徒会議によって、宣教のすみわけがなされたことを記されています。割礼をうけているユダヤ人に対しての福音宣教は、ペテロを中心とする使徒たちが、割礼をうけていない人々に対する宣教は、パウロやバルナバが中心となるということです。しかし、パウロは、この割礼をうけたかうけないかという宣教のすみわけは別にして、割礼自体は、福音をうけるのに必要ではないということを常に強調しています。それは、エルサレムでの使徒会議で、使徒ペテロが次の結論をだしたことに同調します。ペテロはことように言いました。「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たち(つまり割礼をうけていない人たち)もそうなのです」(使徒15:11)つまり、割礼を受けているかどうかは、福音の恵みをうけるのには関係がないと告げたのです。そのことは、パウロがずっと主張しつづけたことでした。そして、このガラテヤ書2章の15節からは、「すべての人は信仰によって義とされる」ことを説くのであります。先週は、その福音の中心となる信仰義認のことを、再確認させていただきました。

今朝は、『キリストを着る』と題しまして、神様からのメッセージを伺います。

ガラテヤ書の3章は、2章につづいて、「律法か信仰か」と救いの基本を論じ、後半部分では、「信仰者は神の子どもである」ことを唱えています。ガラテヤ教会では、他の諸教会と同じように、ユダヤ民族の律法を重んじることが、ユダヤ人信仰者によって横行していました。それを危惧したパウロは、口が酸っぱくなるほど、「救いはイエス・キリストに対する信仰のみである」ことを、信仰の父であるアブラハムを引き合いに出して、信徒の方々を諭しています。その中で、私たちは律法の奴隷ではなく、信仰によって、神の子であり、アブラハムの子孫であり、約束による相続人であると励ましています。今朝は、その励ましの部分から、「キリストを着ることによって、神の子どもとなった」ことを学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。(祈り)

信仰によって、神の子、アブラハムの子孫のことをお話しするまえに、親子関係のことを少し考えてみましょう。

「親子関係」と一言でいいましても、血のつながった親子関係もあれば、血のつながらない、養子養父関係であったり、義理の親子関係もあります。「血は水よりも濃い」とも言われますが、「遠くの親戚より近くの他人」ともありますように、信頼関係が一番ではないかとも思われます。もちろん、血のつながりは、自分のルーツの一つでもありますから、大事ではあります。しかし、ルーツにはいろいろあります。血縁のルーツ、文化的ルーツ、教育的ルーツ、社会的ルーツ、貧富の格差的ルーツ、そして、信仰的ルーツです。まだ、他にもあるかもしれませんが、今朝は、この信仰的ルーツを考えてみたいと思います。

例えば、私は、父方は浄土真宗、母方は浄土宗。どちらも仏教であります。では、両親も私も熱心な仏教徒だったのかと申しますと、仏教のことは、ほぼ何にも分かっていない者でした。ただ、仏壇があり、チンして拝むという感じです。先祖を大事にするという考えでもあったでしょう。また、小さいころ、借家だったのですが、家には神棚もありました。その当時は、ごくごく一般的なことでした。

今でも、日本社会では、子どもが生まれると、神社に「お宮参り」、結婚式はホテルのチャペルで「キリスト教式」、お葬式は数珠をもってお寺で。はたまた、一年の最後には、12月25日というより24日のクリスマスイブに向けたお祝いごと、そしてそれが終わればあわただしく、年の締めくくりの大晦日はお寺に鐘突きをして、煩悩をはらい、翌日の年始は神社に新年の祈願参拝。約1週間の間に、キリスト教、仏教、神道と、日本人は忙しく渡り歩くのです。私たち日本人の信仰的ルーツは何なのだろうかと思ってしまいます。一般的日本人の信仰のルーツは、とてもあいまいです。漠然とした神観念はあったとしても、ルーツはぼやけています。これは、ある意味とても悲しいことではないかと、私は思うのであります。

私は、三十数年前に、イエス様と出会い、私のあいまいな信仰のルーツを、ぼやけている神観念を、救い主であるイエス様と創造主なる神様、そして、私たちの内に働いてくださる聖霊様にアップデートさせていただきました。つまり、信仰のルーツを書き換えさせていただいたのです。ぼやけていた神観念は、はっきりとし、礼拝する対象が分かってきました。私の心や生活に筋が一本通った感じがしました。このことは私の人生の青天の霹靂とでもいえるもので、それから徐々に、イエス・キリストを信じる信仰によって、創造主である神の子どもとされたと信じることができるようにされてきています。

それは、ひとえに、パウロの言うところの「キリストをその身に着た」からであります。「キリストを着る」ということの始まりは、「キリストを信じる」ということです。しかし、信じ始めただけでは、「キリストを完全に着た」ことにはならないのです。私は、はじめ、この「キリストを着る」とは、服を着るように、裸になって、世のしがらみを取り去っていただき、洗礼というお風呂にはいって身を清め、キリストという真っ白な服を着て、神さまの目からは、罪なき者として映り、天の御国に入ることが許される、そういうことだと思っていました。

しかし、今は、少し違った感じで思っています。「キリストを着る」とは、キリストという皮膚を全身移植したような感じではないかと考えるようになりました。皮膚というのは、とても優れた組織です。私たちを外からの汚れやウィルスなどの攻撃から守ってくれます。そして、水をはじくが、空気は通す優れものなのです。キリストの皮膚も同じで、外の穢れや誘惑から、私たちを守ってくれて、かつ、神さまの息吹は感じ、吸収させてくださるのです。そして、あせってはいけません。キリストの皮膚が自分のものとなるのには、時間がかかるのです。また、痛みもともなうでしょう。拒絶反応によって、うまく癒着しないことも、しばらくはあるかもしれません。それなりの時間がかかるのです。しかし、いったん自分の皮膚となれば、とても快適になります。そして、もちろん、「キリストを着る」という核の部分、神さまの目からは「罪なき者」と映るのです。キリストの皮膚がいったん自分のものとなれば、詩篇で言うところの「何をしても栄える」者とされるのです。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。、、、その人は何をしても栄える」(詩篇1:2-3)

パウロは、「キリストを着る」の別の表現として、「神にならう」者となることを勧めています。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(エペソ5:1)「神にならう者、キリストにならう者」になる、とは、やはり時間を要するのであります。服をさっさと着たり脱いだりする行為が「キリストを着る」という行為ではないのです。

イエス様はまったく別の表現をなさっています。それはぶどうの木の接ぎ木の比喩であります。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)この「とどまる」とは、主と霊的に一心同体になるということです。そして、「何をしても栄える」ように、イエス様の言葉は、それを支持します。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(15:7)

イエス様の接ぎ木の譬えも、「キリストを着る」行為なのです。接ぎ木にも時間がかかるのです。そして接ぎ木が成功して実を結ぶには、もっと時間がかかるのです。しかし、だからと言って、「キリストを着る」行為が、ただ単に天の御国を目指すだけものではありません。キリストを着る」とは、今の生活に反映するものなのです。もちろん、天の御国が最終目的地でありますが、今の生活のなかで主を喜ぶようにと、イエス・キリストにある喜びと平安に満たされた生活を送るようにと、キリストに倣う者となって生活するようにと、神さまはパウロを通して、「キリストを着なさい」とおっしゃっておられるのです。今が大切なのです。明日でも、ましてや昨日でもありません。今なのです。今、あなたが喜びと平安で満たされているか、キリストの皮膚を全身に移植して、今、自分の皮膚となっているかが問われているのです。

さて、天国長屋の八さん熊さん、あなたたちはいかがですか。あなたたちの皮膚は、キリストの皮膚でしょうか。

――――――――――

八: ひぇ~。俺の皮膚が、キリストの皮膚だとは考えたこともなかったなぁ。けど、そう考えると、「イエス様いのち」と思っている俺にとっちゃぁ、キリストの皮膚が俺の皮膚となって、それで「キリストを着た」ことになっているなんて、嬉しいじゃねぇか。なあ、熊さん。おい、熊、どこだい!

熊: すまねぇ、ちょいと手を洗いに。

八: なんだい、コロナウィルス予防かい。

熊: ちがうよ。俺の皮膚もキリストの皮膚なら、俺の手もキリストの手だろ。汚れてたからさ。ちょいと手を石鹸で洗ってたのよ。

八: 皮膚もキリストなら、体もキリストか。そうだよな。俺たちゃ、イエス様と一心同体だ。だとしたら、俺のからだは、イエス様のからだか。

熊: まあ、イエス様というよりは、聖霊様に満たされているからだなのかもしらねぇな。でも、やっぱり、俺のからだがキリストのからだと考えると、うれしいやねぇ。

八: イエス様もおっしゃってたからな。「お互いにとどまる」ってことをよ。それこそ一心同体だ。もちろん、俺たちに、イエス様のような権威があるわけじゃねぇし、力もねぇ。俺たちに宿ってくださる聖霊様に権威と力があるんだ。パウロのだんなは、「俺たちゃ、神の宮」だといってたけど、神の宮には力はねぇ、内にいらっしゃる神さまに力があるんだ。

熊: だからこそ、俺たちは自分の身体を大事にしないといけねぇ、きれいにしておかないといけねぇ、神さまの宮として、な。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとう。だんだん、話が、皮膚からからだ、からだから神の宮に発展していきましたね。「神の宮」のことも大事なんですが、私は、イエス様の皮膚感覚を大切にしたいなと思うのです。そうすると、もっと身近にイエス様を感じられるのではないでしょうか。愛おしく思うのではないでしょうか。さっき、熊さんが手を洗いに行ったように、です。

ただいまより4分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「キリストを着る」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。私たちには、キリストの皮膚を移植されている、と思うと、とても励みになるのではないでしょうか。どうか、キリストが私たちを内から外から支配し、導いてくださいますように。

黙想の前に、ヨハネの福音書15章4節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」

(4分間黙想)It Is Well With My Soul - Audrey Assad

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「キリストを着る」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちが常に主を感じ、主の皮膚感が私たちのものとなりますように、私たちをお導き下さい。常に、主のみ言葉に生きるものとさせてください。この祈りを尊き主イエス様の御名により、御前におささげいたします。アーメン

賛美:新聖歌203「ああイエス君、こよなき友よ」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

It Is Well With My Soul - Audrey Assad

https://www.youtube.com/watch?v=zY5o9mP22V0

●静まって知れ Still

御翼の 陰に隠し 力ある 御腕の中に

逆巻く大海を越え 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

キリストの 中に憩い 信頼と 主の力知る

いかずち鳴り渡る中 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。