· 

メッセージ主題:『御霊によって歩む』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ガラテヤ人への手紙』

2020時年3月8日

礼拝前祈祷:8:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:9:00

賛美: 新聖歌137「聖なる、聖なる」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「静まって知れ Still」(末ページに記載)

交読: 交読文47:出エジプト記第20章:新聖歌p.916-917

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌136「御霊よ降りて」

聖書拝読:ガラテヤ人への手紙5章13節~25節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(16)

メッセージ主題:『御霊によって歩む』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『神による相続人』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けました。

ガラテヤ書の4章は、3章の後半部分で説かれていました、「神の子ども」のことを論じています。そして、神の子どもなら、もうすでに養育係の律法のもとにはいないことを強調し、律法の下にもどろうとする人々に、注意喚起を促しています。

私たちは神の子であるがゆえに、父なる神の全てを、子として相続できると主張しています。先週は、その「神の子としての相続」のことを主から教えていただきました。

今朝は、『御霊によって歩む』と題しまして、神様からのメッセージをお聞きいたします。

ガラテヤ書の5章は、「キリストによる自由」と「御霊による信仰の営み」のことが記されています。パウロは1節で「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」と宣言しています。何からの解放かと申しますと、ユダヤ人に対する律法からの解放であります。律法を守ることによって、神から義と認められると信じ、その義を全うすべく、律法に従っていたのですが、従えば従うほど、自らの罪が見えてきて、罪人であることが分かってきてしまい、罪の奴隷であり、律法の奴隷であることに苦しめられます。しかし、イエス様の十字架によって、その罪から、律法から、解放されたのであります。そして、パウロは、いったんイエス様によって自由の身となった限りは、愛をもって互いに仕えなさい、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と律法の基本精神を持ち出して、愛を説きます。そして、そのことは、「御霊によって歩むこと」が絶対条件であると述べるのであります。今朝は、その「御霊によって歩む」ことを、主に学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。(祈り)

今朝のテーマ「御霊によって歩む」こととは、いったいどういうことでしょうか。パウロは同じ16節で、「決して肉の欲望を満足させる」ということを、引き合いに出しています。肉の願うとことと、御霊が願うことは相反することだと述べています。

では、肉の願うこととは何でしょう。パウロは19節~21節に具体例を出しています。

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」つまり、自己中心の結果であります。いわば、自己中心の実であります。

一方、御霊によって歩むことができれば、御霊の実を結ぶことができます。22節~23節に紹介されています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

ただし、これらの御霊の実は、イエス様に接ぎ木され、イエス様から栄養分をいただき続けた結果です。目的ではなく、結果です。私たち、イエス様を信じている者にとっては、これらの実を目標にする必要はないのです。ただただ、イエス様とつながっている、つながっていようとするだけでいいのです。パウロはそのことを、24節のように表現しています。

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をさまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」つまり、そのような自己中心的な考えを、イエス様を中心とすることによって、是正していくのです。木や枝が実を結ぶようになるには、長い年月がかかります。桃栗三年柿八年、というではありませんか。私たちの御霊の実も、実を結ぶのに時間がかかるのです。また、甘くておいしい実ができるまでには、もっと年数と手間暇がかかるのです。何度も何度も、私たちの情欲や欲望とともに、私たち自身を、十字架にかけてしまうことが重要です。

「御霊によって歩む」とは、自分自身を十字架にかけ続けて生きることでもあります。イエス様に常にお伺いを立てることでもあります。イエス様と個人的な関係を築き、いつもイエス様だったらどうされるのかを伺う必要があります。「困ったときの神頼み」結構じゃないですか。でも、できれば、「困ったとき」だけではなく、いつも主イエス様と語りあっている日々を過ごすことが大切です。

実は、旧約聖書時代でも、創造の神さまに、常にお伺いをたてているのです。例えば民数記27章21節では、「彼(ヨシュア)は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。」とありますように、神に伺いを立てるのであります。また、ダビデも事あるごとに主に伺いをたてています。ひとつの例としては、サムエル記上30章8節「ダビデは主に伺って言った、『あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。』すると、お答えになった。『追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。』」ダビデと神さまとの関係は、ただ単に政治的な局面、要所要所において、お伺いを立てるというだけではなく、日常的に、神さまと語り合っている姿が、詩篇などを通して浮かび上がってきます。

私は、「主に伺いを立てる」というのは、何も特別な時だけではないと思っています。事あるごとに、いえ、日に何十回も、私は伺いを立てている、また主と語っていると思います。数えたことはありません。しかし、本当にしょっちゅう、主と話しています。私は、「主により頼む」ということは、また、「主に自分を明け渡す、全面降伏する」ということは、「主を頼りにする」ということも一つの現われだと思っています。そこには、主への問いかけがあり、感謝があり、祈りがあり、そして平安と喜びがあります。

実は私の信仰生活の中で、もっとも苦手なのは、祈りの姿勢で、長い時間、祈り込むことです。もちろん、静まりの時はもちます、いえ、静まりの時は大好きです。主の御声を聞くために、主の息吹を感じるために、主と一体化していき、主の平安に包まれるために、主の喜びを自分の喜びとするために、私は静まりのときを持ちます。しかし、長い祈りは苦手です。ですから、むしろ、瞬間瞬間の祈りや交わりを大切にしています。

私の信仰生活が、正しいとか間違いであるというのではなく、主が、今の私に、今、教えて下さっている導きに従っているだけです。明日はまた、違う方向に導かれるかもしれません。他の人もそうです。人それぞれ、示された信仰生活があります。そして、それは今だけのものです。ひょっとすれば明日は違うスタイルかもしれませんし、また同じかもしれません。そんなことは、正直いって、どうでもいいことなのです。今、私が、皆さんが導かれている方法でスタイルで、主を喜ぶことができれば、それが、今のベストなのです。

それが、パウロの言う「御霊によって歩みなさい」ということだと思うのです。神さまに伺いを立てながら、一日一日を大切に、一日を平安から始まり平安に終わる。そのような一日の積み重ね。別の言葉で言えば、「イエス様に従う」ということでしょう。しかし、この「従う」とは、「イエス様の命令に従う」ということよりも、「イエス様の後をついて行く」ということです。「イエス様に倣う」ということです。

天国長屋の八さん、熊さん、おふたりは「御霊によって歩む」とはどういうことだと理解されておられますか。

――――――――――

八: 「御霊によって歩む」か、おれは難しいことは分かんねぇけど、イエス様が大好きだ。そして、イエス様が命だと思っている。だから、イエス様だったらどうなさるかってこと、いつも考えるようにしているんだ。いつも、イエス様だったらどうされるかって聞いていると、安心するんだな。その歩んでいる道が、ほんとうに主の道であると、安心したいからね。

熊: たしかに。でも俺は、ちょいと違う。どちらかというと、俺の信仰は、金魚のフンみてぇなものだ。いつもイエス様の後ろを同じように歩いている。歩調をあわせながら。だってよ、イエス様がこう言ってなさるからな。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)イエス様について行くと、闇におびえることもない。イエス様ご自身が懐中電灯で、夜道を照らしてくださっているのだから。けっこうなこっちゃないか。

八: 金魚のフンねぇ、途中で切れなかったらいいけれどなぁ。

熊: 切れるもんか。イエス様が切ろうとなさらないから切れるはずがねぇ。それに、俺も必死で後ろを追っているからな。

八: でも、どうしてイエス様の後をついていってるんだって分かるんだよ。

熊: そりゃ、御言葉だな。御言葉がしめしてくださる。だから、毎日、聖書を読まねぇとな。そうすると、だんだんと分かってくるうようになるんだ。もちろん静まりの時も大事だぜ。

静まりの時って、おれなんざ、イエス様による充填期間だ。充電池に電気がなくなってしまったら、静まって、主からのエネルギーをいただくんだ。

八: 静まりの時が、信仰の充填期間、いいねぇ。

熊: 肉の行ないはしなくなったとしても、肉の思いはまだまだ残っている。だから、よそ見をしないで、イエス様を見つめながら、道の真ん中を通るようにしているんだ。脇道にそれないようにな。

八: 他の人は、どうやって、御霊によって歩むことができるのだろうね。

熊: さあ、どうだろう。自己中心との闘いだろうね。どうやって、自分を放棄していくのか。それがカギだろうね。俺は元来、弱虫で、意志のよわいところがあるからなぁ。だからこそ、イエス様を見続けておかないといけねぇんだ。

八: さて、こんなもんでいいかい、牧師さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうね。イエス様に従うというのは、自分を殺して、イエス様に従うということではありません。そんなこと、ちっともイエス様は望んでおられません。イエス様は、私たち一人一人を、こよなく愛してくださり、「生きよ」「自分らしく生きよ」とおっしゃいます。もちろん、無茶はいけません。主にあって、自分らしく。人に左右さえるのではなく、かえってイエス様に左右されましょう。

ただいまより4分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「御霊によって歩む」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。どうか、私たちが、主イエス・キリストにあって、生き生きと今を生きることができますように。主を喜ぶことができますように、私たちを整えお導きください。

黙想の前に、マタイの福音書18章3節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

(4分間黙想)Be Thou My Vision (Fox Sessions)

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「御霊によって歩む」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。人はパンだけで生きるのではないとおっしゃるイエス様、どうか私たちがあなた様の口から出るひとつひとつの真珠のような御言葉によって、私たちが日々作り替えられて行きますように、お導きください。

主イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌332「主はまことのぶどうの木です。」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Be Thou My Vision (Fox Sessions)

https://www.youtube.com/watch?v=NzJfRilneco

 

 

●静まって知れ Still

 

御翼の 陰に隠し 力ある 御腕の中に

逆巻く大海を越え 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

キリストの 中に憩い 信頼と 主の力知る

いかずち鳴り渡る中 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。