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メッセージ主題:『キリストを生きる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ピリピ人への手紙』

2020時年5月3日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌291「神の国と神の義」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「主を仰ぎ見て」(末ページに記載)

交読: 交読文54:ヨハネの福音書第14章:新聖歌p.922-923

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌203「ああイエス君、こよなき友よ」

聖書拝読:ピリピ人への手紙1章12節~26節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(21)

メッセージ主題:『キリストを生きる』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『神のことばを剣として』と題しまして、神様にみ言葉の大切さを学びました。

エペソ書6章は、おもに「悪と戦う」ことが記されています。腰には心理の帯、胸には正義の胸当て、足には平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと、み言葉の剣、御霊による祈り、これらすべてをもって、悪と戦いなさいとパウロは勧めます。それらの武具を吟味しつつ、神のみ言葉が唯一の攻撃用の武器である意味を考えさせていただきました。

今朝からは、ピリピ人への手紙です。4章ありますから、4週間かけて学ばせていただきます。

今朝は、第1章から、『キリストを生きる』と題しまして、キリスト者としての私たちの生き方を考えたいと思います。

ピリピ人への手紙は、パウロがローマに投獄されている時に書かれたとされています。ピリピの教会は、パウロの伝道を経済的にも支援していました。ですから、この手紙も感謝から、始まっています。しかし、ピリピの教会では、諸教会と同じく、律法主義に影響されたユダヤ人信徒との摩擦、また律法自体を否定し自由奔放なリベラルな信徒の問題があり、そのことにも、パウロは心を痛め、言及しています。

そんな中で、この手紙の第一章は、「キリストを宣べ伝える」というパウロの意志と願いが記されています。ここに、パウロの宣教の原動力である、キリスト愛が見て取れます。私たちも、パウロのキリストへの愛を学び、キリストを伝えるということ、決して方法論ではなく、福音の力を今日は見させていただきたいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

パウロはローマ人への手紙1章16節で、次のように述べています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は神の力なのです。福音を聞いて、信じれば、神の力が私たちの心に宿るのです。その神の力は、聖霊様です。私たちの福音を宣べ伝える原動力です。皆さんは、この原動力をお持ちですか。もちろんです。イエス・キリストを信じた時点で、聖霊様が心に宿り、神が私たちの信心の中心となります。この時点で、私たちには神の力が宿ったのです。

そして、同じように、パウロはピリピ人への手紙の1章20節でも主張するのです。「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みになっているのです。」パウロはその神の力が宿り、その時点から投獄されている時も、いつものように大胆に語るのです。

パウロがピリピで投獄されていた時のことを覚えていますでしょうか。使徒の働き16章16節~34節に、投獄された時のエピソードが記されています。少し時間をさいて、読んでみましょう。どうして投獄されたのかをお話しすると長くなりますので、そこは、後で各自読んでみてください。今日は、投獄された時点24節からお読みします。

(使徒の働き16章24節~34節まで朗読。)

パウロとシラスは、牢の奥に入れられ、足かせを掛けられ、逃げられないようにされていました。私だったら、不安になって、「出してくれ!私は無実だ!私は何も悪くない!」などと叫び続けていたかもしれません。しかし、パウロとシラスは、神に祈りつつ、賛美の歌を歌っていました。どんな状況下におかれても、神に祈り、賛美の歌をささげることを忘れていませんでした。この時の祈りも「助けてください」という祈りではなく、主の御名を賛美する祈りであり、恐らく、ほかの囚人たちにイエス様の福音を伝えていたに違いありません。彼らには、心の中心に神の力がやどり、福音を伝えることを喜びとしていたからです。愛弟子のテモテにあてた二つ目の手紙に「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と励ましているように、それを牢獄の中で実践していたのです。(2テモテ4:2)彼らには、神の力が宿っていたのです。

そして、大地震が起こりました。そのために、牢獄の扉があき、鎖がとかれました。しかし、パウロとシラスは、冷静に対処していて、囚人は逃げることはありませんでした。この牢獄は洞窟のようなところで、逃げるにしても、第一の関門、第二の関門にそれぞれ兵士がいて、逃げたのが見つかれば、死罪です。そこの入れられている囚人たちは、軽犯罪だったそうです。わざわざ逃げて死罪になる必要はなかったのです。パウロとシラスは、彼らを落ち着かせ、逃げようとする囚人がいたとしても、説得したのでしょう。また囚人たちも、パウロとシラスの賛美に聞き入っていたぐらいですから、彼らに一目も二目もおいて、彼らに従ったと思えます。

地震で牢の中の火が消え、真っ暗なところで、静まり返っている牢を見て、囚人たちが逃げてしまったと早とちりした看守が自害しようとするのを、パウロは止めました。看守も恐らく、パウロたちが賛美するのを遠くから聞き入っていたに違いありません。ですから、看守は、あかりを取り、洞窟の牢にはいり、パウロとシラスにひれ伏し、礼をのべて、二人を洞窟の牢から連れ出し、「救い」を求めたのであります。パウロとシラスは、そこで有名な希望の言葉を残します。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)そして、看守も看守の家族も信じて救われ、二人をもてなし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだのであります。

これが、私たちの内にある、神の力です。パウロは、「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしいさが現わされることを求める私の切なる願いと望みになっている」と訴えます(ピリピ1:20)。これが、パウロのキリスト愛です。キリストのすばらしさが、パウロの身によって現わされること、神様の栄光が現れることこそが、パウロの願いです。そして、私たちの願いでもあるはずです。ちがいますか。皆さんは、この身に神の栄光が現れますようにと祈り願っているのではないでしょうか。

「主の祈り」を見てください。「天にまします我らの父よ、ねがわくは、御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」「天の御国で神の栄光が現わされますように、この地上でも神の栄光が現わされますように」と祈っているのです。そして、「地上で神の栄光が現わされますように」とは、「私たちひとりひとりの身に、神の栄光が現わされますように」と祈っているのです。信じる私たちひとりひとりに神の力がやどり、その内なるキリストに従うことによって、神の栄光が私たちひとりひとりの身に現わされるのであります。

次にパウロは「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と告白します。生きている間、キリストを証しし、喜びに満ちている、そのような生き方であります。また、「死ぬこともまた益です」とは、二つの意味があります。一つは、死ぬことによっても、キリストのすばらしさが現れる。たとえば、キリスト教のお葬式は、もっともすばらしい伝道の場です。家族にとっても、親族にとっても、列席者にとっても。讃美歌がながれ、生前の故人の信仰が語られます。誰もが、キリスト教のお葬式はいい、と言います。誰もが神を知らず知らずのうちに受け入れてくださっています。その人は、この世での生を全うし、その人の身に神の栄光が現わされたのです。

もう一つの益は、この世を去って、天の御国に招待され、キリストとまた神さまと、永遠にともにいて、賛美と祈り三昧の満ち足りた時間を過ごすことになるからです。苦痛もありません。恨みや嫉み、嫉妬ややっかみ、不平に不服、何にもありません。平安そのものであります。だから、パウロは23節で次のように告白します。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうがはるかにまさっています。」この世での人生100年時代となりました。しかし、この100年間での苦痛は、去り永遠に平安と喜びに包まれるのです、キリストとともに過ごせるのです。これ以上の恵みがあるでしょうか。パウロは心の底から、「実はそのほうがはるかにまさっています。」と正直にのべています。

これら二つの益が、この世を去る時に与えられるのです。しかし、パウロはこの後もしばし生き続けます。まだ、キリストを伝える使命が残っていたからです。彼はしばらく、またキリストを生きたのであります。「キリストを生きる」とは、キリストを生きがいにする、キリストの愛を宣べ伝えることを喜びとすることです。自分の身に神の栄光が現わされることを限りなく望むことでもあります。

皆さんの中には、神の力がやどっています。キリストが息づいています。キリストを恥としない、いえ、キリストを喜びとする生き方を、どうかもう一度考えてみてください。

さて、天国長屋の八さん、熊さん、いかがでしょうか。キリストを喜びとする生き方って、なんだと思いますか。

――――――――――

八: 最近、牧師さん、こっちの振り方、おかしかないかい。

熊: どういうこったい。

八: だってよ。「キリストを喜びとする生き方」って、牧師さんも答えはっきりと出してないのに、こっちに振るじゃねぇか。最近、そんなの多くないかい。

熊: そういえば、そうかもな。でも、答えは一つとは限らねぇし、まったく間違いっていうのもないんじゃねぇかな。牧師さんが答えてしまったら、それが一番正しいと思ってしまう人もいるから、なかなか他の意見もでなくなる。だから、ある意味、オープンにしてんじゃねぇのかな。

八: そうか。おれには、牧師さんが答えをもっているとは思えねぇんだけどな。じゃあ、熊はどう思うんだい。「キリストを喜びとする生き方」って。

熊: 俺は、パウロのだんなみたいに、キリストを宣べ伝えることに熱心かと言われれば、そうじゃないかも知らねぇし、かといって、イエス様のことを話しする機会があれば、引っ込んじゃいない。俺はイエス様いのちだから。けど、今は、コロナで引っ込んじゃいるけどな。

八: まあ、コロナのことじゃ、やむなしだ。俺はよ、「キリストを喜びとする生き方」っていわれるんだから、いつも喜んでいる、感謝しているってことかな。「イエス様ありがとうございます」って。

熊: たしかに、いつも喜び感謝するっていうのが、俺たちだよな。でも、今日は、牧師さん、はっきりとは言わなかったけど、「もっと積極的にイエス・キリストを伝えなさい」と言いたいんじゃねぇか。

八: まあ、俺たちも知らないところで、チャンスを逃しているかもしれねぇな。俺たちがイエス様伝えなくて、誰が伝えるんだってな感じだわな。

熊: 福音を伝えるチャンスを逃さない生き方が、「キリストを喜びとする生き方」ってことか。

八: そうなると、本当の喜びっていうのは、福音を伝えることにあるってことになるな。

熊: 主にあって喜ぶっていうのにも段階みたいなものがあって、福音を伝えるっていうのが最高の喜びなんかも知らねえよ。なにせ、神の栄光が現わされるのが最高の喜びだとしたら、福音を伝えることが、また福音が伝わったことが、神の栄光がもっとも現わされるのかも知れねぇ。そうすると、福音が伝わったことが、主を喜ぶ、最上級のことかも知れねぇな。

八: だとすると、福音を伝えるチャンスを逃さないように、目を覚まさせてくださいと祈らねぇといけねぇ。

熊: おれは、そんな祈り、今までしたこたぁねぇかも知らねぇ。

八: 俺もだよ。最上級の主の喜び方を祈らないとな。牧師さんはこれが言いたかったのかな、ねぇ、そうですか。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。いえ、実は、何も考えていませんでした。それぞれに答えを見つけてくれたらいいなぁって思っていただけです。でも、八さんや熊さんが、福音を伝えるチャンスを逃さないようにと、目を覚まさせてくださいと祈るのは大変うれしいことですね。最近、私も含めてですが、どんどん、福音を伝えることに消極的になっているような気がするのです。今日のメッセージは自分にはっぱをかける意味もありました。主にある最高の喜びは、主の栄光がこの身に現わされることです。そして、それは福音が伝わった時だと思うのです。そのためには、チャンスを逃さないこと。私はちょっと前までは、いつもトラクトを持ち歩いていましたが、最近、それもなくなってしまいました。今日のメッセージで、反省させられている次第です。いいと思うCDも持ち歩いて、トラクトと一緒にさしあげたいですね。皆さん、それぞれ、何ができるのか、主にある最高の喜びを、ともに分かち合うことができるよう、チャンスをのがさないように、何ができるのか、それぞれが、考えてみてください。

では、ただいまよりしばらくの間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇19篇を読んでみたいと思います。詩篇19篇を聞きつつ、今朝の「キリストを生きる」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。ほとんどの教会が礼拝や集会を自粛していますが、どうか個人個人が主を賛美することを自粛しないように、福音を宣べ伝えることに委縮しないように、また福音を伝えるチャンスを逃さないように、私たちがつねに目を覚ましているように、祈り求めていきましょう。

黙想の前に、マルコの福音書4章20節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

HILLSONG - III for SOLO PIANO

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「キリストを生きる」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。今、教会での礼拝や集会がなかなか持てない状況にありますが、個々個々で礼拝を持ち、福音を伝えるチャンスに目を覚まし、また福音を伝えるのに臆病にならないよう、私たちを励まし力づけてください。私たちの心に宿るのは、神の力であり、臆病な霊ではなく、愛と慎みの霊であることを覚えさせてください。だいたんにキリストを証しするものへと変えてください。

主イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌101「イエスよ十字架に」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

HILLSONG - III for SOLO PIANO

https://www.youtube.com/watch?v=BhQ8gr9BtyY

 

 

●主を仰ぎ見て

 

主を仰ぎ見て 力を得よ

主は我が力 我が盾

主を仰ぎ見て 光を得よ

主が全てを 成し遂げられる

私にせまるどんな山も

越える力 与えてください

私が恐れず ただ主を信じ

進むことができるように

https://www.youtube.com/watch?v=TrYpqqFIYu0

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。