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メッセージ主題:『どんなことでもできる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ピリピ人への手紙』

2020時年5月24日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌281「疑い憂いに」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「主を仰ぎ見て」(末ページに記載)

交読: 交読文56:ローマ人への手紙12章:新聖歌p.924-925

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌172「望みも消え行くまでに」

聖書拝読:ピリピ人への手紙4章4節~13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(13)

メッセージ主題:『どんなことでもできる』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、第3章から、『天国人』と題しまして、キリストを信じる私たちは、天に国籍をもつ天国人であることを学びました。イエス・キリストを信じた時点で、キリストである聖霊様が心の内にやどり、天に国籍をもつ者とされます。天に国籍をもつ、天国人は、神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない、心に割礼を受けたものです。ユダヤ人にとって、肉体的な割礼は、神から選ばれた者の証拠となり、それ自体を誇りに思うのであります。キリスト者は、誇るのであれば主を誇ることを学びます。第3章では、キリストを信じるということが天国人であり、永遠のいのちを得るまでのパウロの信仰の道が記されていました。先週はそのことを学ばせていただきました。

今朝は、第4章から、『どんなことでもできる』と題しまして、キリストに寄り頼み、キリストにあって守られる人は、キリストによって強くされ、どんなことでもできるのだということが、どういうことなのかを学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。(祈り)

ピリピの第4章は、パウロのピリピの教会に対する感謝と励ましがつづられています。パウロは4節で、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と励まします。「喜ぶ」というのは、「笑う」ということではありません。「喜ぶ」の中には、「歓喜に満たされる」という意味もあるでしょう。しかし、その多くの場合において、「主を喜ぶ」のであって、主の平安に満たされ、憩いを得ることではないでしょうか。また、「喜ぶ」ことができるには、顔を上げないといけないような気がします。「主を喜ぶ」のですから、顔を上げ、主の御名を賛美するのです。そして、「顔を上げる」行為は、主と顔と顔を合わせる行為でもあり、主に対して正しいことをしている時に「顔を上げる」ことができるのです。

創世記には次のような記述があります。4章4節~7節です。

「また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」

カインは、神にささげものをする行為に問題があり、顔を伏せました。主はおっしゃいます。「正しく行ったのなら受け入れられる」そうであれば、顔を上げなさい、と。しかし、結局、カインは罪を治めることができず、弟アベルを嫉妬と妬みのために殺害してしまいます。

カインは神に対して、顔を上げることはできませんでした。「喜ぶ」という行為は、「主を喜ぶ」ことであり、「主に対して、純心に、顔を上げる」行為であります。そして、これが「どんなことでもできる」第一歩なのです。

次にパウロは、「顔を上げたら、主にすべてを告白しなさい」と言います。それが6節の言葉です。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

「何も思い煩わない」とは、「何も心配することなく、主を信じ切りなさい」とおっしゃっておられるのです。そして、その「主を信じ切る」ことに不安があるなら、もう一つの手段、「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とパウロが告げます。「あなたがたの願い事を神に知っていただく」とは、神様にその願いを告白することです。神様は、私たちが言う前から、私たちの願いをご存じですが、あえて私たちの口からその願いを聞きたいのです。なぜなら、そのように願いを告白するということは、神様に寄り頼んでいることと同じだからです。

私たちの信仰告白と同じです。口に出して告白することで、その思いは真実となるのです。そして、口に出して告白して、私たちの思いが真実となれば、神は私たちに聖霊様をお送りくださり、聖霊様は私たちの心の内にお住いくださるのです。

それと同じように、私たちの願いを主に告白すれば、主が、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(7節)聖霊様が私たちの心の内に住んでくださるのと、まったく同じことが、起こるのであります。

パウロは、このことを自分の体験談として、別の表現で言い表しています。

11節「私は、どんな境遇にあって満ち足りることを学びました。」12節「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」では、この秘訣とはなんでしょう。パウロは19節でこのように告げています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」主に寄り頼むことを覚え、必ず、主が解決してくださると信じることです。

どうでしょう、私たちが主に願いを告白するとき、主が、お聞きくださり、主の時に、おこたえくださると思って先取りの感謝をささげているでしょうか。そこの天国長屋の八さん、熊さん。お二人はどうでしょうか。主の御計画に沿っていると思われる願いは必ずお聞きくださると、信じ、そのように告白していらっしゃいますでしょか。

――――――――――

八: あれれ、牧師さん、なんか変なこと言ってるよ。神様に祈りお願いするっているのは、必ず、お聞き届けくださると信じているから、お祈りするんじゃねぇのかい。えぇ、そうじゃなかったら、祈り願いをたてる意味がねぇじゃねぇか。だから、俺はいつも、祈った後に、「神様、お聞きくださりありがとうございます」って、期待をもって感謝を表してんだ。なぁ、熊、おめぇもそうだろう。

熊: 俺はよ、ときどき、自信がねぇときがあるんだよ。いや、神様や神様の力を疑っているんじゃぁねぇんだ。疑っているのは俺自身の願いさ。この願いは、本当に神様からのものなのか、ただ単に俺の肉の欲の願いなのか、ときどき分かんねぇんだ。だから、そういう時は、「主の御心がなりますように」って最後にくっつけるんだ。

八: 熊よ、その「主の御心がなりますように」という祈り方、間違ってないかい。

熊: どういうこったい。これはイエス様が十字架にかかる前に、ゲッセマネで三度祈られた時に、おっしゃったお言葉だぜ。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」と祈られたじゃねぇか。マタイの福音書の26章にそう書いてあらぁ。

八: たしかに。でもな。イエス様は天のお父様である神様の御心を知らなかったのでは、ねぇんだ。イエス様の願いは、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と、十字架での死から遠ざけてくださいというのが、イエス様の願いだ。でも、イエス様は神様の御心をご存じだ。十字架の死、そして死を克服してのよみがえり、それが神様の御計画だ。それを知ったうえで、「あなたのみこころのように、なさってください。」と祈ったんだ。つまり、すべてを神様におゆだねした祈りなんだよ。これこそが祈りの神髄だ。おめぇが、その願いが自分から出た願いなのか神様から出た願いなのか分からなくて、「主のみこころがなりますように」って、付け足した言葉とは違うんだよ。その祈りには、もっと重みがあるんだ。イエス様の覚悟を決めた、腹のすわった祈りだと思うんだ。だから、俺は、軽々しく使えねぇんだ、その祈りは。

熊: じゃあ、八、お前は、自分の願いが、神様のみこころかどうか、分からねぇとき、どうするんだよ。どう祈るんだ。

八: おりゃ、せっかちだ。それは神様もご存じさ。だから、こう祈る。「今、与えられている願いは、神様からのものだと信じます。しかし、もし、わたしの願いが、自分の欲のための願いだとしたら、またこれが御心でないとしたら、その道を閉じてください。閉じられるまで、私は信じてその道を進みます。その道が閉じられれば、また新しい道が見えるように私の目を開け、神様の声が聞けるように、私の耳を開け、神様のみこころが分かるように、私の心を正してください。あなたの道が、私の道になるように導いてください。」

熊: なるほどねぇ、いいことを聞いたなぇ。でも、ひょっとして、これ、横丁の御隠居の受け売りじゃねぇかい。

八: お、察しがいいねぇ。そうだよ。俺もまえ、八とおんなじように聞いたことがあるんだ。でも、今はもう俺のものさ。だから、おれは、躊躇なく、どんなことでもできるって思ってんだ。なにせ、バックに全知全能の神さまがついてんだ。私利私欲で動くんなら、神様はお怒りになるだろうが、すべては福音のためだ。そう思って、つっぱしりゃいいんだよ。まあ、おれはつっぱしるしか能がねぇからな。神様がちゃんとナビゲートしてくださる。アクセルもブレーキも神様が調整してくださるさ。

熊: じゃ、ガス欠になったらどうするんだい。

八: ガス欠なんか心配ねぇよ。だって、俺の心の油壷はいつも満タンさ。いつも神様とお話しし、聖書を読んで、すべてのことに感謝し、神様を喜んでいれば、俺の心は満タンだ、潤滑油でエンジンも十分潤っている。

熊: もしも、もしも、仮にガス欠になったらどうするんだよ。

八: おめぇも心配性だなぁ。もし仮にガス欠になったら、そん時は、神様に祈ったらいいんじゃねぇか。恐らくガス欠になったということは、立ち止まって方向転換しなさいっていうことかもしらねぇ。単純でいいんだよ。熊、おめぇは「もしも」っていうことを考えるからいけねぇんだ。「もしも」って考えると足がすくんでしまう。それ自体、神様の御心じゃねぇとおもうよ。だから、パウロのだんなも言っていなさるじゃねぇか。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」って。クリスチャンは明るくなくっちゃいけねぇ。下向いてちゃ、いけねぇんだよ。顔をあげて、たけぇ山を見るように、目をあげて、神様をいつも求めていなくっちゃあなぁ。

熊: そうか、「どんなことでもできる」というのは「どんなことでもする」という覚悟があるからできるのかもしれねぇな。それは、パウロのだんなが言ってた、「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしと共に福音にあずかるためである。」(1コリント9:23)という覚悟っていうか決意なんだろうな。それと、今日から、この「主のみこころのままに」というのは、軽々しく使えねぇようになっちまった。安易に使ってはいけねぇ言葉だったんだな。いや、感謝だ。牧師さん、今朝はこれで失礼しますよ。

――――――――――

確かに、クリスチャンは楽天的でないといけないと思います。悲観的な人に、周りの人はあまり魅力を感じないでしょうし。また、主の善き証人とはならないでしょう。私たちには天の御国での永遠の平安と喜びという希望があります。それに、今、その天の平安と喜びを前倒しで経験させていただいています。その希望はすでに現実となっているのですから、失望には終わることはありえません。ですから、私たちは、主の加勢を得て、「どんなことでもできる」、また「どんなことでもする」と決心できるのです。そのような信仰に導かれるからこそ、先取りの感謝、前倒しに「神様ありがとうございます」と素直に言える心に変えられるのです。クリスチャンであるならば、どんなことがあっても、いつも主にあって喜ぶものとさせていただきましょう。

では、ただいまよりしばらくの間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇16篇を読んでみたいと思います。詩篇16篇を聞きつつ、今朝の「どんなことでもできる」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

私たちの前には主の導きが、私たちの後ろには主の後押しがあることを、また私たちの心には主が私たちを突き動かしてくださっていることを、信じ疑わない者とさせてください。そして、私たちが、主の福音のために、「どんなことでもする」と決意したときに、主によって、「どんなことでもできる」者へと変えられますから、感謝いたします。祈り願ったことはかなうと信じ、先取りの感謝をささげ、つねに主を喜ぶ者とさせてください。

黙想の前に、マルコの福音書7章34節35節のイエス様のお言葉が入っている箇所をお読みいたします。

「そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に『エパタ。』すなわち、『開け。』と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。」

(詩篇16篇)

내게 있는 향유 옥합 - 크리스찬 BGM

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「どんなことでもできる」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちの信仰告白もそうでしたが、私たちの決意を主に示すことによって、私たちが変えられていくように、私たちが「福音のためにどんなことでもします」「いつも主にあって喜びます」と主の前に決意を表すなら、主は私たちを「どんなことでもできる」者へと、「いつも喜ぶ」者へと変えてくださいますから感謝いたします。どうか、常に主にすべてをゆだね、期待する者とさせてください。

主イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

내게 있는 향유 옥합 - 크리스찬 BGM

https://www.youtube.com/watch?v=vlfHRhXL58o

 

 

●主を仰ぎ見て

 

主を仰ぎ見て 力を得よ

主は我が力 我が盾

主を仰ぎ見て 光を得よ

主が全てを 成し遂げられる

私にせまるどんな山も

越える力 与えてください

私が恐れず ただ主を信じ

進むことができるように

https://www.youtube.com/watch?v=TrYpqqFIYu0

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。