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メッセージ主題:『私のかしらであるキリスト』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コロサイ人への手紙』

2020時年5月31日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌254「心にあるこの安きを」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「主を仰ぎ見て」(末ページに記載)

交読: 交読文57:コリント人への手紙第一13章:新聖歌p.925-926

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌101「イエスよ十字架に」

聖書拝読:コロサイ人への手紙1章9節~23節(新改訳聖書)

中心聖句:

「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」(18)

メッセージ主題:『私のかしらであるキリスト』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、第4章から、『どんなことでもできる』と題しまして、キリストに寄り頼み、キリストにあって守られる人は、キリストによって強くされ、どんなことでもできるのだという信仰が与えられます。パウロは4節で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と励まします。「主にあって喜ぶ」ことは、主の平安に満たされ、憩いを得ることでもあります。また、「喜ぶ」ことができるには、顔を上げないといけません。「主を喜ぶ」のですから、顔を上げ、主の御名を賛美するのです。そして、「顔を上げる」行為は、主と顔と顔を合わせる行為でもあり、主に対して正しいことをしている時に「顔を上げる」ことができるのです。主の加勢を得て、「どんなことでもできる」、また「どんなことでもする」と決心し、そのような信仰に導かれるからこそ、先取りの感謝、前倒しに「神様ありがとうございます」と素直に言える心に変えられるのです。先週はそのことを学ばせていただきました。

今週からコロサイ人への手紙を4週にわたって学ばせていただきます。コロサイ教会は、パウロは実際に行ったことがありませんので、パウロの友人であり同労者のエパフラスがおもに建てた教会であったと推測できます。

今朝は、第1章から、『私のかしらであるキリスト』と題しまして、神様からのメッセージをたまわります。第1章では、キリストは、世界が創造された時から存在し、かつ世界を創造された方であり、私たちを罪から贖い出し、神との和解を成立させてくださった方であることが強調されています。そして、教会とは、この創造と和解が中心理解としてあり、ゆえに、キリストが教会の中心、教会のかしらであると、パウロは主張します。今朝はキリストが教会のかしらであるということはどういうことなのかを学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。(祈り)

パウロはまず、13節14節にありますように、「神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」と、御子イエスは贖い主救い主であることを宣べています。御子イエスの十字架上で流された血潮によって、私たちの罪は赦され、御子イエスは自らの命をささげることによって、私たちの罪は帳消しにされ、暗やみの中にいる罪の奴隷から解放されました。つまり、罪の奴隷であった私たちは、イエス・キリストの命の代価によって、買い取られ、御子イエスの支配下に置かれたのであります。

いつものパウロであれば、ここで、「キリストは死を克服し、三日目によみがえって、私たちに永遠の命への希望を与えられた」というような表現がなされてもおかしくありません。例えば、ローマ人への手紙4章24節25節では次のような表現をされています。「すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」神に義と認められるというのは、神は私たちが罪びとだとは認めない、つまり天の御国に入ることが許されるということになります。パウロはこのことを再三再四述べております。もちろん、コロサイ人への手紙の中にも、2章にそのことが触れられています。12節です。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」

しかし、第1章では、よみがえりの主イエス・キリストよりも、コロサイ教会にとってもっと大切なキリストの性質を全面に出す必要がありました。それは、この世界を造られた方こそが、キリストであるということです。実は、神の存在を肯定しつつも、世界の創造は神の御業ではないというような異端的な教えが世にはびこっていました。その教えを払拭するためにも、パウロはイエスキリストが創造主であることを明らかにしたのです。15節~17節に次のように述べています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も王権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」パウロは、イエス・キリストが創造の神であり、罪を赦す権威をもっている贖い主であることを、明らかにしました。

そして、それゆえに、神によって造られた私たち人間と神との和解が成立したのです。19節~22節にそのことが記されていますが、19節だけお読みいたします。「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」

神は、パウロの口を通して、私たちに御子イエスが、神の本質を有し、世界を造られた創造の主であり、罪を赦す権威をもつ贖いの主であり、神と人間との和解をとりもつ仲介の主であることを明らかにされました。

そして、パウロは、御子イエス・キリストは、それらをふまえた上での、ご自身のからだとしての教会のかしらであると告白しています。逆に言えば、教会は、御子イエス・キリストが創造の主であり、贖いの主であり、和解の主であること、またよみがえりの主であることを告白しなければならないのです。「キリストが教会のかしらである」と宣言するには、その信仰をも告白しなければなりません。そして、それは教会に限ったことではなく、キリスト者ひとりひとりの信仰告白へと結びついていきます。

「キリストが教会のかしらである」という表現ですと、個人が教会というイメージに埋没してしまいがちです。私は、今日はこれを「キリストが私のかしらである」と本当に言えるかどうか、皆さんに問いかけてみたいと思います。キリストが、創造、贖い、和解、よみがえりの主であると告白できるでしょうか。もし告白できるなら、今、「キリストが私のかしらであり、心の中心である」と一点の曇りもなく言えるでしょうか。もし、かりに言えなかったとしたら、なにがそうさせているのでしょうか。

天国長屋の八さん、熊さん。出番ですよ。お二人は「キリストが私のかしらです」と素直に言えますでしょう。

――――――――――

八: 俺は、イエス様いのちだ。イエス様あっての俺なんだ。だから「キリストが俺のかしらだ」って素直に言えるさ。けど、今日の説教のところで、キリストが世界を創造した、16節の「万物は、御子によって造られ、御子のために造られた」っていう、このくだりには驚いたねぇ。俺はてっきり、天の父なる神様がお造りになったと思ってた。

熊: 俺たちのイエス様は、俺たちとおんなじ肉体をもって、この地に来られた。けど、その肉体の中心には、神様の霊が宿ってらっしゃる。その神様の霊のことを、パウロのだんなは、御子とよばれたんだろうよ。17節にもこうあるじゃねぇか。「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」神様は霊だ。救い主キリスト様も霊だ。けど、イエス様は、俺たちの目に見える形として肉体をもったキリスト様だ。だから御子であるキリスト様は、万物を創造されただけではなく、万物を今までもこれからも維持なさる、見守ってくださるお方なんだよ。

八: なんか、ややこしくなってきやがったな。父なる神の霊も、子なるキリストの霊も、同じだってことだな。それは、分かっているつもりだ。

熊: ところで、八。父なる神の霊、子なるキリストの霊、とくりゃ、なにかもう一つ欠けてねぇか。

八: 父なる神の霊、子なるキリストの霊、、、あっ、聖霊様だ。

熊: そうだよ、聖霊様だ。だから、俺は「キリストが俺のかしらだ」って思う時には、キリストが、創造の主、贖いの主、和解の主、よみがえりの主であるというのと、もう一つ付け足して、聖霊の主だ。パウロのだんなは、こんな風にも言ってたよな、「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできない」って。

八: おう、それは、第一コリントの12章3節のところだな。聖霊様が俺たちを、イエス様を信じる者へと導いてくださった。それに、イエス・キリストを信じた時点で、俺たちの心に下ってこられ、そのままとどまってくださってる。ありがてぇなぁ。

熊: だから、俺は、「聖霊の主」というのも入れてぇんだ。それに、きょうは何の日が知ってるかい。ペンテコステだ。聖霊降臨の記念日さ。

八: 知っているよ。でも、牧師さん、メッセージで何も言わねぇなって、思ってたんだ。聖書「使徒の働き」の2章にあるエピソードじゃねぇか。ユダヤ教の五旬節の日に、みんなが集まってたんだが、そこに、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みんなが聖霊にみたされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

熊: それだけじゃねぇ、みんなが、イエス・キリストのことを大胆に語り出したんだ。聖霊様が働いてくださらなければ、俺たちは何にもできねぇんだよ。

八: そうだよな。「キリストが俺のかしらだ」って言えること自体、聖霊様のおかげなんだ。感謝だね。ペテロのだんなが言ってた通りだ。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)イエス様を信じて、イエス・キリストの名によって洗礼をうければ、聖霊様が俺の中に宿ってくださった。「イエス様は主です」と心からそう思えるし、告白できる。俺はやっぱり、イエス様いのちだ。

熊: 「キリストが俺のかしらだ」って、一人一人がはっきりきっぱり言えるから、「キリストが俺たちのかしらだ」とも言えるし、また「キリストが教会のかしらだ」とも言えるんだ。感謝だね。

八: 話がまとまったかどうかは、分かんねぇけど、これで、そっちにお返ししますよ、牧師さん。

――――――――――

ペンテコステの記念日を忘れていたわけではありませんからね。あとで、どのようにメッセージと関連させていこうかと思っていたのですが、熊さん、ありがとうね。ちゃんと点が線になって、むずびつきました。感謝です。

パウロは、エペソ人への手紙4章で次のように言っています。

「からだ、つまりキリストのからだである教会のことですが、からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にありすべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(4-6) 私たちが一つになれるのは、聖霊の働きによって、主なるイエス・キリストを通して、父なる神を見、神をあがめることができるからです。そして私たちが一つになれるためには、私たちひとりひとりが、「キリストは私のかしらです」「イエスは私の主です」と、わだかまりなく素直に、心から告白することができるかどうかにかかっています。

そのためには、イエス・キリストに私たちの心を支配していただかないといけません。パウロもそのことを13節14節で述べています。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」イエス・キリストを主だと告白する私たちは、すでにキリストの支配下にあるということを覚えないといけません。自分勝手な思いだけで、聖書を読み、祈りをし、礼拝をささげて、自己満足していてはいけないのです。主の御心がなんであるのか、主の導きがどこにあるのかを求めつつ、聖書を読み黙想し、祈りを通して主と交わり、賛美をもって礼拝をささげる者とさせていただきましょう。

「キリストは私のかしらです」「イエスは私の主です」そのように、いつも告白する日々でありますように、願います。

では、ただいまよりしばらくの間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇51篇を読んでみたいと思います。詩篇51篇を聞きつつ、今朝の「私のかしらであるキリスト」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

イエス・キリストを信じる私たちには、聖霊がやどり、私たちをキリストの支配下においてくださいますから、感謝いたします。御翼の陰に私たちは身を置き、安らぐことができます。また、聖霊様が私たちを、イエス・キリストの証人として訓練し鍛えてくださり、世の光、地の塩としてくださいますから、ありがとうございます。どうか、私たちが常に、悔いた心を主にささげることができますよう、お導きください。

黙想の前に、マタイの福音書18章19節20節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もしあなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(詩篇51篇)

내게 있는 향유 옥합 - 크리스찬 BGM

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「私のかしらであるキリスト」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。今日はペンテコステ・聖霊降臨を記念する日でもあります。聖霊様が私たちに働いてくださらない限り、私たちは虫けら同然のものであります。どうか、私たちが、主のみ旨を求め、主にすべてを委ね、主に従う者へと変えてくださいますように。常に、イエス様と交わりをもつことができますよう、私たちをお導きください。

聖霊の主、イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

내게 있는 향유 옥합 - 크리스찬 BGM

https://www.youtube.com/watch?v=vlfHRhXL58o

 

 

●主を仰ぎ見て

 

主を仰ぎ見て 力を得よ

主は我が力 我が盾

主を仰ぎ見て 光を得よ

主が全てを 成し遂げられる

私にせまるどんな山も

越える力 与えてください

私が恐れず ただ主を信じ

進むことができるように

https://www.youtube.com/watch?v=TrYpqqFIYu0

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。