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メッセージ主題:『親切で塩味のきいたことば』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コロサイ人への手紙』

2020時年6月21日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌388「いとも良きものを」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「静まって知れ Still」♬(末ページに記載)

交読: 交読文59:ヨハネの手紙一4章:新聖歌p.927-928

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌262「わが生涯は」

聖書拝読:コロサイ人への手紙4章2節~6節(新改訳聖書)

中心聖句:

「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(6)

メッセージ主題:『親切で塩味のきいたことば』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、第3章から、『新しい人を着たのだから』と題しまして、神様からのメッセージをいただきました。第3章では、10節にあります、「新しい人を着た」とはどういうことで、どうすればいいのかが説かれています。私たちがキリストを信じた時、聖霊様が私たちの心にお住いくださりました。そして、聖霊様によって、日々新しくされています。そのことも考えながら、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。

今朝は、第4章から、『親切で塩味のきいたことば』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けましょう。第4章では、キリスト者がどうあるべきであるかが説かれています。2節では、

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」そして、6節では、「あなたがたの」ことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」とパウロは私たちに勧めます。今朝は、これら二つの勧めの関係について考えてみたいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

まず、以前から気になっている表現、「塩味のきいたことば」というのはどういうものをいうのでしょうか。

イエス様はおっしゃいます。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)塩は腐敗を防止するだけではなく、食べ物の味を豊かにしてくれます。しかし、イエス様は、この箇所では、社会の腐敗だけではなく、自分自身の信仰の堕落に気を付けるようにおっしゃっておられるのでしょう。事実、マルコは次のようにイエス様の言葉を記しています。「すべては、火によって、塩気をつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩気がなくなったら、何によって塩気を取り戻せましょう。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:49-50)。この時の「火」は試練や迫害を表し、その試練や迫害が、信心を鍛え、腐敗や堕落を防ぐとイエス様はおっしゃっておられます。そしてまた、「自分自身のうちに塩けを保つ」とは、「聖くあれ」ということでもあるでしょう。

その「聖さ」とは、「イエス様中心の行動、イエス様への完全なる服従」ということにつながります。イエス様は、ルカ書で次のようにおっしゃっておられます。14章26節「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」そして、イエス様の弟子になるということは、自分自身のいのちをもって従うということです。27節「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」とおっしゃいます。「自分の十字架を負う」とは、日々の生活において、罪にある自分を十字架につけ、古い自分は死に、キリストと共によみがえることによって、新しい人を着る、キリストを着るということ、そしてその覚悟を意味します。ルカは9章23節24節でも同じようなことをイエス様がおっしゃっておられると報告しています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分自身の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」イエス様はイエス様に従うという覚悟が並大抵のものではないということを述べています。そのことは、14章32節に戻って、強調しておられます。「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」そして、そこから、塩を用いて「聖さ」を強調しています。33節34節「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」「塩気、つまりイエス様にとことん聞き従うという覚悟を失った弟子」は、外に投げ捨てられ、永遠のいのちを享受できなくなるのです。イエス様のおっしゃる「塩気」は、それだけの覚悟を私たちに突き付けておられるのです。

では、イエス様のおっしゃる「塩気」と、コロサイ人への手紙で、パウロが表現する「塩気」とは、同じなのでしょうか。私は少し違うのではと思わされています。なぜなら、「あなたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」とおっしゃる「塩味のきいたもの・ことば」とは、世の人にも受け入れられるような豊かな味わいをみせる言葉ではないでしょうか。そして、そのことが可能になるためには、2節の「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」と言われるように、感謝をもち、常に祈ることによって、「ことばに塩気が含まれる」のでしょう。つまり、ここでの塩気は、全能の神の知恵とも解釈できます。外部の人々に、何をどう話すべきか、それは、塩気である神の知恵が与えられ、導かれるのであります。イエス様はおっしゃいます。「人々があなたがたを引き離したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなた方ではなく、あなた方のうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19-20) 私たちの内に住み給う聖霊様に、祈りの中にあって、主の知恵を得、聞き従うことなのです。そして、そのこと自体が「塩気」であり、ことばを伴った行動は、「塩味のきいたもの」となるのです。

さて、ここで、天国長屋の八さんと熊さんに、登場していただきましょう。八さん、熊さん、お二人は、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」というところの「塩味のきいたことば」ってなんだと思いますか。

――――――――――

八: 「塩味」って聞いたところで、俺が思い出したのは、焼き魚だな。例えば川魚、アユなんかいいね、この季節。アユを何もつけずに焼いて食べても、もちろん、うめぇけど、塩をちょいとふって、焼いたら、なおうめぇ。食べ物にほんのちょいと塩味を聞かしただけで、味が引きしまる。だから「塩味のきいたことば」っていうのは、聞く相手にとって、もっとも善いことばなのかもしれねぇな。熊はどう思う。

熊: 俺はよ、昨日、寝る前に「はだかの王様」っていう、短い物語を読んだんだ。

八: おお、あのアンデルセン童話だな。

熊: そうそう。だけど、俺が読んだのは、ヨーロッパの昔話って書いてあったな。とにかく、「うぬぼれはばかを育てると申しますが、ばかとはまさにこの王様のことでございまして」と始まる物語さ。王様は自分の姿にほれこむあまり、宮殿の壁という壁を、鏡ばりにした、筋金入りのばかでございます。そこに詐欺師が二人やって来ました、「自分たちは、遠い国からやってきた商人で、ここに持ってきました布地は、これまでどんな王様も見たことがないほどすばらしいもので」と差し出すのだが、誰の目にも、その布地は見えねぇ。みんながけげんそうにしていると、詐欺師はこう言うんだ。「ばかの目には見えない魔法の布地でございます。」見栄っ張りの王様は、その見えねぇ布地を、あたかも見えるように、「すばらしい」とほめて、詐欺師たちにその布地で服を作らせます。しかし、その服は誰にも見えません。見えるはずがありません。布地はないのですから。しかし、家来たちや周りの人たちは、「ばか」と思われたくないし、見栄っ張りの王様でも、王様ですから、だれも「下着姿ですよ」とは、口がさけても言えません。ところが、そこにある少年が声を上げます。「あれ、王様の服はどうしたの?何も着ていないよ。王様、はだかだ。」結局周りの人も、噴出してしまって、笑いの渦となりました。、、、、っていう感じの物語さ。

八: その物語が、どうして、「塩味のきいたことば」と関係があるのかい。

熊: あの少年のことばさ。「王様ははだかだ」という言葉。俺は、あの言葉が、塩味がきいていると思うんだ。塩味っていうのは、物事の本質を引き出すものじゃねぇか。川魚のアユの味を引き出すのが塩の役目だと、俺は思うんだ。こどもの素直な目から映るものを言葉にする。まことの言葉こそが、「塩味のきいたことば」なんじゃねぇかな。

八: なるほどね。「まことの言葉こそが、塩味のきいたことば」か。じゃあ、イエス様の言葉が、「まことの言葉」なんじゃねぇか。使徒ヨハネのだんなは、こう言ってら、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)イエス様ご自身が、「まことの言葉」なんだな。

熊: だから、俺たちは、イエス様のことが証しされている聖書から学んで、「塩味のきいたことば」を自分のものにして、相手にたいして、親切でないといけねぇんだ。あの少年のことば、「王様ははだかだ」というは、結局みんなの目を開かせた。もちろん、王様もさ。王様もいっしょになって笑ったんだ。だから王様は、その少年を、末は大臣にと召し抱えた。「王様ははだかだ」という、まことの言葉は、王様にも親切だったんだな。

八: なるほどね、熊、おめぇ、いいタイミングでその物語読んだな。

熊: いや、俺のタイミングじゃねぇ。イエス様のお導きさ。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「塩味のきいたことば」とは「まことの言葉」であって、それはすなわち、まことの神のひとり子であられるイエス様のことだったのですね。聖書を読みつつ、聖書のことばによって私たちも育てられている、「相手にとって本当の意味で、親切で、塩味のきいたことば」を用いる者へと変えられつつあるのですね。逆に、聖書を読んでいても、「親切で、塩味のきいたことば」を使えてないとすれば、私たちは、まだまだ変えられていない、見栄をはったはだかの王様、自己中心で人を傷つけてしまう人間だと言うことになります。私も大いに反省するところです。聖書を読んでいても、本当にそれを自分のものとしていない、聖書の言葉が私たちの血となり肉となっていないのでしょうね。どうか、私も含めてですが、そのことをもう一度、考えてみてください。

では、ただいまよりしばらくの間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇40篇を読んでみたいと思います。詩篇40篇を聞きつつ、今朝の「親切で塩味のきいたことば」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

主のまことが私たちを、生まれかえさせてくださいますように。私たちの口からでる言葉が、相手を傷つけるのではなく、相手を励まし、共に主を賛美することができますように、私たちを、日々、新しくしてください。

黙想の前に、ヨハネの福音書6章54-55節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」

(詩篇40篇)

내게 있는 향유 옥합 - 크리스찬 BGM

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「親切で塩味のきいたことば」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちが、イエス様の血であり肉である、この聖書を読み、咀嚼し、私たちがイエス様と同じように、親切で塩味のきいたことばを使える者とさせてください。口は災いだといわれます。その通りです。しかし、その同じ口で私たちは、主を賛美します。どうか、あなた様を賛美する心で、人と接することができますように、私たちを造りかえてください。

「まこと」の主、イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌156「われは主にありて楽し」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

내게 있는 향유 옥합 - 크리스찬 BGM

https://www.youtube.com/watch?v=vlfHRhXL58o

 

 

●賛美「静まって知れ Still」♬

御翼の 陰に隠し 力ある 御腕の中に

逆巻く大海を越え 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

キリストの 中に憩い 信頼と 主の力知る

いかずち鳴り渡る中 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。