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メッセージ主題:『喜ばせる相手』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テサロニケ人への手紙第一』

2020時年6月28日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌242「われに聞かしめよ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「静まって知れ Still」♬(末ページに記載)

交読: 交読文60:ヨハネの黙示録21章:新聖歌p.928-929

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌268「御国の心地す」

聖書拝読:テサロニケ人への手紙第一2章3節~13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」(4)

メッセージ主題:『喜ばせる相手』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テサロニケ人への手紙第一第1章から、『御怒りから救い出されるイエスの血』と題しまして、神様にメッセージを導いていただきました。パウロは、この手紙を通して、キリストの再臨を強調しております。そして、先週の中心聖句10節はその最たるものです。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことはほかの人々が言い広めているのです。」 死者の中からよみがえられたイエス様が天から来られるのを待ち望む再臨の信仰です。しかし、それとは少し違って、先週は「主イエス・キリストの贖い、滅びからの救い」に焦点を当てさせていただきました。

今朝は、テサロニケ人への手紙第一第2章から、『喜ばせる相手』と題しまして、神様からのメッセージを拝聴します。この第2章は、パウロのテサロニケ人への宣教の姿勢と思いがつづられています。パウロはテサロニケの教会に対して、「母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまい」また、「父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じた」と言っています。なぜなら、パウロは、テサロニケの信徒たちを愛し、パウロ自身のいのちまでも、喜んで与えたいと思ったからでした。パウロは、かれらを、時には優しく諭し、時には厳しく注意したのでしょう。その中において、パウロの宣教の姿勢は、テサロニケの信徒を喜ばせるのではなく、神を喜ばせる、神に喜んでいただくことであると、常に謙遜の姿勢を忘れることはありませんでした。今朝は、そのことを学びたいと思います。

短くお祈りいたします。

パウロは、今朝の中心聖句と同じようなことを、ガラテヤの信徒に送った手紙にも書いていました。1章10節です。お読みいたします。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするなら、私はキリストのしもべとは言えません。」

パウロは、キリストのしもべたる者は、人の歓心を買おうとしてはいけないといわれるのです。「人の歓心を買う」とは「人に取り入る」ことであり、「人に媚を売ったり、へつらったり」することでもあります。人を喜ばそうとすることであります。それは、いわば、まわりまわって、見返りを期待しての行為でもあります。「ほめられたい」という気持ちからのものであります。

「人にほめられたい」と思って善をすることは、私は悪いことだとは思っていません。例えば、親にほめられたいと思って、家のお手伝いをしたり、一生懸命勉強したり。純粋に、親を喜ばせたいと思う子供の心を、親はちゃんと受け止めてあげるべきです。

昔、私が小学校3年生のとき、真っ白な子猫を拾ってきました。母親は、飼うのは反対でしたが、一晩だけという約束をねばりにねばって取り付け、翌日、学校から帰って来てみると、すでにその子猫は家の猫になっていました。母親は、実は猫好きだったのです。長男の私が生まれる前にも、猫を飼っていたのだそうで、私が生まれてから、不思議とどこかに行ってしまったそうです。さて、新しい住人となった、その真っ白い子猫は、「ミミ」という名前が与えられ、拾ってきた私より、母親をご主人様とみなしていました。当然といえば、当然です。三度の食事は母親がほとんどあげていたのですから。成長して、ミミは狩りをするようになりました。狩りでとらえた獲物は、かならず母親に見せます。初めは昆虫、それから、ヤモリにトカゲにネズミにそしてスズメ。スズメをどうして捕らえることができたのか不思議ではありましたが、ミミは狩りが得意でした。母親は、その都度、褒めていました。ミミは主人である母親に褒められるのがうれしかったのでしょう。また、自分の成長を誇りにも思っていたのかもしれません。そしてついには、ヘビ。弱ってはいましたが、まだ生きているヘビを捕まえてきました。その時、母親はヘビが大嫌いですから、ミミをほめるのではなく、叱ってしまったそうです。それ以来、ミミは狩りをすることをやめてしまいました。いや、狩りはしていたのかもしれませんが、戦利品を家に持ち帰ることはしなくなりました。

猫でさえそうなのですから、まして人間は褒められるとうれしくなって、頑張るのです。「ほめられること」が悪いことではありません。「喜んでもらうために善をおこなう」ことが悪いことではありません。要は、誰にほめられるべきなのか、誰に喜んでもらうべきなのかということです。

イエス様は、マタイ書の中で、次のようにおっしゃいます。「人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(4) 祈る時もそうです。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所でみておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(6)また、断食する時も同じです。「断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」(18)

天の父は、わざわざ隠れて、私たちの行動を見てくださっているわけではありません。私たちには見えないだけで、いつも私たちの周りにはいらっしゃいます。実は、私たちの心に住んでくださっている聖霊様を通して、私たちの心の内から見てくださっているのです。ですから、神はすべて、ご存知なのです。

皆さまは、良いことをして褒められるのであれば、だれに褒められたいと思いますか。私の小さい時の飼い猫、ミミは、私の母親だけをご主人様と思い、自分の成長をほめてもらえるよう、狩りの成果を母親だけにみせていました。ミミにとっては、主(あるじ)は母親だけなのです。私たちは、誰に褒めてもらいたいと思うでしょうか。イエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。」とおっしゃいます(マタイ6:24)。誰に、一番褒めてもらいたいのか、そのことをはっきりさせることが大切なのです。

人に対して、また神の目から見て、良いことをしようとするとき、人に褒められることがあります。あるクリスチャンの方が、「人に褒められてしまった、もうこのことで神様の祝福は受けられない」とこぼしていたのを耳にしました。本当にそうでしょうか。私たちの神様はそんな小さい方ではありません。その方が、神様に喜ばれたいと思ってしたことで、ほかの人から褒められたとしても、神様は嫉妬するはずがありません。なぜなら、その方の心が神様に向いているからです。人から褒められて、嬉しくないはずがありません。しかし、私たちのご主人様である神様に喜ばれることこそが、私たちの真の幸せなのです。宝なのです。イエス様もおっしゃっておられます。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:20-21)

神様に、そして私たちの主イエス様に喜ばれること、それは私たちの宝物であります。人に褒められたり喜ばれたりするのも、嬉しいことでありますが、それは天の宝とはなりません。神様に、イエス様に喜ばれることだけが、天の宝として蓄え積まれるのです。人に喜ばれるのは、いわば通過点でしかありません。私たちの思いと心を、天に向け、主を仰ぎつつ、私たちのまわりにいらっしゃる方々にとっても良いことを喜ばしいことをさせていただきましょう。救世軍のモットーに、「心は神に、手は人に」というコピーがあるそうです。救世軍はそのモットーを「社会奉仕」という形で行っておられます。頭の下がるお働きであります。しかし、私たち一人一人も、「心は神に、手は人に」を実践することができるのです。もちろん、それぞれに与えられた状況下で、導かれたことでいいのです。「知人のお話しに時間を割いて耳を傾ける」それだけでも、その方にとっては癒しとなるかもしれません。とりなしの祈りをする、祈られた方がそのことを知らなかったとしても、主はご存知です。それでいいじゃないですか。主に喜んでいただくのがいちばんの目的なのですから。

ねぇ、八さん熊さん、そう思うでしょう。いかがですか。

―――――

八: 「心は神に、手は人に」いい言葉だねぇ。俺がイエス様に喜んでいただくためにできること、なにがあるだろうね。俺には金はねぇからよ、どこかに大金寄付するなんてできねぇし、、、

熊: なに言ってんだよ、八。金額の問題じゃねぇんだよ。心だ。イエス様は、「どうぞ何かのお役にたててください」と差し出す心に喜ばれるんだ。あの二レプタ銅貨を献金した貧しいやもめを思い出してみろよ。イエス様はこうおっしゃったじゃねぇか。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:43-44) それに、「手は人に」というのは、お金や物だけじゃねぇ。もちろん、お金や物資は、この社会で生活する上では大切だ。それによ、もっと大切なのは、その人のために祈るっていうことじゃねぇか。万物を、無から有を創造された神様の力を信じて、その人のために祈り続けるってことが、もっと大事なんだよ。

八: わかるよ。分かってんだよ。昨日の未曽有の集中豪雨で、九州南部の人は大変だ。川が氾濫して、家も持ち物も全部流されちまったからな。中には生きる気力も流されちまった人もいるだろう。その人たちには、まずは、お金や物資も必要なんじゃねぇか。

熊: そうだよ。でも「心は神に、手は人に」というコピーでも「心は神に」が先に来ているだろう。まずは、その被災者の方々の癒しと平安を祈って、それから、少なくてもいいから、「お金や物資」を一番必要としているところに届けるってぇのがいいんじゃねぇか。物資にしてもなんでもかんでも送ったらいいっていうわけじゃねぇ。受け取る側も、種分けするのが大変なんだ。善意で送っても、かえって混乱するだけかもしれねぇ。

八: 確かにそうだ。物資を送るのは、まず先にすることじゃねぇな。

ところでよ、さっきの牧師さんの話は、誤解を産むかもしれねぇな。

熊: なんだよ、誤解って。

八: すべては神様に喜んでもらうため、天に宝をたくわえるためだろ。それじゃ、やっぱり「自分がかわいい」ってことにならねぇか。

熊: おい、八っあん。おめぇ、救われるために、善行して天に宝をたくわえようとしているのか。

八: ばか言っちゃあいけねぇよ。おれは、イエス様を信じた時に、すでに救われてる。救いと天に宝をたくわえるってこととは関係ねえ。

熊: じゃあ、なんで、イエス様は「天に宝をたくわえる」って言葉を出したんだ。イエス様は、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい」(マタイ6:19)とおっしゃった。地上での宝である、お金や宝石や名誉や地位なんかに、心をがんじがらめにされてはいけないって説かれたんだ。そんなものは死んだら、パーだ。それよりも、この世で生きているうちに、天の御国で味わうことのできる、喜びと平安を、今味わいなさい。神様からの祝福を、今、受けなさい。ってイエス様はおっしゃっておられるのだと思うんだ。

八: そうか、そうだよな。だから、牧師さんが子供の時に飼っていた猫のミミは、ご主人である母親に褒めてもらいたいがゆえに、喜んでもらいたいがゆえに、狩りでの成果を持って来た。

熊: 神様の目に善いと映ることをすることは、大好きな御主人様である神様に喜んでもらいたいから、そして、できれば、ほかの人もいっしょに、神様にほめてもらいたいから。いっしょに福音にあずかってもらいたいから。ただただ、そんな単純なことなんだ。先にイエス様に救われたからこそ、イエス様に喜んでもらいたいんだ。

八: なるほどね。イエス様に喜んでもらいてぇよな。また、みんな一緒になって、喜んでもらいてぇよな。そのためにも、今、そんな気持ちになれない、被災者の人に、平安をとりもどしてもらいてぇな。生きる気力をとりもどしてもらいてぇな。俺に何ができるのか考えてみらぁ。

牧師さん、なんかとりとめもない話になってしまったけど、こんなところでいいですか。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。確かに八さんの言う通り、わたしの説明は言葉足らずだったようですね。熊さん、説明してくれてありがとうございます。私たちクリスチャンは、主に喜んでいただくことが一番です。主の喜びが私たちの喜びでもあるのですから。それは、主人と執事との関係でもあるでしょう。どうか、皆さんのひとつひとつの言動が主に喜ばれるということを考えるのではなく、皆さんの存在が、また皆さんの主との関係が、主に喜ばれるようにと考えさせていただきましょう。

では、ただいまよりしばらくの間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇27篇を読んでみたいと思います。詩篇27篇を聞きつつ、今朝の「喜ばせる相手」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

私たちの主(あるじ)は、イエス様です。そのイエス様の喜びが、私たちの喜びとなりますよう、私たちが常に、主を思い、主と対話できますよう、私たちを導いていただきましょう。

黙想の前に、ルカの福音書6章31節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」

(詩篇27篇)

Worship Guitar - 1 Hour - Instrumental Hymns of Worship on Acoustic Guitar

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「喜ばせる相手」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。主の喜びが私たちの喜びとなりますように。私たちのひとつひとつの言動ではなく、私たち自身が、そして主イエス様と私たちの関係が、主に喜ばれるものとなりますように、私たちをお導きください。

週末に起きた、南九州での集中豪雨で、被害にあわれた方々の上に臨んでいただき、主の癒しと平安が彼らをおつつみくださいますように。助け主、主イエス・キリスト様の御名により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌112「カルバリ山の十字架」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Worship Guitar - 1 Hour - Instrumental Hymns of Worship on Acoustic Guitar

https://www.youtube.com/watch?v=EStyjJL_wvg

 

●賛美「静まって知れ Still」♬

御翼の 陰に隠し 力ある 御腕の中に

逆巻く大海を越え 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

キリストの 中に憩い 信頼と 主の力知る

いかずち鳴り渡る中 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。