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メッセージ主題:『信仰の不足を補う交わり』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テサロニケ人への手紙第一』

2020時年7月12日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌244「信ずる者は何びとも」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「静まって知れ Still」♬(末ページに記載)

交読: 交読文1:詩篇第1篇:新聖歌p.879

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌254「心にあるこの安きを」

聖書拝読:テサロニケ人への手紙第一3章8節~13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(10)

メッセージ主題:『信仰の不足を補う交わり』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テサロニケ人への手紙第一第2章から、『喜ばせる相手』と題しまして、神様からのメッセージをいただきました。この第2章は、パウロのテサロニケ人への宣教の姿勢と思いがつづられています。パウロはテサロニケの教会に対して、「母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまい」また、「父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じた」と言っています。なぜなら、パウロは、テサロニケの信徒たちを愛し、パウロ自身のいのちまでも、喜んで与えたいと思ったからでした。パウロは、かれらを、時には優しく諭し、時には厳しく注意したのでしょう。その中において、パウロの宣教の姿勢は、テサロニケの信徒を喜ばせるのではなく、神を喜ばせる、神に喜んでいただくことであると、常に謙遜の姿勢を忘れることはありませんでした。先日は、そのことを学ばせていただきました。

今朝は、テサロニケ人への手紙第一第3章から、『信仰の不足を補う交わり』と題しまして、神様からの声に耳を傾けたいと思います。この第3章は、パウロのテサロニケ再訪の願いが記されています。パウロは神の協力者であるテモテを福音と信仰の確認のためにテサロニケに派遣しました。そして、テモテが戻ってきて、テサロニケの教会の信仰と愛についての嬉しい報告をうけ、居ても立っても居られないというような、パウロの様子がうかがわれます。7節に、あなたがたの信仰によって、慰めをうけ、励まされたと記されています。パウロがテサロニケに行きたがっていたのは、彼らとの再会を喜び、祝福するだけではありません。むしろ、彼らの信仰を、さらに完全な状態に整えるためなのです。今朝は、実際に、顔を合わせて、また、いろいろな方法での、交わりの中で、お互いの信仰を強めていく、より完全な状態へと、聖霊様によって導いていただく、そのことの大切さを学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。

今、コロナ禍の中にあって、諸教会は、一定の距離を保ちながら、やっと教会堂での礼拝が、行えるようになりつつあります。しかし、礼拝後の交わりは、残念ながら、まだほとんどありません。交わりといっても食事だけではありません、いろんなことを話し合ったり、祈り合ったり、私は、そのことがとても重要なのではないかと思っています。

もちろん、礼拝は大事です。ビデオでのメッセージは、最低限のことであります。しかし、教会に来て、礼拝での空気感を共有すること、生で説教者の声を聴き、聴衆の息遣いも耳にしながら、主のメッセージに集中し、また聞きながら黙想することは、私たちにいのちをもたらしてくれます。メッセージの内容は大事ですが、それと同じぐらいに、礼拝の空気感、もっと言えば、霊的な鼓動が大切なのだと思います。

そのことを理解した上で、あえて、わたしは、礼拝後の、また礼拝外の交わりが、信徒の信仰を育てるのに、必要不可欠だと思っています。また、礼拝を軽んじているつもりはまったくありませんが、理想的には、顔と顔を突き合わせた、広い意味での交わりこそが、今朝のパウロの言葉にある、「信仰の不足を補う」のに重要だと確信しています。逆に言えば、交わりのない礼拝だけの集まりでは、信仰は育ちにくいと思っています。ですから、皮肉なことですが、今、この私のメッセージをお聞きくださっている方で、なんらかの形で霊的な兄弟姉妹との交わりができていらっしゃらない方は、ご自分が認識しておられなくても、霊的に飢え渇いておられるはずです。どうか、どんな手段を使っても結構ですので、祈りをともなった霊的な交わりを試みてください。ハガキでも、手紙でも、メールでも、SNSでも、電話でも、もちろん、顔と顔を合わせての交わりを、積極的に取り入れてみてください。

イエス様は、次のようにおっしゃっておられます。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まり所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20) これは、祈りの場のことが中心ですが、祈りだけではありません。交わりの大切さをイエス様はおっしゃっておられるのです。

では、ひとりの時や、一人で祈るときは、イエス様はその場にいらっしゃらないのでしょうか。イエス様はいないとはおっしゃっておられません。それに、キリスト者ひとりひとりは、神の宮であり、心の中に聖霊様がおすまいです。つまり、ひとりでも関係なくいらっしゃるのです。では、なぜ、イエス様は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まり所には、わたしもその中にいるからです。」とおっしゃったのでしょうか。イエス様は交わりを大切にされたからです。信仰の成長に、交わりが必要不可欠であることをご存知で、そのことを強調されたお言葉なのです。

実際のリアルな、面と向かった、祈りや交わりだけではなく、いろんな媒体を通じて、祈り合うことや交わりには、二つの利益があります。一つは、祈る恵みであります。そして、もう一つは祈られる恵みであります。自分のことを祈るにしても、人のことを祈るにしても、祈りは神様との親密なる交流です。神さまと融合する、神様と一つになる恵みであります。祈りは私たちの信仰告白でもあり、その恵みには平安が伴います。そして、もう一つの祈られるという恵みですが、ほかの人たちが、私のために祈っていてくださるという確信によって、勇気と励ましを神様が下さるのです。祈りが答えられるという希望は確信へと変わるのであります。彼らのとりなしの祈りを力として受け、神様の導きを信じ、そして神様は、必ず祈りに答えてくださると確信できるのであります。詩篇の言葉がすなおに自分のものとなるのです。「私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩篇19:14) 私たちの思いが、主に喜ばれ、主に受け入れられるのです。他の人たちが、祈ってくださるからです。また、祈ってくださっていると信じられるからです。

互いに祈り合うのは、交わりの一つです。共に食事をし、共に語り合い、いろいろな形で交流をし、そして、その中には、必ずといっていいほど、祈りがあります。祈りのかたちをとらなくても、彼らに対する思いが起こされ、主にその思いをささげています。このような交わりがなく、礼拝だけでは片手落ちなのです。信仰の成長がなされにくい状態にあると言えるでしょう。

どうか、今、コロナ禍の中で、実際に会わなかったとしても、礼拝以外の主にある交わりの可能性を考えてみてください。また祈り、求めてみてください。

天国長屋の八さん熊さん、いかがですか。八さん熊さんの大好きな将棋も、主にある交わりの一つです。そう思うでしょう。

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八: 俺が初めて、教会の敷居をまたいだ時は、牧師先生の説教は、チンプンカンプンだった。だけど、後で、食事をいただいたり、また、いろいろとしゃべったりしたことが楽しくて、また来させていただこうって、気になったもんだ。それに、回をかさねて、礼拝に出席していくと、耳慣れしていくっていうか、説教もちっとは分かってくる。それに、信仰の先輩方と話していると、聖書の理解が進むっていうか、ああ、こんな風にも考えれるんだって、思える。なあ、熊、おめぇもそうだろう。

熊: まあ、似たり寄ったりだな。牧師先生には申し訳なかったけど、説教中、眠っている時もあったなぁ。とくに、話が、なかなか心にひびいてこないときは、コックリコックリだ。礼拝中、質問できるわけじゃねぇから、分からなくなったら、思考回路がシャットダウンするのさ。処理能力が、ひと昔のコンピューター並だから、フリーズするんだな。けど、後で、いろんな人が話してるのを聞いたり、質問したりして、それで、やっと、「ああ、なるほど!」ってなわけだ。

八: 二人で将棋している時も、教会に行き出してからは、良く聖書の話もしているな。それに聖句が時々出てきたりして。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)って言って、おめぇが「歩」で「王手」をしてきたときには、笑ったよ。だって、二歩だったんだから。

熊: あははは、あれは、その御言葉覚えたばかりだったから、使いたかったんだよ。まあ、将棋の話をするときりがないから、やめとくけど、やっぱり、交わりは大事だ。交わりがなかったら、俺は、教会生活、続いていなかったと思うよ。励みになんないんだから。

八: 俺たちゃ、教会の先輩方に教えられたし、助けられた。いま、半沢直樹っていうテレビドラマの再放送やってんじゃねぇか。

熊: ああ、「倍返し」で有名になったドラマだな。

八: 同じ倍返しだったら、「恩返し」で倍返ししたいと思ってんだ。俺は、御言葉にそんなくわしかねぇ。けどよ、イエス様いのち、っていう気持ちには誰にも負けねぇつもりだ。俺が、うけた恩は、新しく来た人や、まだ若い連中に、倍返ししたいと思ってんだ。それは、交わりのなにものでもねぇ。おれのできるのはそこしかねぇんだ。

熊: そうだよな。楽器もできなければ、歌もへたくそ。聖書の御言葉もあまり、覚えちゃいねぇとなりゃ、俺たちゃ、交わりの中で、証ししていくしかねぇな、イエス様いのちのことをよ。けど、「恩の倍返し」か。いいねぇ。それを可能にしてくださるのもイエス様だ。やっぱり、俺たちのイエス様さ。

八: 牧師さん、コロナで大変なのはわかるけど、何か、いろんな形で、交わりをやりましょうや。しんき臭くていけねぇ。もっと喜びを表すような、楽しいこと考えてください。よろしくおたの申します。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。コロナに注意しながらも、コロナで委縮してしまうのではなくて、なんかよい方法で、交わりをさせていただきましょう。その時は、八さん熊さんも手伝ってくださいよ。「恩の倍返し」なんでしょ。私もいっしょにさせていただきますからね。

さて、ただいまよりしばらくの間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇18篇を読んでみたいと思います。詩篇18篇を聞きつつ、今朝の「信仰の不足を補う交わり」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

私たちは、聖霊様によって信仰が与えられました。その信仰の芽は、神様によって育てられていますが、それはまた、主にある信仰の友との交わりによって、整えられていきます。どうか、御言葉と同様、交わりも大切にしつつ、信仰生活に励むことができますよう、祈りましょう。

黙想の前に、ルカの福音書7章50節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

(詩篇18篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「信仰の不足を補う交わり」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。主の喜びが私たちの喜びとなりますように。私たちのひとつひとつの言動ではなく、私たち自身が、そして主イエス様と私たちの関係が、主に喜ばれるものとなりますように、私たちをお導きください。

先週に起きた、南九州やほかの地域での集中豪雨で、被害にあわれた方々の上に臨んでいただき、主の癒しと平安が彼らをおつつみくださいますように。助け主、主イエス・キリスト様の御名により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌397「神の御子にますイエス」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●賛美「静まって知れ Still」♬

御翼の 陰に隠し 力ある 御腕の中に

逆巻く大海を越え 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

キリストの 中に憩い 信頼と 主の力知る

いかずち鳴り渡る中 主と共に羽ばたく

我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。