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メッセージ主題:『神の国のための苦しみを喜びに』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テサロニケ人への手紙第二』

2020時年8月2日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌300「御恵み豊けき」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」♬(末ページに記載)

交読: 交読文3:詩篇第16篇:新聖歌p.880-881

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌389「わが主はまことの牧者」

聖書拝読:テサロニケ人への手紙第二1章3節~12節(新改訳聖書)

中心聖句:

「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」(5)

メッセージ主題:『神の国のための苦しみを喜びに』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テサロニケ人への手紙第一第5章から、『感謝し・祈り・喜ぶ』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。この第5章は、第4章での、主の再臨のことをうけて、その再臨がいつなのかは誰にもわからないので、いつも「目を覚まして、慎み深くしていましょう」(6&8)とパウロは勧めています。「慎み深くする」という言葉には、「物静かで、思慮深くする」というイメージがあるように思います。事実、このところの英語は、self-control です。つまり、パウロは、どんな状況下にあっても、自制し、平和を保ちなさいと諭しているのです。そして、パウロは、「自制し、平和を保つこと」は、消極的にじっとしていることではなく、積極的に「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝する」ことであると説くのであります。先週は、その積極的に主を感じ、主とともに生きることを考えさせていただきました。

今週から、テサロニケ人への手紙第二に入ります。今朝はその第1章から、『神の国のための苦しみを喜びに』と題しまして、神様からのメッセージを味わいたいと思います。この第1章は、キリストの来臨と裁きのことが書かれています。その中心聖句は7節です。「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて現われるときに起こります。」苦難の中にいるキリスト者にとっての最大の慰めは、主にある永遠の安息が与えられることであります。それを希望として、キリスト者は忍耐するのであります。来るべき主の日、キリストの再臨にキリスト者は希望をおくのであります。希望は喜びでもあり、従って、今受けている苦しみも喜びと変えられる、そのことを確信できる人は、まことに幸いであります。今朝は、「神の国のための苦しみ」のことを考えてみたいと思います。

短くお祈りいたします。

イエス様は、山上の説教の中で、次のようにおっしゃいました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから、あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

また、パウロはローマ書でも同じようなことをしたためています。5章2節~5章です。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 パウロは「患難さえも喜んでいる」と主張します。しかし、その患難の正体がわからない限り、心底喜ぶことはできないのではないでしょうか。

パウロの言うところの患難とは、さきほどのイエス様の言葉にもありましたが、キリスト者ゆえに受ける外部からの迫害のことであります。確かに、キリスト者に対する、誤解や揶揄、言葉の暴力、それに嫌がらせや脅迫、疎外、また、殺戮ということも、その世界では行われています。日本では、殺戮まではないにしても、キリスト者ゆえの誤解によるプレッシャーを与えられたり、村八分的な疎外感を味わうこともあるでしょう。例えば、キリスト者になって、お酒を飲まなくなり、付き合いが悪くなってしまい、相手からも誘われなくなってしまった。社会的な交流が少なくなって、それが悩み苦しみの種となってしまうこともあるでしょう。陰口をたたかれる要因にもなるかもしれません。人間は、社会生活を営む動物ですから、疎外感は、非常に応えます。教会が、その疎外感を癒してくれる場所のはずなのですが、かえって裁き合うことをしてしまうと、これは、つらい。教会には、自分の居場所を作ってもらいたいと思うのですが、それもできないで戸惑っている人もいるようです。

少なくても、教会では、祈り合い、赦し合い、いたわり合う、共に悲しみ、共に喜ぶ、共に理解に努め、主のひとつのからだでありたいものであります。

しかし、今日私が示されていますのは、外部からの苦しみではありません。キリスト者ゆえの内なる葛藤であり、心のうめきであり、精神的な、霊的な苦しみであります。それを、聖霊様の力の導きによって、克服に向かわない限り、「神の国のための苦しみを喜ぶ」ことはできないのではないかと思うのであります。

キリスト者ゆえの心の内からの苦しみとは、例えば、悪魔による誘惑との戦いがあるでしょう。イエス様は、宣教を始めるにあたって、四十日四十夜断食し、悪魔の試み・誘惑に受けやすい状態になられた。その時のことを今朝は学びたいと思います。 マタイ4:1-11

●悪魔の試み、その①

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

イエス様の答え:「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

申命記8:2-3「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたを知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口からでるすべてのもので生きる、ということを、あなたに分からせるためであった。」人の力によらぬマナによる日々の養いは、イスラエルの民に、主のみことば(御心)こそ生きる根拠であることを教えられた。

ここでのパンを社会生活と、そして神のことばを信仰生活と読み替えることもできるのではないでしょうか。『人は社会生活も大切である。しかし、社会生活だけで生きているのではない、神に対する信仰生活、神のことばによって養われることはもっと大切である』とイエス様は説きます。つまり、「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)ということです。悪魔の提案は、創造の神への信頼を抜きにして社会生活を営みなさい、それで十分だからと、私たちから神抜きの物質的な生活を誘惑するのです。

●悪魔の試み、その②

第一の誘惑に失敗した悪魔は、神への深い信頼を表している詩篇91:11&12を引用して、イエス様の神への信頼を逆手にとって、奇跡をみせてみなさいと誘惑する。悪魔も考えました、相手が聖書の御言葉でくるなら、こっちも聖書の御言葉で惑わそうとしたのです。

「あなたが神の子なら、下に身をなげてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』(詩篇91:11&12)と書いてありますから。」

イエス様の答え:「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

申命記6:16-17「あなたがたがマサ(民が飲み水を欲しがった場所)で試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。」主を試みるとは、主の愛や御力を疑い、自分に納得できる証拠を求めることです。つまり、自らの思い通りに神を動かそうとする試みであります。これは、偶像礼拝はすべてそのようなものです。人間が利益を得るために、神をあがめ、神をコントロールしようとするのです。キリスト者もお願いはします。「求めよ、さらば与えられん」と言われるのですから。しかし、それがわがままな、自分中心の利益のためのお願いで、終わってしまうなら、この悪魔の誘惑の罠にかかっていると言えるでしょう。イエス様は、そんなことのないようにと自ら見本をお見せくださいました。それが、祭司長たちに捕まえられる前の、ゲッセマネでの祈りであります。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)「わたしの願うようにではなく、あなた(天のお父さま)のみこころのように、なさってください」と、神に服従する姿勢をお示しくださいました。私たちの個人的な願いよりも、神の栄光が現われることが一番であることを、イエス様は身をもってお教えくださっています。

●悪魔の試み、その③

「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

悪魔は露骨に、「神ではなく、私に従え」とイエス様に詰め寄ります。

イエス様の答え:「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

申命記6:13-14「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。」これは、主を恐れ、主を良心の主とすることの具体的な決意としての誓いであります。また、農産物の豊穣をもたらす農業神、自然神、物質的繁栄への欲望が、創造の神をおろそかにし、神から目を背けるという罪を誘発することへの警告でもあります。

これら、イエス様に向けられた誘惑は、私たちが受ける誘惑でもあります。①社会生活も大事だが、信仰生活が優先されるべきであり、まず神の国と神の義を求めること。②個人的な願いを求めるのはよいが、神の栄光が現わされることが優先されるように、主に降参し、聞き従うこと。③人間が作った他の神々に頼ることなく、創造の主を恐れあがめること。これらのことをゆるがせる、悪魔の甘い誘惑との葛藤が苦しみでもあります。そして、この苦しみは、私たちが神の国にはいるための苦しみであります。私たちは、イエス様のように、一刀両断に悪魔の誘惑を断ち切ることができない弱さを持っています。その弱さに負けてしまってはいけません。いえ、パウロは、「弱い時にこそ、強い」と言い放っています。コリント人への手紙第二12章9節から10節です。「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」弱さを覚えれば覚えるほど、主に依り頼む割合が多くなるのであります。つまり苦しめば苦しみほど、主に依り頼むことになり、その分、平安に満たされることになります。そして、その平安こそが、御国での喜びとなるのです。

さて、今朝は、天国長屋の八さん、熊さんは戻ってきております。少し、彼らの話を聞いてみましょう。八さん、熊さん、お帰りなさい。お二人は、「神の国のための苦しみ」とはなんだと思いますか。

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八: ただいま。いやぁ、徳島での教会員の皆さまと福音落語を楽しんできました。感謝でした。なあ、熊。

熊: マスカットやわかめまで、お土産にいただいて、とても良い時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます。

八: ところで、今、牧師さん、「神の国のための苦しみ」とはなんだって、聞いてたな。熊はどう思う。

熊: は?なんだって?牧師さん、なんか言ってったっけ?

八: 熊、「ぼーっと、生きてんじゃ、ねぇよ」

熊: なんだよ。NHKのチコチャンみたいなこと言いやがってよ。

八: これ、ちょいとやってみたかったんだ。だけどな、礼拝にウトウトしてどうするんだ。イエス様は、「わたしといっしょに目をさましていなさい。」とおっしゃったじゃねぇか。礼拝はイエス様といっしょだ。その礼拝中に「ぼーっとしてどうする」

熊: けどよ、イエス様のゲッセマネでの祈りの時には、弟子たちは眠っていたんじゃねぇか。

八: 弟子の全員が眠っていたわけじゃねぇ。全員が眠っていたら、あのイエス様の「みこころのままに」という祈りは、聞けてねぇんだから。

熊: なるほどな。ところでよ、「神の国のための苦しみ」か。俺は、自分がつくづく嫌になる時がある。

八: どういうこったい。

熊: ときどき、やってはいけねぇと思いつつ、やっちまうことがある。例えば、愚痴だ。愚痴を言っても始まらねぇとは思ってるんだが、ついつい、言っちまう。言っちまった時は、ちょっとはスカッとするかもしれねぇが、その後に、ズシーンと心に錘(おもり)が入ったような感じになるときがあるんだ。

八: 口を制することは難しいやな。ヤコブのだんなも言ってるじゃねぇか。「舌は火であり、不義の世界です。」(3:6)、「舌を制御することは、だれにもできません。」(4:8)、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(3:9-10)

熊: 舌を制御することはできねぇ。だから、この苦しみ、葛藤は、一生つづくんだよな。

八: 賛美とのろいが同じ口から出てくるんだけど、その比率をかえてみると少しは楽になるかもしれねぇよ。賛美や御言葉を口にとどめるんだ。詩篇の34篇は、こう言ってる、「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」(34:1)

熊: なるほどね。賛美で、口を忙しくすればいいんだ。そうするとのろいも出にくくなるてなわけだ。

八: まあ、そう簡単にはいかねぇかもしれねぇけど、やってみる価値はあらぁな。

熊: それこそ、あれじゃねぇか。「苦しみが喜びとなる」ってことの予行演習かもしれねぇな。イエス様に賛美をささげるときには、心は喜んでるんだから。

八: 熊がいうように、賛美は、天の御国で「苦しみが喜びとなる」予行演習なのかもしれねぇな。今日も、礼拝で、「ぼーっと生きてんじゃねぇよ」と言われねぇような、いい教えが与えられた。感謝だねぇ。牧師さん、こんな感じでいいですか。

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八さん、熊さん、ありがとうございます。結婚式のお手伝い、徳島の教会で福音落語のご奉仕、ご苦労様でした。『賛美は、天の御国で「苦しみが喜びとなる」予行演習』いいですね。私たちは、いつも、聖書の御言葉や賛美を口にとどめたいものです。たとえ、礼拝中に、ウトウトしたり、コックリコックリしたとしても、イエス様は弟子たちをお赦しくださったように、天のお父さまもお赦しくださいます。しかし、5歳のチコチャンに「ぼーっと生きてんじゃねぇよ」と叱られないように、また、誘惑に惑わされないように、心の目を覚まして、いつも主を想い、主の御名を賛美しつづけたいと思います。「苦しみが喜びとなる」賛美をささげたいと思います。

では、いつものように黙想いたしましょう。

まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇34篇を読んでみたいと思います。詩篇34篇を聞きつつ、今朝の「神の国のための苦しみを喜びに」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

私たちの弱いところに、聖霊様が働いてくださって、常に、天のお父さまを拠り所とすることができますよう、罪の誘惑からも私たちを遠ざけてくださいますよう、イエス様にお願いいたしましょう。

黙想の前に、マタイの福音書5章6節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」

(詩篇34篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「神の国のための苦しみを喜びに」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。『賛美は、天の御国で「苦しみが喜びとなる」予行演習』。このことを心にとどめ、賛美がつねに私たちの口にとどまり、主の御名をほめたたえる一日一日を過ごすことができますように。

梅雨が明けてきましたが、先の暴風雨による被害が出ている多くの地域の方々に、平安がございますように。復興がすすみますように。彼らに生きる希望が与えられますように。またコロナの脅威が日々増しています。どうか、私たちが油断することなく、慎み深く生活することができますよう、お導きください。その代わり、リモートなどによる交わりがもっと頻繁に行われ、祈り合い、励まし合い、悲しみも苦しみも喜びも分かち合うことができますようにしてください。心の拠り所である、主イエス・キリスト様のお名前により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌365「君なるイエスよ」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●賛美「求めて」♬

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。