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メッセージ主題:『罪人のかしら』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テモテへの手紙』

2020時年8月23日

聖書拝読:テモテへの手紙第一1章12節~16節(新改訳聖書)

中心聖句:

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(15)

メッセージ主題:『罪人のかしら』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テサロニケ人への手紙第二第3章から、『締まりある生活』と題しまして、神様からの導きをいただきました。この第3章は、パウロは教会信徒での怠惰な生活を戒めています。その代表的なことばが、10節の「働きたくない者は食べるな」ということです。日本では昔よく「働かざる者食うべからず」と言われていましたが、パウロの宣べていることとは少し違います。「働かざる者食うべからず」という言葉には、働けない者は切り捨てるという思想が反映しています。つまり、働きたくても働けない事情のある者も、また結果の出ない者も、生きるに値しないという恐ろしい思想であります。まるで、軍国主義の旧日本軍のようです。しかし、パウロは、「働けるのに働こうとしない者は食べてはならない」つまり「働こうとしないで、人にばかり頼って生きていてはダメです」と主張しているのです。先週は、パウロがどのような状況でこのことを述べたのか、また「締まりある歩み方」とはどういうものなのかを学ばせていただきました。

今週から「テモテへの手紙」に入ります。パウロが愛弟子である若いテモテをエペソに送り、そのテモテを励ます手紙であります。当時、エペソ教会では、違った教えを説いたり、空しい空想話と系図に心を奪われたりする人も出てきていて、若いテモテを手こずらせていました。そのテモテを励ますとともに牧会についての諸注意を与えたものです。そのような手紙から、今朝は、テモテへの手紙第一の第1章から、『罪人のかしら』と題しまして、神様の声に耳を澄ませたいと思います。この第1章は、「異なる教えについての警告」と「神の憐れみに対する感謝」とが記されています。今朝は、「神の憐れみに対する感謝」のところから、「罪人こそが救われる」「自分が本当に罪人であるという意識が神を求め救われるのだ」とパウロの信仰を学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。

パウロは自分のことを「罪人のかしら」と表現しました。それは、彼が告白するように、「以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」(1:13)であったことでもあるでしょう。熱心なパリサイ主義者として育てられたパウロは、当時の異端者であるキリスト信者をみのがすのではなく、積極的に取り締まっていました。使徒行伝8章では次のような記述があります。「サウロ(パウロの以前の名前ですが)は教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」(8:3)とあります。パウロが、ダマスコの途上でキリストに個人的に出会い、回心する直前まで、彼は熱心にキリスト信者を取り締まっていました。(9:2)そのような彼でありますから、神であるキリストに対して、キリスト信者を迫害するという罪を犯し、「自分は罪人のかしらである」と告白することは、当然のことのように思えます。

しかし、パウロの「罪人のかしら」というのは、迫害の罪を犯した罪人というよりは、もっと人間本来の内面的な罪深さを示しております。パウロはそのことをローマ人への手紙7章で告白しております。少し長いですが、お読みいたします。7章15節~23節です。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私雄からだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」

パウロは自分に深く根差している罪の性質を認め、善を思うこころの思いとは真逆なこと、つまり罪を犯させるのは肉の思いであるとしています。肉は罪に支配されており、キリストによって新しく生まれ変わった内なる自分を攻撃し、自分でしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行っていると告白するのです。その意味において、パウロは自分自身を「罪人のかしら」と表現しています。

私たちクリスチャンは、パウロに見習って、よく「私は罪人です、私は罪人のかしらです」と言うことがあります。たしかに、その通りです。しかし、パウロが、そのことにおいて、自分は「ほんとうにみじめな人間です」と告白している、その悲痛さを同じように背負って、私たちは「私は、罪人のかしらです」と言っているのでしょうか。内にある善と悪との葛藤、「自分でしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行っている」そのみじめさをひしひしと感じているでしょうか。

私に関して言えば、「私は罪人です」と告白するときに、パウロのようなどうしようもないみじめさや悲痛さを感じて言っているとは、自分ではまだまだ思えないのです。私の「私は罪人のかしらです」という告白は、軽い、じつに軽すぎると思えるのです。

それは、逆に言えば、私の中の「神の救い」は、軽いということなのです。パウロが言うところの「私は罪人のかしらです」は、『こんなみじめな私でも、救ってくださる神の愛、神のあわれみは深くて大きい』と訴えているのです。私の軽い「私は罪人のかしらです」という告白は、神の深い愛を、まだまだ分かっていない、神のあわれみをまだまだ理解していないということです。

これはイエス様がパリサイ人の家に食事に招待されたとき、罪深い女が入ってきて、「泣きながら、イエス様のうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし初め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」時の、イエス様のお言葉が通りなのです。

イエス様はおっしゃいました。「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(ルカ7:47)

自分が正しい、罪深くはないと思っていれば、イエス様のあわれみや救いも、少ししか分かっていないのです。イエス様を少ししか愛せないのです。

イエス様は、人類全員の罪の贖いのために十字架にかかり、自らのいのちをなだめのいけにえとしてささげられました。イエス様を知る人にも知らない人にも、認める人にも認めない人にも。神はイエス・キリストを通して、人類ひとりひとりを救おうとする計画を実行されました。ここに神の深い愛があります。

神様の愛の深さ広さが分るには、自分がどれだけ罪深い者であるかを身に沁み、その罪をすべて帳消しにしてくださっているイエス様のいのちの聖さと尊さが分らないといけません。

どうか今一度、「私は罪人のかしらです」というパウロの気持ちを考えてみてください。パウロは、自分は本当にみじめな人間で、したいと思う善を行わないで、したくない悪を行うような者であるが、それでも、神はイエス・キリストをお送りくださり、罪を贖ってくださった。ここに愛があります。私たちは、本当に、神のあわれみによってのみ生かされていることに感謝いたしましょう。

今朝は、天国長屋の八さん、熊さんは岸和田の教会に行っており、こちらの礼拝はお休みをさせていただいております。

すぐに黙想に入りたいと思います。

まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇25篇を読んでみたいと思います。詩篇25篇を聞きつつ、今朝の「罪人のかしら」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

神様の深い愛、あわれみを知るには、私たちが、みじめな、自分ではどうしようもない罪人であることを自覚する必要があります。そのためにも、どうか聖霊様に導いていただき、私たちの隠れた罪、自覚していない罪をもお示しくださるよう求めましょう。

黙想の前に、ルカの福音書5章31-32節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しいひとを招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

(詩篇25篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「罪人のかしら」と題しまして、あなた様からメッセージに耳を傾けさせていただきました。どうか、イエス様の愛をもっともっと分かる者としてください。そのためには、私の自覚していない罪も明らかにし、悔い改めに導いてください。そうすれば、もっとあなた様の愛が分り、あなた様に近づくことができますから。

猛暑やコロナを通しての、あなた様の御計画を私たちにもお知らせください。そして、それらからも守られ、また社会や経済が順調に回復しますように。主の栄光が現われますように。あわれみの主、イエス・キリスト様のお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の歌

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0