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メッセージ主題:『神の家とその奥義』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テモテへの手紙』

2020時年9月6日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌426「世には良き友も」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」♬(末ページに記載)

交読: 交読文5:詩篇第19篇:新聖歌p.882-883

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌421「ここに主は在(ま)して」

聖書拝読:テモテへの手紙第一3章14節~16節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」(14-15)

メッセージ主題:『神の家とその奥義』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テモテへの第一の手紙第2章から、『すべての人の救い』と題しまして、神様からの導きをいただきました。この第2章は、「祈りを中心とする信仰生活のすすめ」が中心となっています。キリスト者は、敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすべきであるとパウロは述べています。このような信仰生活が救い主である神に喜ばれることだというのです。また、神が望んでおられることは、「すべての人が救われて、真理を知るようになること」であります。先週は、この「すべての人の救い」について考えさせていただきました。

今朝は、テモテへの第一の手紙第3章から、『神の家とその奥義』と題しまして、神様の声に耳を傾けさせていただきます。この第3章は、「監督者・司教の資格」「執事・奉仕者の資格」について述べられており、そして、このテモテへの手紙の目的が「キリスト者が神の家でどのように行動すべきか」ということであると明言されています。神の家でのとるべき行動は、この手紙のいたるところにちりばめられています。今朝は、監督者や執事の資格を通して、神の家でのとるべき行動を考えてみたいと思います。

短くお祈りいたします。

「神の家」とは「生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」(15)とあります。ここでの教会は建築物ではなく、キリストを信じるすべての人の集まりである教会を示します。教会の監督や執事は、いわばキリスト者の模範的存在です。これら二人の資格の共通項には、私たちキリスト者が、神の家でとるべき行動が示されているような気がします。少し時間を割いて、監督と執事の資質の共通項を考えてみましょう。共通項としては3つにわけてみました。

ひとりの妻の夫、(また、ひとりの夫の妻であり)子どもと家庭をよく治める人

クリスチャンの働きや教会の奉仕に没頭してしまい、家庭を顧みない状態になってしまうことがあってはならないとパウロは諭すのであります。キリスト者であったパウロは独身でありました。しかし、彼は、霊的な指導や歩みは家庭から始まらなければならないと強調するのであります。家族が信仰につまずくのは、信仰者の態度が、教会と家では違うからであります。そこには「家族だから、身内だから」という自分勝手な甘えがあります。たしかに、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)という言葉は真実です。しかし、この言葉は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、自動的にあなたの家族も救われます」と言っているのではありません。「先に信じ救われた者が、家族の救いのために祈り始め、祈りを積む」ことで、この言葉は成就するのです。また、信じる前と信じた後で、その人の言動に何の変化もないのであれば、主に新しくしてもらっていないのであれば、家族は、イエス・キリストに興味を示さないでしょう。先に救われた人に、変化があってこそ、家族は動くのであります。

実は私は、10年以上前に結婚に失敗して、それ以来ずっと一人暮らしです。ですから、家庭のことに関してはなにも偉そうなことは言えません。今、私にできることは、元家族の救いと主の守りのために祈ることだけです。「神の家」は「生ける神の教会」ではありますが、その最小単位が「家族」であるなら、どれだけ励まされ、癒されることでしょう。どうか、家族の救いのために祈り続けてください。あなたの家族を「神の家」とさせていただきましょう。

高慢にならず、謙遜で、すべてに忠実である人

2節には、「自分を制し、慎み深く、品位があり」とありますし、8節では、「謹厳で、二枚舌を使わず」11節にも、「威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人」であるべきだとあります。これらのことは、ある意味、「謙遜」という言葉に集約できるのかもしれません。使徒ペテロも、自信の手紙の中で、「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」と述べています。(1ペテロ5:5)クリスチャンの謙遜とは、神の御前に、自分は取るにたらない存在であることを認めることです。イエス様ご自身が謙遜のお方でありました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)そして、謙遜であり、へりくだるという態度は、人に仕えるということでもあります。イエス様のお言葉をお借りすれば次のとおりです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:26-28)そして、これは、クリスチャン同士がお互いに仕え合うというだけにはとどまりません。なぜなら、イエス様は、イエス様を信じる人だけではなく、信じない人のためにも、十字架にかかり、贖いの代価を前払いされたからです。そこで3つ目の共通項です。

教会外の人々にも評判のよい人

このような人は、「暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、二枚舌を使わず、大酒飲みではなく、不正なりをむさぼらず、きよい良心をもつ」人であり、それは一般常識的にも、つまり誰が見ても信用される人のことでもあります。パウロは、このことは、「そしりを受け、悪魔のわなに陥らないため」だと言っています。私たちは、全員、残らず罪人です。ですから、完璧ではありませんし、聖人でもありません。しかし、教会の外の人のクリスチャンのイメージは違います。聖人君主や淑女のようなイメージを持たれます。そのイメージに答えよう、そのイメージを壊したくないと頑張るクリスチャンもいます。けなげな感じではありますが、自分の心がけとは別に、逆に律法的になりやすくなるという危険性も含まれています。そこに、悪魔に忍び寄る隙を与えてしまうことにもなりかねません。イエス様の血潮によって、私たちは主にあって自由を得たにもかかわらず、外部のクリスチャンのイメージによって、その自由を台無しにしてしまうことにもなるかもしれません。「教会外の人々の評判」を気にするのではなく、主にあって救われた喜びを常に持ち続け、主の平安に満たされているなら、自ずと教会外の人々の評判も良くなるに違いありません。なかなか難しいとは思います。例えば、私はお酒を飲みません。もともと、あまりお酒が強くなく、すぐ気分が悪くなるからですが、どうしてだか、世間の人は、「クリスチャンはお酒を飲まない」というイメージがついているようで、そのイメージを壊したくないと意識も少しは働いていて、お酒はのみません。お酒を飲まなくても、十分、人との交わりはできるからです。また、お酒をたしなむクリスチャンを非難するつもりもありません。お酒が飲めることをうらやましいとは思いませんが。自然体でいたいと思っています。ですから、この件では、神様は私を守ってくださっています。しかし、このお酒の件でも、悩むクリスチャンは多いのではと思います。とにかく、「こんな者でも、神様は愛してくださっている。その神様の愛にこたえるためには、神様を誠心誠意愛することでしかない」と思えれば、もっと自由になれるかもしれません。クリスチャンはこうあるべきだという、教会内外からの監視の目から、まず自由になる、そのためにはイエス様だけを見つめることが必要なのかもしれません。

さて、これら、3つの項目を見てきましたが、すべてがイエス・キリストへの信仰に基づくものであることに気づかされるでしょう。それが、「神の家、生ける神の教会が、真理の柱また土台」であるとパウロが述べていることであります。真理の柱、土台はキリストへの信仰そのものなのです。ですから、パウロは16節でこのことを「敬虔の奥義」として紹介しています。今一度見てみましょう。

「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

このことを、すべてそのまま受け入れ、イエス・キリストを信じる信仰の土台としなければいけません。この土台がぶれない限り、私たちは、遅かれ早かれ、聖霊様によって、日々新しくされ、変えられていきます。この「敬虔の奥義」をもう少し説明したのが、「使徒信条」であります。

「使徒信条」に少しでも疑いがあるのなら、その人の信仰はぶれているか、ぐらついているのです。また、この「使徒信条」に、足したり引いたりするものがあるのなら、それは、異なった教えとして「異端」扱いされるかもしれません。それほど、この「使徒信条」は、私たちの信仰の土台なのです。今一度お読みいたします。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて生ける者と信にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン。

今朝は、久しぶりに、天国長屋の八さん、熊さんが礼拝に参加されています。八さん、熊さん、岸和田の教会でのお手伝いと結婚式のお手伝い、ご苦労様でした。今朝の礼拝で、「神の家とその奥義」と題されて、神様からのメッセージをいただきましたが、何か思うところはありますか。

―――――

八: ただいまです。3週間ぶりで。今日のメッセージでね、、、そうさな。俺たちゃ、あまり出来がよくねぇから、監督者や執事には、なれねぇ。無縁だ。もちろん、人から後ろ指をさされることは、やっちゃぁいねぇよ。けど、人望が厚いかってきかれりゃ、答えにこまるなぁ。なあ、熊。

熊: そうさな。俺は魚屋の熊で、おめぇは八百屋の八だ。それ以上でも、それ以下でもねぇ。けど、俺たちゃ、イエス様いのちだ。「ぼろは着てても、心は錦」ってやつだ。まあ、金持ちでも貧乏人でも、関係ねぇ。牧師さんがさっき唱えた「使徒信条」にぶれがなかったら、それで十分なんじゃねぇか。

八: だよな。ちょっと前、牧師さんが言ってた、「信仰は神さまの祝福」だって。信仰は神様からのプレゼントだ、恵みさ。その恵みをちゃんと受け取って、持ち続けているんだったら、俺たちゃ、変われる。変わらないと嘘だ。聖霊様によって、俺たちゃ、毎朝新しくされるんだ。

熊: 毎日、ちょっとずつしか変わらねぇから、俺たちには分からねぇけどよ、変化が見えている人には見えているんだと思うよ。とくに神様は見てくださっている。それで十分だろうよ。

八: 俺たちゃ、神様にほめられるのが一番だ。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」って言ってくださるんだから。

熊: おお、それはイザヤ書43:4だね。それに「わたしがあなたとともにいる」ともおっしゃってくださる。嬉しいじゃねぇか。これ以上の幸いはねぇ。イエス様がいつもいっしょにいてくださるんだから。恐いものなしさ。

八: 信仰こそが勝利だ。ん? なんかこんな歌あったよな。

熊: 「信仰は勝利。信仰は勝利。信仰もて 世と悪魔に勝たん。」だろ。

八: あったね。歌のタイトル忘れたけど。「信仰は勝利」俺たちゃ、イエス様への信仰をもった時点で、勝利してんだな。感謝だねぇ。牧師さん、このぐらいでいいですかい。神の国の奥義は、難しいことは分かんねぇけどよ、俺たちにとっちゃ、イエス・キリストにあって単純な信仰なんだ。

熊: 信仰が単純なほど、イエス様にあって自由なんだと思うんだけどね。

―――――

いやぁ、八さん、熊さん、ありがとうございます。信仰は本当は、とても単純なんだと思いますよ。そして、信仰が神の国の奥義であり、使徒信条そのものでもあるのでしょうね。牧師や神学者が難しくしているのかも知れません。私も反省します。

さて、黙想の時間にいたしましょう。

まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、イザヤ書61章を読んでみたいと思います。イザヤ書61章を聞きつつ、今朝の「神の家とその奥義」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

心の中でもう一度、使徒信条をじっくりと味わうのもいいでしょうね。

黙想の前に、ルカの福音書22章32節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

(イザヤ書61章)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「神の家とその奥義」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。教会内のことにしろ、教会外のことにしろ、すべては私たちの信仰にかかっていますことを今日も気づかせていただき、感謝いたします。信仰は神の祝福であり、勝利であります。どうか、私たちの、心の土台である信仰を揺るぎないものとしてください。また、超大型台風10号が九州南部に接近しつつあります。どうかすべての方が守られますように。そして、コロナも確実に収束に向かい、社会や経済が順調に回復しますよう、お導きください。また、対処の知恵をおさずけください。主の栄光が現われ、主を信じる人が多く起こされますように。救い主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌458「光の高地に」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●賛美「求めて」♬

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。