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メッセージ主題:『キリスト・イエスの奉仕者』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テモテへの手紙』

2020時年9月13日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌284「ひたすら求めよ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌332「主はまことのぶどうの木です」

交読: 交読文6:詩篇第22篇:新聖歌p.883-884

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌266「罪 咎を赦され」

聖書拝読:テモテへの手紙第一4章4節~11節(新改訳聖書)

中心聖句:

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。」(6)

メッセージ主題:『キリスト・イエスの奉仕者』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テモテへの第一の手紙第3章から、『神の家とその奥義』と題しまして、神様の声に耳を傾けさせていただきました。この第3章は、「監督者・司教の資格」「執事・奉仕者の資格」について述べられており、そして、このテモテへの手紙の目的が「キリスト者が神の家でどのように行動すべきか」ということであると明言されています。神の家でのとるべき行動は、この手紙のいたるところにちりばめられています。先週は、監督者や執事の資格を通して、神の家でのとるべき行動を考えさせていただきました。

今朝は、テモテへの第一の手紙第4章から、『キリスト・イエスの奉仕者』と題しまして、神様からのメッセージをいただきます。この第4章は、「キリスト・イエスの立派な奉仕者」について述べられており、簡単にいえば、キリストの福音を伝え、また兄弟姉妹に、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔、つまりは、救い主である、生ける神に望みを置くことを教えることが、主にある奉仕者であるとパウロは主張します。今朝は、この「敬虔を教える奉仕」について、主に導いていただきたいと思います。

短くお祈りいたします。

このテモテへの手紙の中のパウロの言うところの「キリスト・イエスの奉仕者」とは、今で言う、牧師や伝道師、それに役員や長老の方々を示します。つまり教会のリーダーたちのことですが、今日はこれを教会員全員として考えたいと思います。なぜなら、教会員、ひとりひとりは役割や賜物は違いますが、キリストがそのかしらとなって、皆の思いは一つ、希望も一つ、私たちに働きかける御霊も一つだからです。私たちは、直接的にしろ間接的にしろ、お互いがお互いに教えることができ、また感化しあいながら、信仰を強めていくことができるからです。

さて、教会においての「敬虔」とは何でしょうか。「敬虔」とは短く言えば「神を畏れる」ということです。信仰生活においてこの「敬虔:神を畏れる」ということが、もっとも大事であると思われます。「神を畏れる」とは、神をこの世界の創造者としてあがめ、神にすべての主権があることを認めることでもあります。神は義のお方ですから、神の働きはすべて義であり、正しいとし、それに服従することでもあります。そして、それは主に仕えるということでもあります。

「敬虔」「神を畏れる」という、どちらかと言えば抽象的な言葉から、「仕える」という具体的なことばにしますと、私たちにとっては分かりやすくなるのかもしれません。

イエス様は次のようにおっしゃいました。

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:26-28)

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:26)

「誰かに仕える」というのは、自分中心の生活を放棄し、その人中心の生活に移行するということです。私たちクリスチャンにとっては、「敬虔」や「神を畏れる」ということは「神である主イエス・キリストに仕える」ということであり、「自己中心の生活から、神中心・イエス様中心の生活に切り替える」ということでもあります。そして、そのことは、私たちの心の内に住み給う聖霊様によって実現いたします。

パウロはそのことを次のように述べています。

「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:6)

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(2コリント3:6)

パウロの言うところの文字とは、ユダヤ人が大切にしてきている律法であります。「文字に仕える」とは、律法(つまり法律や既成概念)を守ろうとすることですが、人間には実際には守り切れないのです。「御霊に仕える」とは、「聖霊様の御心を求め、その導きに従っていく」ということです。

私たちは、自分の頭だけで神に仕えることはできません。また、既成概念からも解放されなければ、真に主に仕えることはできません。独りよがりな思いによって主に仕えることはできません。聖霊様の導きによらなければ、私たちは本当の意味で神に仕えることはできないのです。

私たちは、主イエス・キリストを信じることによって、既成概念の呪縛から解放され、自由となりました。私たちは、「自由を与えられるために召されました。」しかし、その自由をはき違えてはいけません。自由だからといって、何をしてもいいというわけではなく、自由ゆえに、「愛をもって互いに仕えなさい」とパウロは強調します。(ガラテヤ5:13)なぜなら、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ5:14)とパウロの口を通して、主は言われるからであります。

パウロの言うところの「愛をもって互いに仕え合う」こと、「主イエス・キリストを愛するように、互いに愛し合うこと」つまり「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えること」(エペソ6:7)が、「敬虔を教える奉仕」であり、「神を畏れる」ことを教会内で伝えていく、または教会内に浸透させていくことになります。

パウロは、「敬虔を教える奉仕」として、ピリピ書の2章1節~5節までに、もう少し具体的な記述を記しています。少し長いですが、お読みいたします。

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」つまりイエス様を信じ、イエス様に従うなら、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちに見られるものです。」

「愛をもって互いに仕え合う」ためには、主イエス様にあって、一致がなければなりません。イエス様が私たちを愛してくださったように、そのような愛の心を持ち、一つの志、それはイエス・キリストの福音を伝えるということ、その志を共有し、お互いを思いやるやさしさをもつこと。

これが、パウロのいうところの「キリスト・イエスのりっぱな奉仕者」ではないでしょうか。

ここで、すこし、私の失敗した話をお聞きください。

私は、アメリカで洗礼を受けました。洗礼を受けてから、イエス様にもっと愛されたいと思い、一生懸命奉仕をしていました。英語がしどろもどろにもかかわらず、青年局の音楽奉仕(ギター担当)をしつつ、CSの先生のお手伝い、留学生クリスチャンとの交わり、4人グループの祈り会など、毎週精力的に教会内外で、奉仕活動をしていました。奉仕をすることは、神様への愛の現われだと、自分に言い聞かせていました。私は、大学院の学生でもありましたし、大学で日本語も教えておりましたので、レポートに追われ、講義の準備に追われ、それにプラスで教会活動。もうアップアップという事態に陥り、私の尊敬する牧師先生に愚痴を言ってしまいました。いえ、牧師先生に愚痴を聞いてもらい、「よく頑張っているね」とほめてもらいたかったのでしょう。しかし、牧師先生は、「そうであれば、教会の奉仕をやめなさい。喜びがなく義務でするのなら、主はお喜びになりません」とピシャリ。日頃温厚な牧師先生ですが、ちょっとびっくりするほどの語調でした。冷水を浴びせられたような感じになりました。おっしゃられた牧師先生ご自身もびっくりされたようでした。こたえました。牧師先生は祈ってくださいましたが、もう頭が真っ白となり、何をどう祈ってくださったのかも思い出せないぐらいショックでした。しかし、これだけは覚えていました。牧師先生が示された聖句です。1テサロニケ5章、16節~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」後に、私の生涯の聖句となりましたが、当時の私は、「喜べず、祈りもそこそこ、感謝なく愚痴をいう」者と化していたのです。初めは神様に喜ばれたいと思って始めた奉仕でしたが、いつの間にか義務となっていたのです。また、主にささげている、させていただいているという謙虚な気持ちは薄れ、してあげているというなんとも傲慢な自分がいました。

これでは、神様に喜ばれる「奉仕者」ではありません。私は、その時から、奉仕に喜びがなければ、また奉仕を主にささげているという気持ちがなければ、いったん手をとめ、祈ることにしました。すると、平安と喜びに満たされる時が多くなってきたのです。喜びと平安のない奉仕は、主にあっての奉仕ではなく、単なるエゴ、自己中心的なものでしかないことに気づかされました。

主に仕えるように、人にも仕える。そこには、平安と喜びにみたされる自分がいなくてはならないのです。

さて、そろそろ、天国長屋の八さん、熊さんにも登場していただきましょう。八さん、熊さん、今朝の礼拝のタイトルは、「キリスト・イエスの奉仕者」でありますが、お互いの信仰が深まるような奉仕、お互いに愛をもって仕え合うということについてどう思われますか。

―――――

八: 奉仕ねぇ。奉仕って聞くと、教会を積極的にささえている人たちっていう感じがあるよな。

熊: ちげえねぇ。俺たちの横にいつも座っている、お豊ばあさんな、あの人は昔は、教会で子供たちに教えたり、オルガンもできるから奏楽の奉仕もしたり。

八: そうだってな、いろいろとやってくださっていたらしいな。

熊: そのお豊ばあさんがな、先日ポツンともらしたんだ。「あたしゃ、もうなんもできなくなっちまった。」って。「礼拝に出席するのがやっとだ」って。

八: 身体の衰えは仕方がねぇ。けどよ、なんかさびしいな。

熊: 俺、お豊ばあさんに、言ったよ。「お豊さん、なんにもできなくなっちまった」って、そんな寂しい言わないでくれよ。お豊さんが、礼拝に出席してくれるだけど、顔を見せてくれるだけで、俺たちゃ励まされるんだ。それによ、今でもお豊さんにできることもあるんだぜ。それは祈りさ。祈りはみんなができる。祈り合ってこその教会だ。だから、「なんにもできない」って寂しいことを言わないでおくれよ。

八: 熊、お前いいこというじゃねぇか。え、見直したね。俺たちも、お豊ばあさんと同じだよな。礼拝には出席しているけれど、役員でもなければ、音楽の奉仕や子供たちに教えるってこともしてねぇ。料理もそんなに上手じゃねぇ。まあ、強いて言えば、力仕事だったり、教会のまわりを掃除したり。大した事ができるわけではねぇ。

熊: けどよ、祈りはできるじゃねぇか。流暢な、朗々とした祈りはできねぇけどよ、思いはいっしょだぜ。

八: そうよ。祈りを人に聞かせようすると口ごもっちゃうんだ。けどよ、イエス様に思いのたけをぶつけるんだ、聞いていただくんだと思えば、へたな祈りでもいいんじゃねぇか。イエス様は、どんな祈りでも、耳を傾けてくださる。だから、俺たちも祈れるんだ。

熊: 大した奉仕をしていない俺たちが言うのもなんだけど、奉仕をしたからって偉いわけじゃねぇ。その奉仕がその人のプライドになっちまうんだったら、やらねぇほうがいいんじゃねぇか、その人の信仰にとってもよ。今日の説教であった失敗談。若い時の牧師先生の信徒時代の奉仕も、いつの間にか、自分のプライドになっちまったんだよな、きっと。また奉仕ができないからって卑屈になることもねぇ。神様から預かった賜物をちゃんと生かせばいいのさ。土の中に入れちまって、その賜物を生かそうともしないんだったら、また別の話だ。

八: 神様は俺たち全員に賜物をくださってる。それは、イエス・キリストを信じた時にくださる聖霊様、それと、祈ることさ。聖霊様によって、俺たちは神様と親しく話すことができるようになった。だから、神様とさしで交わえるという特権を俺たちゃいただいてんだから、それを土の中に埋めちまったらいけねぇんだ。

熊: なんでもそうかもしらねぇけど、俺たちのすることは、途中はどうあれ、祈りに始まって、祈りに終わる。これが一番大事なのかもしらねぇな。

八: 祈りに始まって、祈りに終わる。そんな日常でありてぇな。お豊ばあさんのように、丸くなった背中から、祈りがにじみ出ている、そんな人生を送りてぇものだ。牧師さん、話がちょいとずれたかもしらねぇけどよ。「お互いに愛を持って仕え合う」っていうのはよ、「祈り合う」っていうことかもしらねぇな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。確かに、お豊さんの信仰は、祈りに支えられておられる。私も、お豊さんを見習いたいなと思います。そして、つまりは、「イエス様に倣う」ということかもしれません。私たちは、常に「イエス様だったら、こんなとき、どうされるだろうか」とイエス様の心を求める者でありたいと思います。

それでは、黙想に入ります。

まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇33篇を読んでみたいと思います。詩篇33篇を聞きつつ、今朝の「キリスト・イエスの奉仕者」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。「祈りに始まり、祈りに終わる」「祈りによって支え、また祈りによって支えられる」そのような日常、そのような教会、そのような人の集まりでありたいと願っています。

黙想の前に、ルカの福音書6章31節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」

(詩篇33篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「キリスト・イエスの奉仕者」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。奉仕は、神様から預かった賜物を生かすことでもあります。そして、私たち全員に、聖霊様と聖霊様を通して神様と親しく交わる特権を授かっていることに感謝いたします。どうか私たちが、愛と祈りをもって仕え合うことができますよう、私たちを訓練してください。愛する贖い主、主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌458「光の高地に」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。