メッセージ:「いのちの水の川」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

9月17日

担当:若竹孝行

メッセージ:「いのちの水の川」

今朝の聖書通読箇所:エゼキエル書46章〜48章

47章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:47:12

「川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

●川の描写(1節~12節)

神殿の水は、流れ出る先々で深くなる。足首(3)、膝(4)、腰(4)、渡ることのできないような深さ(5)。そこでは両岸に木々が生え(7)、深い河のいたるところで魚が群がり(9)、すべてのものが生きる(9)。12節では、詩篇1篇2-3節を彷彿とさせる。「主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」この川はエデンから湧き出ている川を連想させる。「一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。」(創世記2:10)その四つの川は、神の恵みといのちを運ぶ。なぜなら、エデンは、「歓喜」または「隅々までよく潤された所」を意味するからである。また、この川は、黙示録22章1節2節に描写された「いのちの水の川」に呼応する。「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」

●エデンの園

この川の描写は、エデンの園にある神の祝福が、川をとおして全地にあふれることを意味している。創世記のエデンの園はなくなったわけではない。違った次元に存在しつづけている。それは霊的な世界であり、詩篇の1篇での描写は、神の教えを信頼し従うことこそが、人間の幸せであり、神との交わりの中にある人は、神の支配にあり、神の御心にそう人そうおうとする人であり、ゆえに、何をしても、それは神の御心であり、栄えるしかない、神の祝福を得るしかないのである。その人は霊的なエデンの園に住んでいることになる。

黙示録では、神はヨハネに、アダムにあって失われたものの回復をみせた。つまり、キリストにあっての神の祝福の回復であり、完成であるだろう。パウロはそのことを、1コリント13章12節で次のように述べている。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」そしてそれは、神の愛の完成ともいえるかもしれない。

エゼキエル書の47章12節で言われるところの、実とは民にとってのいのちの豊かさであり、葉は平安と癒しを表し、新天新地での、神を信じ信頼する者たちのいとなみを描写している。

それを可能にしたのが、御子イエス・キリストであり、キリストをお送りくださった神の愛である。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。それはアブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」(ガラテヤ3:13-14)

聖書は、創世記から、詩篇を通して、エゼキエル書を通して、ヨハネの黙示録に至るまで、神の愛を説き、私たちに、神を信じ信頼することを迫る。そして、キリスト・イエスを通して、神と顔と顔を合わせ、神の御旨を知ることを、お許し下さった。

私たちは、イエス・キリストの恵みを、神の愛を、感謝をもって、心おきなくあずかろうではありませんか。いのちの水の川に、どっぷりとつかり、永遠のいのちを得ようではありません。

祈ります。

主のいのり