大阪エリム・キリスト教会
木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)
9月24日
担当:若竹孝行
メッセージ:「耕地を開拓せよ」
今朝の聖書通読箇所:ホセア書7章〜10章
10章を交読。(新改訳2017)
中心聖句:10:12-13
「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」
「あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べた。それはあなたが自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだからだ。」
●10章は「イスラエルに臨む罪」
1節~3節:国が栄えれば栄えるほど、偶像を愛した。なぜなら偶像は自分たちの力を誇るものだからである。神を畏れず、自らを誇る、豊かさを象徴するすべての物は、滅びの運命にある。
4節:彼らは互いの約束すら守れず、約束自体を空しくする。ゆえに神との約束も守れない。
5節~8節:ベテ・アベンは「悪の家」であり、今やベテル「神の家」はそのようになってしまった。
9節~10節:ギブアはサウル王の故郷であり、神に服従しないものの代名詞となり、ギブアの日とはその神への反逆の時代であり今も全く変わらない。
●よく耕された土地
12節:岩や石を取り除き、よく耕した土地を開拓せよと主はおっしゃる。その良く耕した土地には、正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れることができる。今が主を求める時、今、主に対して悔い改める時である。悔いた心をもって主を求める時、主は正義の雨を降り注がれ、私たちは義と認められるのである。
私たちの心の耕地はどうだろうか。まだまだ岩や石だらけの耕地ではないか。もしも、そうであるなら、わたしたちの収穫はすくない。
●イエス様の種まきの譬え
イエス様の種まきの譬え(マタイ13:3-8)で、種が道端に落ちた場合、岩地に落ちた場合、いばらの間に落ちた場合、そして良い地に落ちた場合を述べられている。道端、岩地、いばらの間におちた場合には収穫はない。しかし良い地に落ちた場合には、収穫は100倍、60倍、30倍となると説かれる。これは私たちの信仰の譬え、心の状態である。
しかし、よくよく考えていただきたい。農夫は、よく手入れされ耕した畑にしか種はまかない。農夫は、道端や岩地やいばらの間に、種を落とすようなそんなもったいないことはしないのである。主は、畑を良く耕し、手入れしなさいとおっしゃっておられる。ゆえに、今朝のホセヤ書の10章12節では、「耕地を開拓せよ」とおっしゃる。しかし、岩や石や、または大きな木の根っこを掘り出して、良い畑を耕すのは並大抵のことではない。ゆえに、イエス様は、助け主である聖霊様を私たちの心にお送りくださり、聖霊様は私たちのかたくなな心を共に耕してくださって、100倍の収穫、天の御国の平安と喜びを得よと説かれるのです。
●心の隙に入り込む誘惑をチェックする
13節:「悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べた」イエス様の毒麦の譬えに似ている。同じくマタイの13章。良い種をまいた畑に、毒麦の種がまかれた。すぐ抜き取るのではなく、収穫の時、つまり裁きの時に選別する、とイエス様は指示。イエス様の譬えでは、毒麦を蒔いたのは敵つまりサタンであることを示している。ホセア書も同じで、良く耕した畑であっても、正義の種だけではなく、悪の種も蒔かれてしまう。ホセア書では、その「悪の種が蒔かれてしまう」心の隙は、自らの力を過信し、勢力や財力に拠り頼んでできた隙間であった。この心の隙に入り込む誘惑をチェックするには次のことを吟味する必要があるのではないか。
例えば、
自分にとって得となるから、賞賛を得るから。
聖書の教えと一致しているか。
神の御心を求めているか。
イエス様ならどうなさるだろうか。
私たちは心の耕地を耕した後も、注意を怠ってはならない。つまり、イエス様を信じる決心をして、口で告白したとしても、それは福音の種である信仰が蒔かれただけであって、まだ良い耕地にはなっていない。礼拝や主にある交わりを重ねるなかで、聖霊様によって種が育つのに良い土となり、根が伸び芽がでたとしても、それで終わりではなく、聖霊様による手入れが必要なのである。私たちの心の畑で、100倍の収穫、つまり天の御国での平安と喜びの充満があるまで、手を抜けない。
信仰は勝利。しかし、それは始まりであり終わりではない。信仰を堅く保ち、この世での生を全うしたときに、私たちは100倍の収穫を得ることになるのである。
祈ります。
主のいのり