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メッセージ主題:『力と愛と慎みの霊』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テモテへの手紙』

2020時年10月4日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌365「君なるイエスよ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌367「イエスよ、この身を」

交読: 交読文8:詩篇第24篇:新聖歌p. 885

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌378「罪の世人らに」

聖書拝読:テモテへの手紙第二1章7節~14節(新改訳聖書)

中心聖句:

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」(7&8)

メッセージ主題:『力と愛と慎みの霊』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テモテへの第一の手紙第6章から、『満ち足りる心を伴う敬虔』と題しまして、神様からのメッセージをいただきました。敬虔とは、簡単に言えば、創造主である神を畏れることです。「満ち足りる心を伴う敬虔」とは、自分のおかれた状況に満足し感謝する。その状況下に自分を置いたのは神であることを知り、その状況に満足することであります。先週はこのことを主に教えていただきました。

今朝からは、テモテへの第二の手紙に移ります。その第1章から、『力と愛と慎みの霊』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。このテモテへの第二の手紙は、パウロの最後の手紙です。ローマの大火による大規模なクリスチャンに対する迫害が起き、そのさなかでの、パウロの投獄は、パウロに死を覚悟させました。パウロは宣教に対して臆病で弱腰になっているかもしれないテモテに、聖霊による3つの特性を示しています。それが、力であり、愛であり、慎みであります。今朝は、この3つの特性について考えてみたいと思います。

短くお祈りいたします。

力の霊、愛の霊、慎みの霊に分けて考えたいと思います。

力の霊

パウロのいう力とは、もちろん肉体の力ではなく、精神的な霊的な力のことです。パウロはエペソの手紙に記されている祈りの中で、そのことに触れています。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(3:16)内なる人を強くする力でありますが、心を強くする力ともいえるかもしれません。つまり、勇気や平安と関係する力なのだと思われます。

イエス様も次のようにおっしゃいます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)神の平安を与えられるからこそ、私たちは、恐れに勝利し、神から勇気をいただき、勇敢になれるのでは、ないでしょうか。また、詩篇の著者は、「この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる」と告白しています。(18:32) また「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」(詩篇28:7)主に拠り頼むことによって、私たちは、主から力を得、また平安を得ることができるのです。

ヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)と言われる同じ主が、私たちとともにおられ、励ましてくださるのです。主に拠り頼み、主の平安に包まれる日常こそが、私たちを勝利へと導いてくださるのです。

愛の霊

使徒ヨハネは、「神は愛である」(1ヨハネ4:8&16)と告白します。2大律法でも、「誠心誠意、神と隣人を愛しなさい」とあります。この聖書全体のメッセージも愛であります。聖書中の聖書といわれる、ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この御言葉が、聖書が神の愛の書であることを証明しています。パウロも、1コリントの13章愛の章で、「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の価値もありません」(2)「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13)と主張します。私たちは、キリストの犠牲の愛のゆえに、今、生かされています。私たちの心に宿る聖霊様は、キリストの愛の霊でもあります。私たちは、そのキリストの愛を、聖霊様を通して継承することができるのです。キリストの愛は、「寛容であり、親切です。人をねたみません。」キリストの愛は、「自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(1コリント13:4-7)

これらの御言葉は、クリスチャンにとっては、もう耳タコであります。しかし、愛の実践はとても難しい。なぜなら、愛は一番すぐれているもので、それだけ困難なものであり、私たち自身、愛に欠けたものだからです。パウロは、自分自身をみじめな者であると告白しています。(ローマ7:24)「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(15) 愛の足らない者であるという自覚が、パウロをそのように告白させています。しかし、そのような罪にまみれた、神にそっぽを向くような私たちを、イエス・キリストは救うためにこの世に来られたのです。イエス・キリストに倣う者とさせていただきましょう。

慎みの霊

「慎み」には「控え目」というイメージがありますが、英語では、self-discipline という単語が使われ、これは「自制」という意味です。ここで、やっと私たちがすべきことの責任、私たちに課せられた分が出てきた感じです。神に拠り頼むことによって、私たちは力と平安を得ます。またキリストに倣うことによって、私たちはキリストの愛を学ぶことができます。慎みは、神様からの知恵や悟りを得ることによって、自制である慎みに励むことができるのです。もちろん、自制や慎みを行なうための力は、神様からのものです。しかし、私たちの意志によって、自制を実践することができます。私たちの意志は弱い、弱いこそ主に拠り頼む必要があるのです。パウロの言うところの、「弱いときにこそ強い」(2コリント12:10)は、主に拠り頼み、主が私の弱さに働いてくださるのです。自制が働く、神様からの知恵や悟りは、聖書を読み進めていくなかで、培われていくものだと信じています。いのちの言葉である聖書にこそ、知恵と悟りがあり、私たちは、そのことばを毎日いただき、咀嚼し、自分のからだに溶け込むようにするべきでしょう。

さて、今朝は八さん、熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、今朝のメッセージの「力と愛と慎みの霊」という中で、何か示されたことはございますでしょうか。

―――――

八: 今日のテーマは、なんだか難しいな。「力」は主に信頼することからいただける、「愛」はイエス様に倣うことで自分のものとなっていく、そして、「慎み」は聖書を読み進めていくことで身についていく。つまりは、毎日聖書を読み、イエス様とお話しし、イエス様にすべてをゆだねて、イエス様の愛を自分の行動に現わしていくことなんだろう。でも、やっぱり難しい。

熊: 何言ってんだよ。学のねぇ、俺たちが空っぽの頭で考えるから難しいんだよ。つまりは、「イエス様をいつも感じて」いてたらいいんじゃねぇかな。俺は、イエス様大好きだ、いや、イエス様いのちだ。そう思っていれば、聖書も読むし、信用してなんでも話すし、イエス様がお喜びになることはしてぇと思う。「力と愛と慎みの霊」っていうタイトルからして、なんか、「ハハー」って頭が下がる感じだけど、気持ちまでひいてしまうんじゃねぇかな。向かいのおタネばあさんが、こんなこと言ってたな。

『キリストの教会では、むずかしい説教が多すぎるんだ。横文字ならべたりした日にゃ、それだけでチンプンカンプンさ。神様って、そんなに難しいもんかね。神様ありがとうございます、って言ってただけじゃ、ダメなのかい。聖書は、ありがたいことがいっぱい入っているよ。それを、解き明かしてくれるのが説教じゃないのかい。牧師先生の言っていることが、聖書よりも難しくなってしまえば、あたしゃ、お手上げだね。だから、福音書は好きさ。イエス様のことばは優しいからね。塩味のきいた言葉ってぇのは、そんな分かりやすい言葉じゃないのかね。分かりやすい言葉ほど、心に残るものさ。だから、教会から帰って来ても忘れない。家に帰って行く途中の道端に落として行ってしまうような説教って、あー、なんだろうね。まあ、聞く方にも問題があるかもしれんけどね。』 おタネばあさんは、少し辛口だけど、ああ言いながら、礼拝は欠かしたことがないんだから、頭がさがる。聖書もよく読んでるしね。

八: さすが、おタネばあさんだ。たしかに、家に帰るまでに、みことば落っことしてしまうこともあるもんなぁ。

熊: まだ、道端におっことしているのはマシな方さ。おれなんざ、時々、教会に置きっぱなしになってる。まあ、俺のきき方が悪いんだけどな。おタネばあさんの言うように、心にとどまる説教、心にとどまる聞き方をしないといけねぇな。

八: 牧師さん、今日は牧師さんの説教にケチが付いちまったけど。どうだろう、パウロはこの箇所で何が言いたかったんだろう?

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。おタネさんの指摘もよくわかりました。気を付けます。今日は久しぶりに横文字も出してしまいましたからね。必要なかったですね。ごめんなさい。今朝のパウロのテモテへの手紙の1章で言いたかったこと、それは、パウロのテモテへの最後のアドバイスとして、「おくびょうにならないように」「周りの状況や間違った教えに振り回されないで」「しっかりと福音を伝えなさい」ということだと思います。それを、ひとことで言いますと、「主にあって雄々しくあれ」でしょうね。ヨシュア記1章9節「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

「力と愛と慎みの霊である、主が、いつもともにいてくださる」という、最大の恵みです。

これからは、もっともっと、分かりやすく、主のみことばをお伝えしたく思います。

では、黙想に入りたいと思います。

まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇27篇を読んでみたいと思います。詩篇27篇を聞きつつ、今朝の「力と愛と慎みの霊」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。私たちには、力と愛と慎みの霊である、イエス様がいつも共にいてくださって、私たちを守りみちびいてくださっていますことに、感謝をささげましょう。

黙想の前に、マタイの福音書14章27節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」

(詩篇27篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「力と愛と慎みの霊」と題しまして、あなた様から導きをいただきました。私たちには、日常生活において、様々な誘惑や困難があります。しかし、あなた様は、「恐れるな、おののくな、わたしが共にいるではないか」とおっしゃいます。どうか、私たちが、力と愛と慎みの霊である主が常に伴われておられることを忘れないようにしてください。私たちの主、導きの主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌244「信ずる者は何びとも」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。