大阪エリム・キリスト教会
木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)
10月22日
担当:若竹孝行
メッセージ:「エパタ」
今朝の聖書通読箇所:マルコの福音書7章〜9章
7章を交読。(新改訳2017)
中心聖句:7:32-35
「人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。そして天を見上げ、深く息をして、その人に『エパタ』、すなわち、『開け』と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解けはっきりと話せるようになった。」
●ここでの「耳が聞こえず口のきけない人」とは、身体に障害をもった人のことであるが、私たちは、これを霊的なものととらえる必要がある。
「耳が聞こえず」とは、神の御言葉を聞くが悟らない人である。イエス様が民衆に対してたとえで話すことの理由を次のように語られた。
「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟こともしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が、我らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒すこともないように。』」(マタイ13:13-15)
つまり、「耳が聞こえず」とは「心が鈍くなっている」こと、「心が神様に対して閉じている」ことである。
●では、どのようにすれば、霊的な耳は聞こえるようになるのか。それは、イエス様が、先ほどの人に、ご自分の指を彼の両耳に入れたのと同じほうに、主に触れていただく必要がある。もちろん、実際にイエス様にふれていただくことはできないが、聖霊様が私たちをそのように導いてくださる。パウロはそのことをこのように述べている。
「神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(1コリント12:3)
聖霊様が臨んでいただかなければ、私たちの鈍くなった心の扉は開かない。そこには、イエス様であり、神様のタイミングがある。私たちの力では及ばない、神様の境地でもあり、神様の御計画でもある。私たちが神様を信じるタイミングも、神様のことをもっと知りえるタイミングも、目からうろこが落ちるようなタイミングであり、それは主の御胸の、御心のうちにある。
●では、私たちは、何をすべきでしょうか。ただ単にじっと待ち続けているのですか。いえ、待ち続けるにしても、主に期待するのです。それは、イエス様の「ブドウ園の労働者」のたとえのようなもの。朝に選ばれず、昼にもダメで、午後にも、ぶどう園の労働にかり出されなかったとしても、期待して待ち続けることによって、主は最後の最後に、手を差し伸べてくださる。主を求めるしかない。主を信じたいと思うなら、主を信じようと決意すること。「主はすべてにおいて正しいお方」と思うようにすること。主の教えを分かりたいと思うなら、主を証しする聖書をよみ、黙想し、主に乞い願う。「主をおおしえください。私の目を開いてください。私の耳を開いてください」と。あたかもイエス様が「そこまで言うのなら」とおっしゃるぐらいに求める続けることが大切。そして、主は、あなたに近づき、あなたに触り、「エパタ」と告げられる。
瞬時に、あなたの目も、耳も、口も開かれ、悟りを得、口は、告白と感謝と賛美に満ちあふれる。
主イエス・キリストに期待し、主ご自身を求め続けましょう、「エパタ」という声が聞こえるまで。
祈ります。
主のいのり