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メッセージ主題:『時が良くても悪くても』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テモテへの手紙』

2020時年10月25日

聖書拝読:テモテへの手紙第二4章1節~5節(新改訳聖書)

中心聖句:

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2)

メッセージ主題:『時が良くても悪くても』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テモテへの第二の手紙第3章から、『整えられた者となるために』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。パウロは、ローマに投獄され、自分の死期が近いことを悟り、弟子のテモテに、パウロという先生がいなくなったとしても、信仰のよりどころは、聖書にあることを強調します。私たちの信仰は、もちろん、イエス・キリストを救い主、贖い主として仰ぎ見ることから始まりますが、聖霊によって、聖書を読み理解することを通して、キリスト者としての品格が育つ、キリスト者として整えられるのでしょう。先週は、そのことを学ばせていただきました。

今朝は、テモテへの第二の手紙第4章から、『時が良くても悪くても』と題しまして、神様からメッセージをいただきます。この章で、パウロの手紙は終わり、パウロは恐らく遅かれ早かれ処刑されます。6節では、次のように告白しています。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」パウロは自分がこの世を去ることを悟り、弟子のテモテに、今朝の御言葉を残します。パウロはこの御言葉を口にするとき、嬉しい時、悲しい時、つらい時のことを走馬灯のように思い出しながら、語ったのではないでしょうか。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」パウロ自身、時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えて来たのでした。今朝は、このパウロの思いを学ばせていただきたく思います。

短くお祈りいたします。

パウロは、言います。「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(1コリント9:23)

パウロは、主に召されてから、このことを生涯をかけて実践しました。時が良くても悪くても、パウロは、福音を宣べ伝えました、ともに福音の恵み、つまり救いであり、永遠のいのちをうける者となるために。

この「時が良くても悪くても」と言った時のパウロの信仰はどういうものであったでしょうか。

「周りの状況に左右されず、自分の立ち位置に関係なく、神の恵みは満ち満ちている」そのような境地にパウロは導かれたのではないでしょうか。「どんな時でも、主を見上げる時に、神がそこにいらっしゃることに気が付く。」いえ、私たちが気が付こうが、気が付かまいが、神はいらっしゃって、神がいらっしゃるということは、そこに平安があり、喜びがあるのです。

パウロはテモテに「しっかりやりなさい」と励ましますが、「自分はしっかりやってきた」という満足感に満たされているかもしれません。「しっかりやる」とは「元気を出す」ということかもしれません。イエス様は、マタイ9章2節で、「人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んできて、癒しをねがった。そのことをイエス様は見て、彼らの信仰に触れ、中風の人に『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われました。」また、同じ9章の22節では、十二年間長血をわずらっている女が、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心の内で信じ、着物の房にさわります。イエス様は、振り向いて彼女を見て、「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです」とおっしゃられた。このイエス様がおっしゃられた、「しっかりしなさい」は、新共同訳では「元気をだしなさい、元気になりなさい」という言葉になっています。つまり、悲しみや苦痛で打ちひしがれている者に、「元気を出しなさい」「顔を上げなさい」「救い主、癒し主であるわたしを見なさい」という意味で、「しっかりしなさい」とおっしゃっておられるのです。パウロの「しっかりやりなさい」も同じことではないでしょうか。「顔をあげ、主から目をそらさないでいなさい、わたしがそうであったように。」 パウロは、そのように言いたかったのではないでしょうか。私たちにも同じことであります。「顔を上げ、主から目をそらさない。」なぜなら、神は常にすぐそこにいらっしゃるからであります。

私たちは、時が悪いからといって、落胆してはいけません。なぜなら、そのときこそ、主にまみえるチャンスなのです。パウロは次のような言葉も残しました。2コリント12:9-10「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

私たちが弱いときにこそ、主は御手を差し伸べ、私たちを強くしてくださいます。私たちが弱い時こそ、もっともっと主を求め、主に拠り頼むべきであります。なぜなら、主の力や知恵は、私たちの足りなさを補ってあまりあるからです。

「時が良くても悪くても」私たちには、信頼し寄り頼むことのできる、助け主イエス・キリストが私たちに、常に臨んでくださっているのですから。主は生きて働いてくださっている、いつでも、どこでも。また、「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」(ルカ12:12)そのようにおっしゃるイエス様のお言葉は真実で、信じるに足るものです。

「時が良くても悪くても」と言えるには、主が常に共にいてくださることを確信できることが大前提だと言えるでしょう。パウロはそれを確信していました。また、神様にとっては、人間的な時の悪さや良さは、あまり気にされていないともいえるでしょう。なぜなら、神様には、人間的な時の良さや悪さは関係なく、神様は、神様のみ旨、つまり神様が私たちを愛することにしか興味はないのかもしれません。私たちが心しておかなければならないことは、私たちの都合は神様の都合ではないこと、また、主導権は神様にあり、神様には人間的な都合はなく、神様の憐れみの御計画があるのみ。

ゆえに「時が良くても悪くても」ということは、「神様の御計画に絶対服従」の姿勢でもあるでしょう。私たちは、このパウロの神様への信頼と服従の姿勢を学ばなくてはいけないと思うのです。

さて、今朝も八さん、熊さんは、結婚式のお手伝いで、朝から出かけております。

まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父よ」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇119篇25節~32節を読んでみたいと思います。それを聞きつつ、今朝の「時が良くても悪くても」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。神様への絶対服従こそが、私たちの幸せの道であることを悟ることができますように。

黙想の前に、マルコの福音書8章34節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

(詩篇119篇25節~32節)

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お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「時が良くても悪くても」と題しまして、あなた様から導きをいただきました。神様の道は、絶対服従であることを私たちが心にとどめておくことができますように。私たちは、主のしもべであり、主のものであることを、常に思い出させてください。時が良くても悪くても、主を証しすることを一番とすることができますように。

私たちの主、導きの主であるイエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の歌

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