メッセージ:「自分の十字架を負うということ」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

10月29日

担当:若竹孝行

メッセージ:「自分の十字架を負うということ」

今朝の聖書通読箇所:ルカの福音書13章〜15章

14章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:14:27

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

この御言葉はとてもきびしいもの。前の句にもあるように、イエス様の弟子となるということは家族と別れ、自分の命をも、主に預けるということ。まるで兵士が、指揮官に命をあずけ従うようなもの。では、十字架とは何か。

●「十字架」とは、もちろん「十字架刑」のことでローマ帝国の極刑である。イエス様は、そのご自分がかけられる十字架を背負って、ゴルゴタの丘、別名カルバリー丘、つまりされこうべ丘まで登っていきました。その十字架にかけられる時、手足を釘づけにされ、その痛みだけではなく、自分の体重によって、釘づけされている所の肉が裂け、骨が砕ける。そして最後には、脛を折られる。痛みが持続し、いや、痛みが増し加わる、極刑である。受刑者は、その先の極刑をしりながら、自分の十字架をヘロヘロになりながら、背負って丘にのぼる。苦痛の持続と死を覚悟せざるを得ない、十字架。その自分の十字架を背負い、苦痛と死を覚悟しない限り、イエス様の弟子とはなれないと、イエス様はおっしゃる。相当の覚悟が必要なはずである。つまり、33節の「自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」とあるように、イエス様は世間の価値観とは全く違う価値観をつきつけてくる。

それはイエス様の天の御国の譬えと同じであることに気づく。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を探している商人のようなものです。すばらしい値うち真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:44-45)

人は、死ぬ先まで、自分の財産をもっていけないことは誰しも知っている。しかし、人はその財産にしばられ、財産の奴隷となっていることに気が付かない。イエス様はその財産を手放し、財産の呪縛から解放され、天の御国へ目を向けなさいと示唆している。

自分の財産を手放し、財産の呪縛から解放されるには、苦痛を伴うこと、世間的には死と同様な状態に陥ることを、イエス様は、「自分の十字架を負う」という言葉で表現する。

●では「自分の十字架を負う」またはその覚悟は、1回だけでいいのだろうか。実はルカは、福音書の中で、イエス様のことばとして、この言葉をもう一度登場させている。9章23節。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」毎日、イエス様に従うべく、日々自分の十字架を負い直すことが求められている。それは、イエス様のもう一つの言葉が裏付けする。「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)労苦はその日その日に十分あり、明日は今日よりも楽になるとも苦になるとも言っていない。日々、自分の十字架を負い直して、イエス様に従う。日々心新たにしてイエス様とともに歩む。日々、イエス様に自分をささげる。日々、イエス様に自分自身を明け渡す。

●「喉元過ぎれば熱さを忘れる」これが、私たち人間の本性である。良くても悪くても、これが人間。イエス様に対する信仰も全くおなじである。日々自分の十字架を負い直すという覚悟を新たにしなければ、日々イエス様に従うことはできないのである。

●33節にもどるが、「自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」

では、私たちは、全財産を今、放棄すべきなのか。いえ、言葉通りに「全財産を放棄する」必要はない。しかし、財産の呪縛からは、解き放たなければならない。つまり、財産よりも価値のあるものに目を向け、目をとどめなければならない。それは、神の国と神の義、つまりイエス様ご自身である。イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生きるに必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。」とおっしゃるが、同じことを言葉をかえて、次のようにもおっしゃる。ヨハネの福音書15章7節。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」実に、神の国と神の義は、イエス様ご自身であることを、この御言葉が証明している。

●ゆえに、「自分の十字架を負って、イエス様に従う」とは、この世の宝に心を留めることなく、イエス様を求めること、必死に求めること。それが、天に宝を蓄えることにもなる。もし、私たちがこの世の宝に心をとどまるなら、私たちは、ロトの妻のように、塩の柱となり、霊的な死をまねくことになるかもしれない。主に目を留め、主を求めよ、必死で求めよ。

祈ります。

主のいのり