ぶどうの木キリスト教会
礼拝シリーズ主題:『テモテへの手紙』
2020時年11月1日
礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り
礼拝:10:00
賛美: 新聖歌397「神の御子にますイエス」
使徒信条: 新聖歌p.826
賛美: 新聖歌396「慕いまつる主の」
交読: 交読文9:詩篇第27篇:新聖歌p. 885-886
十戒: 末ページに記載
祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り
賛美: 新聖歌356「目には見えねども」
聖書拝読:テトスへの手紙1章5節~16節(新改訳聖書)
中心聖句:
「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(15)
メッセージ主題:『きよさとは』
おはようございます、そしてお帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。
先週は、テモテへの第二の手紙第4章から、『時が良くても悪くても』と題しまして、神様からメッセージをいただきました。この章で、パウロの手紙は終わり、パウロは恐らく遅かれ早かれ処刑されます。6節では、次のように告白しています。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」パウロは自分がこの世を去ることを悟り、弟子のテモテに、今朝の御言葉を残します。パウロはこの御言葉を口にするとき、嬉しい時、悲しい時、つらい時のことを走馬灯のように思い出しながら、語ったのではないでしょうか。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」パウロ自身、時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えて来たのでした。先週は、このパウロの思いを学ばせていただきました。
今朝からは、テトスへの手紙第1章から、『きよさとは』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。今回からテトスの手紙を3回にわたって学びます。テトスはギリシヤ人であり、パウロの伝道によって回心しました。その後、パウロの指示に従い、テモテと同様、パウロの片腕として働きます。すぐれた伝道師でありました。このパウロの手紙は、クレテの教会に遣わされていたテトスに宛てられています。クレテの教会には、人を惑わす者も多く、パウロはその人たちに注意するようにとテトスに説きます。その中でパウロは主にあっての「きよさ」を強調します。今朝は、その「きよさ」とは何かを学ばしていただきます。
短くお祈りいたします。
パウロの言うところの「きよさ」とは、外面的なことではなく、内面的な心の問題であります。では、「きよい心」とはなんでしょうか。パウロは比較的若いテモテに宛てた手紙に、次のように記しています。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2テモテ2:22)きよい心で主を呼び求める人は、義と信仰と愛と平和を追い求める人であります。義は神の正しさであり、また「神は愛」であります。そしてイエス様は、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」(ヨハネ14:27)とおっしゃいました。世が与える安っぽい一時的な平安ではない、神の平和。義と愛と平和は、神様のご性質であります。つまり、きよい心で主を呼び求める人とは、神様を追い求める人であります。そして、主は神であり、主であるイエス様、そして神様を求める人は、きよい心がもっている人でもあるのです。
「きよさ」とは、神様のご性質でもあり、神様そのものでもあると言えるでしょう。ですから、「きよい人々」とは、「神様を求める人々」のことです。もちろん、私たちは、全くの聖さをもつ人間でもなければ、善人にもなれません。パウロは、詩篇14篇を引用して、ローマ書3章10節~12節では、次のように述べています。
「義人はいない。ひとりもひない。悟りのある人はいあない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
私たちは、パウロの言うように、義人にもなれないし、善人にもなれなれません。なぜなら、義とは、先ほども申しましたが、神様の義であり、神の義を持つ方は、イエス様しかいらっしゃらないからです。また、善は、不完全な形なら私たちにも行えるかもしれませんが、自分を無に等しいものとして、善を行うことは不可能ともいえるでしょう。パウロも善を行ないたくても行なえないみじめな自分がいることを、ローマ書7章で告白しています。
15節「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことをおこなっているからです。」
19節「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」
22-23節「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」
パウロでさえ、このような葛藤があります。まして、凡人の私はこの葛藤にさえ、気づかない愚か者です。では、義人でも善人でもありえない私たちに、聖さはあるのでしょうか。
パウロは24節と25節で次のように続けています。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
パウロは、この善と悪のジレンマから救い出してくださるのは、私たちの主イエス・キリストのみであることを訴えています。
ヘブル人への手紙の著者も次のように主張します。12章9節~11節です。
「私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
懲らしめとは試練であり、訓練でもあります。その訓練をとおして、神様は、ご自身の聖さをさずけてくださり、平安な義の実を結ばせてくださるのです。ここでの「聖さ」とは、聖霊様のことであり、平安な義の実とは、永遠のいのちのことであると推測できます。
しかし、神は訓練をとおしてでしか、ご自分の聖さである聖霊様を私たちに下さらないのでしょうか。いえ、そんなことはございません。使徒ペテロは次のように勧めています。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)
心で信じ、口で、「イエスは私の主です」と告白すれば、聖霊様が私たちの心に降り、私たちは救われるのです。イエス・キリストの救いは、いたってシンプルです。
きよさは、イエス・キリストを信じる私たちの内にすでに、聖霊様として息づいています。ハレルヤ!なんと嬉しい知らせでしょうか。もちろん、それは聖さの完成ではありません。聖さの始まりです。私たちの肉の思いは、神様の訓練によって、聖霊様をとおして、ひとつずつ聖さへと変えられ、そして聖さは増すのであります。「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)とイエス様はおっしゃいます。イエス・キリストの聖霊を受けたなら、主にすべてを明け渡して、聖霊様に働いていただいて、私たちをより聖くしていただこうではありませんか。パウロのように、善と悪のジレンマに陥ることがあったとしても、キリストを信じ、聖霊様をとおして、義人であり聖さそのものであるイエス・キリストに倣う者とさせていただきましょう。
今朝は久しぶりに天国長屋の八さん、熊さんが礼拝にきてくださっています。八さん、熊さん、今朝の「きよさ」のことについてどう思われますか。ご意見をお聞かせください。
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八: いやぁ、お久しぶりです。今朝の礼拝のタイトルは「きよさとは」っていう、なんか難しいものですな。でも、牧師さんが最後に言ってた、「イエス・キリストに倣う者となる」ことが聖さと関係があるんじゃねぇかな。なあ、熊。
熊: 「きよさ」っていうのには、なんか抵抗がありゃしないかい。俺なんか肉の思いでいっぱいだ。「きよさ」とは縁遠い人間だろうよ。だけど、そんな俺たちが、イエス様を信じただけで、救われちゃうんだから、感謝じゃねぇか。
八: 「きよさ」っていうのは、イエス様そのものさ。なにせ、イエス様は罪のねぇお方だから。
熊: つまり、「きよさ」ってのは、「罪がない」ってぇことかい。じゃあ、俺たちゃ無理だな。なにせ、全員が罪人、罪人のかしらなんだから。だれも救われないじゃあないか。
八: 自分の力じゃ無理さ。イエス様から出た、聖霊様が俺たちに聖さをさずけてくださっている。だから救われるのさ。イエス様の血潮によって、俺たちの心の衣はどんどん白くなっていくのさ。
八: イエス様の血潮は、いわば、漂白剤のようなものさ。汚れは全部白くなっちまう。感謝じゃねぇか。だけど、わざわざ汚すことはねぇんだ。
熊: いや、汚れないようにと思っても、汚れちまうんだよ、俺たちゃ。俺たちゃ、わんぱくだからな。イエス様の漂白剤は、いつも必要なんだよ。けど、聖霊様の働きは、漂白剤だけじゃねぇ、と俺は思うんだ。俺たちの心の衣に、汚れをなかなかつかないように加工してもくださるんだ。
八: なるほどね。フライパンで言ったら、テフロン加工のようなものか。それに撥水加工もそうかも知らねえな。
熊: とにかく、聖霊様は大忙しだ。でも、俺たちは、俺たちの責任をはたさないとな。
八: 八、俺たちの責任ってなんだ。
熊: 毎日毎日、イエス様の方に目を留め続けることさ。それといつもイエス様のことを思うってことだな。イエス様としょっちゅう、お話ししなくっちゃいけねぇや。
八: だとしたら、聖書を読むってことも、祈りをささげることも、賛美を歌うことも、交わりをもつっていうことも、有効だろうな。
熊: そうよ、結局、俺たちが日ごろやっていることなんだよ。
八: じゃあ、それによって、「聖さ」は増し加わっていくんだ。
熊: 「聖さ」は、どちらかと言えば、俺たちからにじみでるようなものじゃないかと、俺は思っているんだ。
八: なるほどね。にじみでる「聖さ」か。いいかも。それは、「キリストのかおり」ということにもつながっているんだろうね。さて、牧師さん、あまり役にはたたなかったかもしれないけど、これぐらいでどうかい。
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さて、八さん、熊さん、ありがとうございます。「にじみでる聖さ」が「キリストのかおり」、いいですね。私もそう思います。感謝いたします。これから、黙想に入りたいと思います。
まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父よ」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。黙想の時に、詩篇18篇を読んでみたいと思います。詩篇18篇を聞きつつ、今朝の「きよさとは」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。主を証ししている聖書を読み、黙想し、祈り、誘惑からも守られますほうに。そして、私たちの心から、にじみ出るように聖さが、「キリストのかおり」が増し加わりますように。
黙想の前に、ヨハネの福音書14章26節のイエス様のお言葉をお読みいたします。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起させてくださいます。」
(詩篇18篇)
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「きよさとは」と題しまして、あなた様から導きをいただきました。聖さはイエス様ご自身であり、また聖霊様であり、聖霊様の働きでもあります。私たちは、主イエス様に倣う者として、聖書を読み、黙想し、主の思いに自分の思いを重ねることができるよう、私たちをお導きください。主の聖さをもとめる者とさせてください。私たちから、「聖さ」である「キリストのかおり」が放たれ、周りの人々に、キリストの愛を知るきっかけとなりますように。
私たちの主、平和の君、主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。
賛美:新聖歌355「主と共に歩む」(献金の時)
献金の祈り
「主の祈り」(新聖歌p826)
頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」
祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
アーメン四唱:新聖歌59.7
黙想時の歌
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。