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メッセージ主題:『主のためにきよめられる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『テモテへの手紙』

2020時年11月8日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌297「神はわが力」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌203「ああイエス君、こよなき友よ」

交読: 交読文10:詩篇第31篇:新聖歌p. 886-887

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」

聖書拝読:テトスへの手紙2章11節~14節(新改訳聖書)

中心聖句:

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(14)

メッセージ主題:『主のためにきよめられる』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テトスへの手紙第1章から、『きよさとは』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。先週からテトスの手紙を3回にわたって学んでいます。テトスはギリシヤ人であり、パウロの伝道によって回心しました。その後、パウロの指示に従い、テモテと同様、パウロの片腕として働きます。すぐれた伝道師でありました。このパウロの手紙は、クレテの教会に遣わされていたテトスに宛てられています。クレテの教会には、人を惑わす者も多く、パウロはその人たちに注意するようにとテトスに説きます。その中でパウロは主にあっての「きよさ」を強調します。先週は、その「きよさ」とは何かを学ばしていただきました。

今朝は、テトスへの手紙第2章から、先週につづき「きよさ」を中心にし、『主のためにきよめられる』と題しまして、神様からのメッセージをたまわります。パウロはこの第2章では、教会での正しい生活の仕方について述べています。老人に向けて、若者に向けて、奴隷に向けての信仰生活の勧めを説きます。その集約は1節「健全な教えにふさわしいことを話す」ということです。敬虔で思慮深く、慎み深いことが、健全な教えの中心にあるようです。救い主キリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望みなさいと勧めます。そして、パウロは、キリストはキリストご自身のために、熱心な民をきよめるのであると主張します。今朝は、この「キリストのためにご自分の民をきよめられる」ことを学ばせていただきます。

短くお祈りいたします。

「聖さ」とは、神のご性質であり、イエス様ご自身であり、また聖霊様であり、聖霊様の働きでもあることを先週学びました。私たちは、主イエス様に倣う者として、聖書を読み、黙想し、主の思いに自分の思いを重ねることができるよう、「聖さ」を祈り求めるべきであるとも学びました。また、私たちからにじみ出る「聖さ」とは、「キリストのかおり」のことであり、私たち自身はもちろん、私たちの周りの人々をキリストへと向けるものであることも、先週学びました。

今朝は、そのことを踏まえ、キリストがご自身の民を、ご自身のために聖くするとは、どういうことなのか、今朝の中心聖句にそって考えてみたいと思います。

●14節a「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し」

十字架上での死を通して、罪のない方、聖なる方がご自身の命をもって、私たち全人類の現在過去未来における罪を帳消しにしてくださいました。キリストの命をもっての私たちの罪の贖いは、動物の犠牲の死とは全く次元の異なるものです。旧ユダヤ社会において、一匹の動物の命の犠牲は、ひとつの罪に対して有効ですが、永遠のいのちをもつキリストの命の犠牲は、永遠に有効なのです。それも、この世をお造りになった神は過去現在未来における全人類の神であり、その神の霊をもつキリストも過去現在未来において全人類の救い主であり、そのキリストの命の犠牲は、全人類の罪に有効なのです。このことを14節aは示唆しています。

パウロはローマ書3章24節でも同じことを述べています。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

「義」とは神の正しさであり、私たちが義と認められるというのは、「罪なき者」と認められるということです。つまり、これが「神の聖さ」でもあります。

しかし、私たちの犯した罪は、キリストの命を通しての贖いで、帳消しにできるとしても、私たちの罪深い肉の思いは、私たちが生きている限り、私たちを活発に悩ますのであります。

そのことを、パウロも十分承知で、善と悪、霊と肉との戦いを告白しています。

ローマ書7章

15節「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」

19節「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」

パウロは、自分をほんとうにみじめな人間だと告白し、このみじめな者を救い出してくれるのはイエス・キリストのみであると主張します。24節です。これは先週にも言いました。

では、なぜ、イエス・キリストを信じれば、このような善と悪との葛藤が私たちを襲うのでしょうか。なぜ、こんなに苦しいのでしょうか。なぜ、みじめだと思うのでしょうか。それは、いわば、私たちがイエス・キリストを信じた時点で、聖霊様が私たちの心に宿っていただいた結果でもあります。聖霊様は聖いお方です。その聖いお方が、私たちの肉的性格に、チャレンジを仕掛けてこられるのです。では、なぜチャレンジをされるのでしょうか。それは、私たちが、罪を理解し、罪を犯しにくい性質へと変えようとされておられるからです。そこには痛みが伴います。この痛みによって、葛藤によって、一歩、また一歩、神のご性質へと近づいていくのです。聖霊様によっての痛みは、その後に勝利の喜びと平安が待っています。

パウロは、ローマ書4章の終わりから5章の初めにかけて、次のように訴えています。少し長いですが、読ませていただきます。

「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

患難とは、ただ外からの迫害だけではありません。それよりも、内に生まれる葛藤の方が大きいのです。それこそが、現代の私たちが認識すべき患難であり、心の痛みです。聖霊様は痛みも覚えさせ、それによって練られた品性をつくりだします。そして、聖霊様によって、神の愛が私たちの心に注がれていることが、より分かるようになるからです。この聖霊様の働きこそが、私たちを「聖さ」へと導くのであります。

さて、今朝の中心聖句の後半部分を見てみましょう。

●14節b「良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」

ここで少々ひっかかりますのは、「イエス・キリストがご自分のために、ご自分の民をきよめる」というところです。「ご自分のために」とはどういうことでしょうか。私たちは、祈りの中で、「主の栄光が私たちの上に現わされますように」ということがあります。私たちが一生懸命努力をして成功を勝ち取ったとしても、それは主が私たちを祝福された結果であり、主に栄光をお返しするという姿勢を、私たちは信仰から学びます。私たちは努力をした結果を主にゆだねるということを、礼拝と通し、祈り会を通し、聖書通読を通して学んでいます。そのような信仰者こそが、この14節でいう、「良いわざに熱心な民」であり、その民には主を信じ主にゆだねるという信仰がはぐくまれており、主が民をきよめ、聖別することによって、民は主をほめたたえ、それが、主の栄光が現わされるということにつながります。「ご自分のためにご自分の民をきよめる」とは、実に主の栄光が現わされるためなのであります。つまり、民が主をあがめ、主の御名を賛美するためなのです。

神は私たちすべての者が、イエス・キリストを信じ、罪を赦され、聖霊様を通して、罪を犯しにくい性質へと変えられ、主の御名をほめたたえることを望んでおられます。どんな葛藤や困難があったとしても、それを忍耐することによって、練られた品性を生み出し、やがて、主とまみえるという希望を固く持つことができます。そうする過程で、私たちは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」者へと変えられ、主の栄光を現わす者とされるのです。主の栄光が現われる者とさせていただきましょう。

今朝も天国長屋の八さん、熊さんが礼拝にきてくださっています。八さん、熊さん、今朝のメッセージ、先週につづいて「きよさ」のことが中心となっていますが、私たちを救うための聖さは、主の栄光が現われるためであったということですが、どう思われますか。

―――――

八: 「きよさ」はもう先週話したから、いいや。でも、俺たちが救われたのは、主の栄光が現われるためってねのには、なにかスッキリこねぇな。熊はどうだい。

熊: 俺は、ヨハネの福音書でヨハネの言葉が一番だと思うんだが。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神は御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

八: それって、ヨハネの3章16節と17節だな。神様は、お返しのいらない、見返りのない愛を下さってんだ。オレもそう思うよ。でも、主の祈りを覚えているかい。

熊: あたりめぇじゃねぇか。

八: 主の祈りで、初めはどうなってる。

熊: 天にまします我らの父よ、ねがわくは、御名をあがめさせたまえ。

八: そうだろ。まずは、主の御名をあがめる、主の御名を賛美する、ことが大切なんだよ。その後で、俺たちの必要を祈らないといけねぇ。すべては、主の御名があがめられるためにあるんだということも真実なのさ。それも分かってんだよ。すべては神様中心に動いている。神様はほめられるべきお方だ。そんなことも百も承知なんだ。だけど、俺たちが救われきよめられるのは、神様の栄光のためだっていうのは、まだ割り切れねぇんだ。「そこに愛はあるんですか」って、叫びたいぐらいなんだ。

熊: 八、でもこうは考えられねぇか。俺たちゃ、どうあがいても神様のものだ。神様がなさることは、すべて正しいんだ。なんてったって、神様だからな。そして、俺たちゃ、神様にすべてをゆだねたんだ、またはゆだねようとしてるんだ。だから、神様のなさることに従うしかねぇんだ、神様を信じてな。神様が俺たちに最もよいことをしてくださるんだ、俺たちがそう思わなくてもな。だから、俺たちは神様を受け入れるしかねぇんだ。どんなことがあっても神様をほめたたえるしかねぇんだ。

八: それも分かってんだ。まだ、俺は、100パーセント、神様に降伏してないんだと思う。まだまだ、練られないといけねぇんだろうな。神様は愛の方だということも分かってる。

熊: まあ、みんな揺れるさ。揺れながら練られていくのかも知らねぇな。揺れても神様のもとに揺れ戻ればいいのかも知らねぇ。

八: 牧師さん、きょうはいけねぇや、なかなかまとまんねぇ。この辺で勘弁してください。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。信仰が揺れない人はいないですよ。揺れながら、信仰は強くなっていきます。そして、わたしたちはどんどん練られていき、主に拠り頼むことができていくのでしょう。私たちは、イエス・キリストを信じることによって、私たちの罪は贖われ、主は聖霊様をお送りくださり、練られていき、主の霊的なかたち、つまり主の聖さを身につけていきます。私たちは主のものであり、主に期待し、主をあがめ、主の御名を賛美する、それこそが、私たちの幸せであることを自覚していきます。主に自分自身を明け渡す作業には痛みもありますが、その痛みが喜びとなり、後に平安へと導きます。常に、主に期待し、主と共に、この世を精いっぱい生きていきましょう。

黙想いたします。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇51篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、ルカの福音書5章38節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「新しいぶどう酒は新しい皮袋にいれなければなりません。」

(詩篇51篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「主のためにきよめられる」と題しまして、あなた様から導きをいただきました。私たちは、時折、勘違いをします。私たちの人生は私たちのものかもしれませんが、主導権は主にあるということを忘れてしまいがちです。どうか私たちが常に主を仰ぎ見ることができますよう、私たちに主の聖さをお教えください。

私たちの主、聖なる、主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

賛美:新聖歌397「神の御子にますイエス」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。