メッセージ:「平和のキリストはすべての人の主」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

11月12日

担当:若竹孝行

メッセージ:「平和のキリストはすべての人の主」

今朝の聖書通読箇所:使徒の働き10章〜12章

10章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:10:34-36

「そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』」

●「神はえこひいきをする方ではない。」

神はえこひいきのない方であるとすると、差別や偏見が感じられるすべての障壁がとりのぞかれたということであります。

言葉の障壁、国籍の障壁、人種の障壁、文化の障壁、地理の障壁、男女の障壁、年齢の障壁、地位の障壁、仕事の障壁、生活水準の障壁。障壁はまだまだあるかも知れません。それら、すべての障壁をイエス・キリストは完全に無視し、一人の人間として、私たちひとりひとりに対して、神に取り成しをしてくださるのです。これは神の霊性をもつキリストでしか成しえないことです。人間は、だれしも、意識無意識のうちにえこひいきしています。「えこひいき」という言葉に抵抗があるなら、限られた自分の知識や感情によって、相手をはかることです。それは、先入観という言葉だけではあらわせない、私たちの限界です。イエス・キリストはすべてをお見通しです。イエス・キリストには限界はありません。

●「主を恐れる者とは」

神に受けいれられる人は、神を恐れ、正義を行う人、とあります。「神を恐れる」ことは知恵の初めであると詩篇は伝えます。詩篇111篇10節「知恵の初め、それは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ。」

「神を恐れる」とは、「神を全能の神としてあがめる、神の荘厳さにひれ伏す」ことではないでしょうか。詩篇に限っても、「神を恐れる」ことは次のようなことであると述べています。

「主を恐れる者を、彼(神)は尊ぶ」(15:4)

「主からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。」(19:9)

主を恐れる者は、神から尊ばれ、また神がきよいと認められる。

「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。」(25:12)

「主は、ご自分を恐れる者と親しく交わり、その契約を彼らにお知らせになる」(25:14)

主を恐れる者は、神と親しく交わることを許され、選ぶべき道をお教えくださる。

「主よ恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には、乏しいことがないからだ。」(34:9)

「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。(103:13)

主を恐れる者は、主があわれまれ、乏しいことはない。

「主を恐れる者たちよ、主に信頼せよ。主こそ助け、たま盾。」(115:11)

「主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われます。」(145:19)

主を恐れる者は、主に信頼することができ、願いはききとどけられ、主が救われる。

「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(147:11)

主を恐れる者は、主からの恵みを待ち望む者となり、主に喜ばれる。

結局、神を恐れる者こそが、神に受け入れられる。

●「平和のキリストはすべての人の主」

イエス・キリストは、神と霊的に断絶した私たちと神との間を取り持つ。キリストは、神と私たちの和解であり、キリストの血によって、私たちの罪を帳消しにされ、平和の君となられました。

イザヤ書9章6節

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」

神は、イエス・キリストを通して、このイザヤの預言を成就させました。

神は、えこひいきをされる方ではありませんが、イスラエル人だけではなく、全世界の人間で、神とイエス・キリストを信じ恐れる者が救われるとしました。しかし、イエス・キリストを信じる、信じないにかかわらず、神はイエス・キリストをすべての人の主にしたのです。

雨が選り好みをせず、すべての人に降りそそがれるように、主イエス・キリストの罪に贖いという恵みもすべての人にすでに注がれています。後はその恵みに気付かせる働き人が必要なだけです。それは、油注がれた牧師や伝道師や宣教師だけではありません。キリスト者全てが証者として働き人となるべきなのです。どうか、キリストの香りを放つものとして、主とともに、この世を生き抜いてください。

祈ります。

主のいのり