メッセージ:「死は罪から解放する」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

11月19日

担当:若竹孝行

メッセージ:「死は罪から解放する」

今朝の聖書通読箇所:ローマ4章〜6章

6章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:6:7-8

「死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」

ローマ書4章〜6章においてのテーマは、「信仰によって義と認められる」ということである。そして、その中心聖句は、5章1節です。「こうして、私たちは信仰によって義とみとめられたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

今朝は、この「信仰義認」の根底に流れるものを見つめたいと思います。

●「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)

旧約時代から、罪を償うには、死が伴います。汚れのない動物の血、つまり命が、人のひとつの罪を帳消しにします。動物の頭に手を置き、犯した罪を動物に移して、そしてその動物の命を犠牲にして、罪を帳消しにします。ですから、罪を犯すたびに動物の血が流れるわけです。では、罪を犯さないようにしたらいい。律法を完全に守れば罪を犯しません。しかし、人間は本来罪深い生き物です。なにせ、私たちは、アダムとエバの子孫で、罪は私たちの肉の中にあるからです。また定められた律法は罪の意識をめばえさせました。

ローマ5:20「律法が入って来たのは、違反(つまり罪)が増し加わるためでした。」

律法では、人は救われないのです。

●「死んだ者は罪から解放されている」(ローマ6:7)

罪から解放されるためには、死ぬしかないのです。しかし、死は罪の報酬であり、罪からの解放ではありますが、救いではありません。なぜなら、このままで死んだとしても、永遠の死、たましいの死があるのみです。

そこで、神は汚れのない人、内に聖霊を宿したイエス・キリストをこの世に送り、その罪のないイエスを十字架にかけ、イエスの血で私たちの罪を拭い去って下さったのです。しかし、それだけでは片手落ちです。イエス・キリストはただ単に十字架に架かって死んだだけです。しかし、神のご計画は、キリストをよみがえらせることで完成します。キリストが死を克服してよみがえったことで、私たちへの罪の贖いが完成するのです。

ローマ6:9「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。」

ですから、キリストの死が私たちの罪の贖いのためであり、キリストのよみがえりが私たちに永遠のいのちをもたらすものであると信じるなら、キリストの目的は、その信じる者の中で成就するのです。

●「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる」(ローマ6:8)

これが、信仰です。これを信じられなければ、キリストの死もキリストのよみがえりも、その人のなかでは全く無意味なのです。ですから、パウロは「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」と説くのです。

パウロの口を通して聖霊様のことば、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)これが真実です。

しかし、私たちは、イエス・キリストを信じたとしても、罪を犯さなくなったわけではありません。ですが、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)とパウロが言うように、私たちの犯す罪も、それを帳消しにするだけの恵みがイエス・キリストから、イエス・キリストの十字架から注ぎつがれるのであります。それも、一回こっきりではありません。イエス・キリストが永遠であるがゆえに、イエス・キリストの罪の贖いも永遠に効力があるのです。それゆえに、私たちの罪は永遠に贖われ、永遠のいのちへと導かれるのです。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

祈ります。

主のいのり