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メッセージ主題:『キリスト者として役に立つ』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ピレモンへの手紙』

2020時年11月22日

聖書拝読:ピレモンへの手紙8節~18節(新改訳聖書)

中心聖句:

「彼(オネシモ)は、前にはあなた(ピレモン)にとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私(パウロ)にとっても、役に立つ者となっています。」(11)

メッセージ主題:『キリスト者として役に立つ』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、テトスへの手紙第3章から、「神の相続人」ということを学ばせていただきました。この3章では、神のあわれみと恵みによって、聖霊による、新生と更新との洗い、つまり霊的なバプテスマを通して、私たちは救われるのであって、私たちの人間的な行ないによって救われるのではないという真実を強調しています。そして、救われた人たちは、良いわざを励むことを心がけるよう、勧められています。先週はそのなかで、神のご性質である義と永遠のいのちを相続できることを学ばせていただきました。

今朝は、ピレモンへの手紙から、「キリスト者として役に立つ」というメッセージを通して、神に語りかけていただきます。この「ピレモンへの手紙」は、パウロの獄中書簡と呼ばれているものの一つで、パウロの手紙の中で最も短く私的なものとなっています。では、なぜこれが聖書編纂の中で、聖書に取り込まれたのでしょうか。おそらく、「神・キリストの愛」ゆえに「赦す」ということが、この手紙のテーマではないからでしょうか。オネシモという一人の奴隷が、ピレモンのもとから、お金を盗んで逃げました。死罪にあたる罪です。その後、ローマでオネシモはパウロと出会い、回心し、パウロの弟子となり、キリスト者として立派な信仰者となります。しかし、当時の奴隷制度では、いつまでたっても、オネシモは元の主人のものですから、パウロは、オネシモをピレモンのもとに送り返そうとします。その時、パウロは、この手紙を自らしたため、オネシモを「奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として」受け入れてほしいと願います。また、ピレモンはそうするであろうと信じて、この手紙をそえて、オネシモの身柄をテキコに託します。テキコは獄中書簡のいくつかを、パウロから託された、主の忠実なる働き人です。今朝は、パウロの気持ち「オネシモを赦してほしい。オネシモは、主の働き人として、十分に役に立つ者となったのだから」、そのパウロの愛から、主の私たちへの愛を感じてみたいと思います。

短くお祈りいたします。

この手紙には、オネシモの気持ちは一切、明らかにされていません。オネシモは、はたしてピレモンのもとに帰りたかったのでしょうか、死罪となるかもしれないと分かっているのに。パウロはオネシモのことを「獄中で生んだわが子オネシモ」と表現しています。オネシモは、忠実なるキリスト者となりました。彼が信仰を持った時点で、聖霊様が働かれ、お金を盗んで逃げた罪を主人ピレモンに赦してもらいたいと願ったのではないでしょうか。キリスト者なら誰しも、大なり小なり、罪を告白して謝罪したいと思わされるはずです。もちろん、罰は受けるつもりで。罪は神に赦してもらうのではありますが、罪を犯した相手がいる場合は、その相手にも謝罪しなければなりません。オネシモは、パウロのそのことを相談したのではないでしょうか。死罪となることを覚悟の上で、主人ピレモンのもとへ戻ることを。そこで、パウロはこの手紙をしたため、弟子のテキコに持たせ、オネシモをピレモンのもとに連れていくようにしたのではないでしょうか。

パウロは、ピレモンに、オネシモの罪を赦すだけではなく、オネシモの奴隷の立場を解放するようにお願いしています。

「彼(オネシモ)が、しばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私をむかえるように彼を迎えてやってください。」(13-17)

パウロはなぜ、ここまでオネシモのことを想うのでしょうか。もちろん、オネシモをキリストへと導いたのがパウロであったからでもありましょう。しかし、それだけではありません、オネシモは「役に立つ熱心なキリスト者」となったからです。

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」(11)

私は、このパウロの言葉に表されているように、オネシモは福音宣教において、教会形成において、貴重な存在となっていたのです。オネシモが、主のからだである教会において、どの役割を果たすのか、この手紙には記されていませんが、彼はなくてはならない存在へと主によって変えられたのです。

このパウロのピレモンへの手紙は、執り成しの手紙です。これを次のように読み替えると、私たちにも当てはまるのではないでしょうか。ピレモンを天の父なる神様、オネシモが私たち、そしてパウロは、イエス・キリストとして。

例えば、先ほどお読みしました13節から17節を次のように書き換えることができます。

「この者たち(私たちのことですが)が、しばらくの間、天の父なる神様から離されたのは、たぶん、神様がこの者たちを永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや罪の奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する私の兄弟としてです。特に私(キリスト)にとってそうですが、神様にとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。ですから、もし神様が私を愛する子と思うなら、私をむかえるように、この者たちを迎えてやってください。」

少し言葉を変えたところはありますが、いかがでしょう。神からみてキリストからみて、実にわたしたちはオネシモだったのです。

そして、今朝の中心聖句も書き換えてみましょう。

「この者たちは、前には神様にとって役に立たない者でしたが、今は、神様にとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」

これを聞いて、イザヤ書43章4節を思い出す方も多いのではないでしょうか。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

主の目に高価で尊いと思っていただけるのは幸いであります。神様は、私たちをお造りになった方ですから、「出来の悪い子ほど、かわいい」と思われるのかもしれませんが、「出来の悪い子」としては、なんとか神様に「役に立つ者」として見てもらいたいという気持ちもあるのではないでしょうか。

では、神様に役に立つ者とは、どんな人のことでしょうか。

それは、神様を心底愛そうとする人ではないでしょうか。

イエス様はおっしゃいます。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これが大切な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)

また、パウロは「神を愛する」ことの具体的態度として、次のように述べます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」(1テサロニケ5:16-19)

私たちは、天の父なる神様の役に立ちたいと思っているのなら、まず、神を全身全霊をかけて愛すること、そして、神様との交わりの中で示されたことを行えばよいのだと思います。神様は無から有を作り出せるお方であり、本来、私たちの助けを必要としません。しかし、あえて私たちをお使いくださるのです。そのためには、絶えず神様と交わっている必要があります。神様のご指示を聞き逃さないためにも。

さて、天国長屋の八さん、熊さん、今朝のメッセージ「キリスト者として役に立つ」で、なにか感じられたこと、思わされたことはございませんか。

―――――

八: 「神様の役に立つ」かぁ。いいねぇ、役に立ちてぇよな。でもよ、どうしたら、俺っちみたいな、つまんねぇものが役に立てるのかなぁって、思っちゃうんだよな。

熊: 八、牧師さんが言ってたじゃねぇか、「神様を精いっぱい愛する」ことだって。まず、ここだよ。この基本がなっていなければ、何をしてもダメなんだよ。

八: そうか、そうだよな。パウロも「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山をうごかすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」(1コリント13:2)って言ってる。何をしても、神さまへの愛、隣人への愛がなければ、どんな善行もどんな信仰も、役に立たないんだよな。だからって言って、「愛してます」って言って、何にもしないのもおかしな話だ。そうだろ。神様にほめてもらいてぃんだ。だから、神様が喜ぶことをしてぇ。

熊: それが、役に立つことじゃ、ねぇのかな。人に役に立つんじゃね、神様の目からみて役に立つんだ。だから、精いっぱい、「神様愛してます」「イエス様いのちです!」って思ってりゃいいのじゃないかい。俺たちの考えで、役に立つことをしようって思うのは傲慢さ。俺たちゃ、いろんなことがあっても、七回転んでも、八回起きあがって、心から神様を信じて見上げ続ければいいんじゃねぇのかな。そんな生き方ができりゃ、神様の方から、「よしよし、ういやつじゃ。使ってあげよう」って言ってくださるってなもんさ。

八: 熊、その「ういやつじゃ」ってのはやめようぜ。水戸黄門かなにかの時代劇で、悪代官のセリフのように聞こえるからさ。

熊: それもそうだな。神様が悪代官になっちまったら、大変だ。つまり、心底、神様のことを想っていりゃ、俺たちの行動も変わってくる、そして、「キリストのかおり」を放つ者とされるなら、神様がすでに俺たちを用いてくださっている証拠さ。

八: そうか。今日の牧師さんも言ってたよな、まあ、今日だけじゃねぇけどな。なにかあったらメッセージの締めくくりに、あの御言葉をだす。もう耳タコだけどな。1テサロニケの5章の御言葉。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」って。やっぱ、これに尽きるのかもしれねぇな。

熊: ま、俺たちは、自分が神様の役に立つかどうかなんて、心配しなくったっていいのさ。神様がちゃーんと俺たちを用いてくださる。

八: そうか。俺たちの案ずるところじゃねぇか。それは、神様のお仕事なんだな。ちょっと気が楽になった。ということで、牧師さん、これでよござんすかね。

―――――

八さん、熊さん、今日は、結婚式のお手伝いでしたね。礼拝を守ってくれてありがとうございます。熊さんがおっしゃったように、「役に立つ」というのは、神様の目からみて「役に立つ」ということですから、必ずしも人間的に役に立つということではありません。私たちは、私たちが役に立つかどうかを心配する必要はございません。主を信じ、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝する、それでいいのです。主が私たちをどのようにお使いになるかは、主がお決めに導かれることです。ただ、「キリストのかおり」を放つ者とさせていただければ、私個人にとっては、この上もなき幸せでございます。

さて、黙想いたしましょう。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇84篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、ヨハネの福音書15章11-12節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

(詩篇84篇)

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お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「キリスト者として役に立つ」と題しまして、あなた様から導きをいただきました。私たちが、主のお役に立つかどうかは、私たちにはわかりませんが、私たちをきっとお役に立ててくださると信じています。どうか、私たちが常に主をもとめ、主に生きることができますよう、私たちを整え導いてください。

私たちの主、平和の君、主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の曲

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https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0