メッセージ:「逃れの道」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

11月26日

担当:若竹孝行

メッセージ:「逃れの道」

今朝の聖書通読箇所:コリント人への手紙第一10章〜12章

10章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:10:13

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」

10章は、偶像への礼拝に対する警告が記されています。偶像礼拝は、コリントでは普通のことでした。偶像礼拝と聞くと、なにか異様な感じがしますが、今の日本がそうです。人間が造った物を、または自然が造った物を、神または神が宿っているとして拝む、これが偶像礼拝です。仏教での仏像もしかり、また、神社の鏡もしかり、山の神木もしかり。この世界を創造された神は霊ですから、形ある物を拝むことが、神以外の物を拝むことですから、神が最も嫌われることなのです。コリントの町は、まさしく今の日本の状態だったのです。

●「あなたがたが経験した試練」

その中でのパウロの忠告であります。13節の「あなたがたが経験した試練」とは、世の中に蔓延し普段化した群像礼拝の誘惑であり、偶像礼拝をしないことへのプレッシャーであります。それは、まるで、仏教によるお葬式にでて、数珠ももたず、お焼香もしないというプレッシャーに似ています。周りは、変な奴と思ってジロジロみているのではないかと、実際にはそんなに気にしていなかったりするのですが、、、当人にとっては、みんなと違うことをしているというのはなかなかなプレッシャーであります。そのプレッシャーに負けるというのも、誘惑であり、プレッシャーを感じるというのも試練でもあります。

●「試練はみな、人の知らないものではありません」

パウロ、「自分だけが、試練や誘惑を受けているのではない」ということを述べています。また、逆に「試練はすべての人に起こる者であって、自分だけは例外で、試練にあうことはない」と思わないようにとも忠告しています。「しかし、その試練は、他の人たちも絶えてきたのであることを知るべきである。」「だから、あなたも絶えることができる。」と励ましています。

●「神は真実な方です。」

神は不公平をなさいません。公正であります。詩篇33:5「主は正義と公正を愛され」9:8「主は義によって世界をさばき、公正をもって、もろもろの国民をさばかれる」試練は必ず、私たち全員に与えられます。なざなら、試練によって私たちは鍛えられ、希望を得ることができるからです。ローマ書5:3「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

●「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」

これは神の約束です。私たちに試練を与えて希望を見いだすようにするためです。ですから、必ず、耐えられない試練は与えられません。神は約束を守られます。神は私たちを滅びへと導くのではなく、救いの手を差し伸べる方です。だからこそ、イエス様はこの世に送られてきました。ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これが真実です。イエス・キリストをお送りくださった神が、私たちに耐えられない試練をお与えになるはずはありません。これが信仰です。

●「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」

試練を耐えるために、脱出の道が備えられていて、主の時にその道が示されます。その脱出の道とは何でしょうか。手伝ってくれる友が与えられるかもしれません。必要なお金が送られてくるかもしれません。また、締め切りがのびる時もあるでしょう。しかし、これは表面的な脱出の道でしかありません。根本的な、普遍的な脱出の道は、何でしょう。それは、イエス・キリストであり、神であります。詩篇には次のような言葉があります。「御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主よ、あなたを求める者をあなたはお見捨てになりませんでした。」(9:10)ヨエル書には、「主の御名を呼び求める者は、みな救われる」(2:32)ともあります。脱出の道は、主ご自身であり、主を求めることです。求める者は、見捨てられず、試練に耐えるための整えを備えてくださるのです。どんな時でも、どんな試練にあっていたとしても、主を求めましょう。それが、私たちに与えられた、最高のそして唯一の逃れの道だからです。

祈ります。

主のいのり