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メッセージ:「逃れの道」

ぶどうの木キリスト教会

12月6日

メッセージ担当:若竹孝行

メッセージ:「逃れの道」

中心聖句:コリント人への手紙第一10章13節

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

みなさん、おはようございます。お久しぶりでございます。そして、お帰りなさい。

最近、コロナコロナで忍耐をすることが多くなりましたね。

出かけるときには、必ず、マスクをしないと。なんか、こう、マスク無しで、外に出てはいけないような気持にもなります。この前なんざ、慌てていましたから、マスクをせずに出ていってしまいまして、電車にとび乗った時に、マスクをしていないことに気が付きました。バツが悪いったらありゃしません。みんながジロジロみています。まるで、女性専用車両に乗った時のように、居心地の悪いこと悪いこと。次の駅でそそくさと降りて、駅のキオスクでマスクを求めました。一時期に比べますと、マスクも簡単に手に入るようになりましたね、それも質のいいものが。ちょっと前に国が大金(たいまい)はたいて配ったマスクなんざ、マスク自体が小さいわ、ゴムはきつくて、耳が痛くなるわ、息はしにくいわで、不便さが三拍子そろっておりました。国のとんちんかんにもほどがございます。今年の流行語大賞をとった「三密」でありますが、あのマスクは「三きつ」でございました。

最近、マスクをしていますと、喉に悪いということを耳にしました。どうりで、私なんざ、喉がすぐ枯れてしまう。まあ、歳ということもございますが、口八丁手八丁の私としては、喉が商売でございますから、マスクは痛しかゆしです。してないと、世間体も悪い、が、したらしたで、喉が枯れて、おまんまの食い上げになってちまうんではないかと。ま、これも一つの試練とでも言いましょうか。

ところで、試練と言えば、今日の御言葉でございますが、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」とあります。これはもう有名な言葉で、世間ではこの言葉が独り歩きしております。まあ、聖書の言葉がひとりあるきしている事例はたくさんございます。たとえば、「豚に真珠」。これはマタイの福音書7章6節から由来した言葉であります、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょう。」恐ろしいですな。豚に真珠をあげると、私たちは豚に引き裂かれるのですから。このことわざは、『値打ちが分からない者に、価値のあるものを与えても無駄である』という意味のたとえでございます。無駄で終わればいいのですが、それによって私たちも引き裂かれる、悩まされるとあるのですがら、たまったものではござません。また「目には目を歯には歯を」とは、「やられたら、やり返せ、倍返しだ!」まあ、半沢直樹のように「倍返しだ」とは、言っておりませんが、これも聖書からの引用でございます。出エジプト記21章23節~25節にあります。「殺傷事故があれば、いのちにはいのちをあたえなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」まあ、傷にはオロナイン軟膏が良いのかも知れませんが。つまり、同じ価値のもので償わなければならないと言っているのであります。また、復讐するとしても、まあ、復讐はほめられたことではござませんが、度をこしてはいけないと、神様は忠告しているのでございます。目を損なったとしても、相手の命をとってはいけないと、「倍返しだ」なんてぇのはもってのほかだと、神様はおっしゃっておられるのであります。目を損なった相手には、相手の目にならないといけないと、神様はこうも申しておられるのかもしれませんな。

話をもどしまして、「神様は乗り越えられない試練は与えられない」という聖書の言葉もひとりあるきしております。オリンピック・メダル候補に上がっていました、水泳の池江璃花子選手は、白血病となり、自身のツイッターで、「神様は乗り越えられない試練は与えられない。自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」というふうに投稿し、話題となりました。事実、彼女は今、白血病を乗り越えて、再び水泳の世界へと帰ってこられました。彼女の存在は、世間の人々に勇気をあたえております。

しかし、どうでしょう。神様は、本当に乗り越えられない試練は与えられないのでしょうか。

池江璃花子さんにとっては、白血病治療は成功し、白血病という試練は乗り越えられました。しかし、すべての白血病患者の方が、白血病を克服しているわけではございません。では、「神様は乗り越えられない試練は与えられない」というのは嘘なのでしょうか。それとも、白血病は試練ではなかったのでしょうか。私たち、クリスチャンは、聖書は正しいと考えます。そうしますと、白血病は、白血病だけではなく、さまざまな病気などは、神様が与えられる試練ではないのではないか、という考えもできるのではないでしょうか。

そこで、もうちょいと、パウロが言ったこの御言葉の状況、つまりコリント教会の周りの状況を見てみたいと思います。

コリント人への手紙第一の10章は、偶像への礼拝に対する警告が記されております。偶像礼拝は、コリント地方では普通のことでありました。偶像礼拝と聞くと、なにか異様な感じがいたしますが、今の日本がそうでございます。人間が造った物を、または自然が造った物を、神または神が宿っているとして拝む、これが偶像礼拝でございます。仏教での仏像もしかり、また、神社の鏡もしかり、山の神木もしかり。この世界を創造された神は霊でありますから、形ある物を拝むことは、神以外の物を拝むことになります。神が最も嫌われることなのであります。コリントの町は、まさしく今の日本の状態だったのでございます。

そのことを理解した上で、今日の中心聖句を少しずつ見させていただきたいと思うのであります。

13節初めのことば

●「あなたがたが経験した試練」

偶像礼拝の蔓延する中でのパウロの忠告であります。この「あなたがたが経験した試練」とは、世の中に蔓延し普段化した偶像礼拝の誘惑であります。偶像礼拝をしないことへのプレッシャーであります。それは、まるで、例えば、仏教によるお葬式にでて、数珠ももたず、お焼香もしないというプレッシャーに似ております。周りは、変な奴と思ってジロジロみているのではないかと、実際にはそんなに気にしていなかったりするのですが、、、当人にとっては、みんなと違うことをしているというのはなかなかなプレッシャーでございます。

(拍子木)

叔母:ねえねえ、あんた。ほら、ターちゃん、(「ターちゃん」というのは親戚が私を呼ぶときのニックネームでございますが)ほら、ターちゃん、数珠もってないよ。あんた、お焼香おわったんだからさ、数珠貸しておあげぇな。

叔父:やだよ、お前のを貸してあげたらいいじゃねぇか。

叔母:なに言ってんのさ、私のは女の数珠だよ。男物を貸しておあげぇな。

叔父:そうだな、ター、、、あぁ、行っちまったよ。ター坊のやつ。、、、

おいおい、ター坊、お焼香もしねぇよ。手を合わして祈っているだけだぜ。

叔母:あんた、そういやぁ、ターちゃん、アーメンさん、だったね。

叔父:ター坊やつ、堅物だなぁ。「郷に入れば郷に従う」ってこと知らねぇのかな。

お焼香ぐらいしたって、バチぁ当たらねぇだろうによ。

(拍子木)

バチの代わりに、宝くじぐらい当たってくれればいいのですが、ま、私なんざ、買いもしませんから、当たりもしません。それでも、貝には当たったことがございます、(腹痛)。

冗談はさておき、さきほどのきょうなひそひそ話があったかどうかは、当人も知るよしもございません。しかし、人と違うことをしないというプレッシャーに負けるというのも、誘惑であり、プレッシャーを感じるというのも試練でもございます。

つぎに、

●「試練はみな、人の知らないものではありません」とあります。

パウロは、「自分だけが、試練や誘惑を受けているのではない」ということを述べております。また、逆に「試練はすべての人に起こるものであって、自分だけは例外で、試練にあうことはない」と思わないようにとも忠告しております。「しかし、その試練は、他の人たちも耐えてきたのであることを知るべきである。」「だから、あなたも耐えることができる。」と励ましているのです。どう転んでも、この世では試練はつきものだと申しております。

しかし、試練の中、真っ最中の人は、もう自分のことで手一杯でございますから、他の人に「みーんな、経験していることだから、大丈夫だ」と励まされたとしても、一向に効き目はございませんな。なにせ、試練におぼれているわけでございますから、冷静さなんて保ちようがございません。「神様助けてください」と必死に願うのあれば、まだましな方でございますが、、、ズーンと落ち込んでしまいますと、「助けてください」と言うことすらできなくなってしまいます。そんなことのないようにと、パウロは、「試練はみな、人の知らないものではありません」と訴えるのであります。

実は、聖書を読みますと試練だらけでもあります。特に、旧約聖書のヨブ記なんざ、これでもかと思うほどの試練にヨブは合わされます。ま、ヨブ記は、「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」というお題がテーマですから、ヨブはとことん神から試練を与えられるわけです。ヨブは、いえ、私たちもそうですが、試練の原因がはっきり分からないのです。これは人の常でもありますな。なぜ神は正しい者にも試練をあたえるのか。神のみぞ知る、ってことでしょうか。しかし聖書では、神が絶対的な力と知恵をもって私たちを支配し、私たちにとって最善になるようにと、試練を課せられる、、、そのことを私たちが悟るためであると言うのであります。つまりは、私たちが、まったく神に降伏し、私たちの人生を明け渡すように、神は導くのであります。私たちが、神を絶対なる神と認めるためであります。事実、ヨブは自分の不信仰を悔い改め、神はその祈りを受け入れ、ヨブの健康は元通りとなり、ヨブの所有物は二倍にされました。試練だけでは終わらないのです。

新約聖書の中では、イエス様もわざわざ、40日40夜断食をして、悪魔の試練にあわれました。私たちのためにお手本を見せてくださったんですな。

(拍子木)

悪魔:しめしめ、イエスは腹がへっておる。今が誘惑のチャンスだ。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

イエス:「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。』と書いてある。」

悪魔:御言葉で誘惑をはねつけよった。ではこれではどうじゃ。相手が御言葉でくるなら、こっちも御言葉だ。よし、神殿の上に連れて行こう。

「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』とかいてありますから。」

イエス:「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

悪魔:手ごわいのう、イエスは。では、高い山に連れて行って、この世の栄華をみせようぞ。

「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

イエス:「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

(拍子木)

悪魔はすごすごと去っていくのであります。

イエス様は、ここで、日常生活での誘惑、神様の力を疑う誘惑、そして、富や名声、悪魔崇拝の誘惑、これらの試練に会われ、御言葉をもってその誘惑に立ち向かったのであります。

イエス様は私たちが経験するであろう試練を、自らが受け、御言葉をもって、その試練を乗り越えたのでございます。イエス様は身をもって、乗り越えられない試練はない、御言葉によって、試練は乗り越えられることを教えて下さっているのであります。

次に

●「神は真実な方です。」

神様は不公平をなさいません。公正であります。

詩篇33:5「主は正義と公正を愛され」るとありますから。

神様は公正な方ですから、試練はもれなく、私たち全員に与えられます。なぜなら、試練によってこそ、私たちは鍛えられ、希望を得ることができるからです。

ローマ書5:3「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

そう、私たちは知っているのです。神様は試練をあたえ、それを忍耐することによって、最終的に、永遠のいのちという希望が与えられることを。神様は、私たちに、試練に対してGive Up してほしくないのです。

(拍子木)

八: 熊、石の上にも三年っていうことわざ知ってるかい。

熊: 八、なんだよ、藪から棒に。知ってるに決まってるじゃねぇか。冷たい石の上に三年も座り続けてりゃ、「ぢ」にもなるっていうやつだろ。ありゃ、「切れぢ」かね、それとも「イボぢ」かい。

八: 馬鹿言ってんじゃねぇよ。冷てぇ石の上に三年も座りゃ、あったまってくる。我慢強く辛抱すれば、必ず成功するっていうこった。

熊: なるほどね。まあ「ぢ」もあったかくすりゃ、楽になるそうだから。

八: 熊、「ぢ」の話はこっちのおいといて。

熊: けどよ、八。俺たちゃ、ずっと我慢強く、同じ仕事しているけど、芽が出ねぇよな。

八: 仕事じゃ、芽が出ねぇけど、俺たちゃ、成功しているぜ。

熊: どういうこったい。芽が出ねぇのに、成功しているのかい。

八: この歳まで、仕事続けさせていただいているじゃねぇか。失敗してねぇってことは成功じゃねぇか。

熊: なるほどな、続けられているっていうのが成功かい。それじゃ、俺たちの信仰もそうかもな。細々でも信仰がつながっているっていうのは成功なんじゃねぇか。

八: いろんな誘惑や試練があるかもしれねぇけど、そのたんびに、イエス様に助けられて、信仰がつながってんだ。そして、それが希望へと続いていくんだな。いやぁ、ありがてぇな。

だから、俺たちゃ、人生の成功者さ。

(拍子木)

神様は真実なお方です。私たち全員に絶対に試練を与えられます。なぜなら、試練に耐えて、人生の成功者、永遠のいのちを得てほしいからであります。

次のことばを見てみましょう。

●「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」

これは神様の約束です。私たちに試練を与えて希望を見いだすようにするためです。ですから、必ず、耐えられない試練は与えられません。神は約束を守られます。神は私たちを滅びへと導くのではなく、救いの手を差し伸べる方です。だからこそ、イエス様はこの世に送られてきました。ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これが真実です。イエス・キリストをお送りくださった神が、私たちに耐えられない試練をお与えになるはずはございません。これが信仰です。

では、なぜ、今コロナ禍という試練にあって、自殺したり、自暴自棄になったりする方がいるのでしょうか。そのような人たちが増えると懸念が広がっているのでしょうか。神は耐えられない試練を与えられない方ではなかったのでしょうか。神は約束を破られない方ではなかったのでしょうか。

いいえ、神は、神のご性質から、約束を破ることはできません。神は私たちに、試練を与えながら、「私に助けを求めなさい」と手を差し伸べてくださる方です。残念ながら、その方々は、経済的な理由で、また他の理由で生活に絶望してしまったのです。人生に絶望してしまったのです。イエス・キリストがこの世に送られた本当の理由、先ほどのヨハネの福音書3章16節の真実のみことば「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この真実を知らなかった、また、知っていても信じられなかったということです。まことに残念です。神様を信じ続けて助けを求めることを知らなかった、またはそれを諦めてしまったのです。永遠のいのちの希望は失望に終わらないのに、その希望を持てずに、彼らは死を選ぼうとしています。今、コロナ禍にあって、一刻も早く、イエス・キリストとその目的、そしてイエス・キリストをお送りくださった神の愛を知る必要があるのです。

13節の最後のことばを見てください。

●「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」

試練を耐えるために、脱出の道が備えられていて、主の時にその道が示されます。その脱出の道とは何でしょうか。手伝ってくれる友が与えられるかもしれません。必要なお金が送られてくるかもしれません。また、提出すべきレポートの締め切りがのびる時もあるでしょう。人はそれを、ラッキーと呼ぶかもしれません。また、私たちクリスチャンは、神の備えだ「アドナイ・イルエ」と神の御名を賛美するかもしれません。

では、「アドナイ・イルエ」とはどういうことでしょうか。

「主の山に備えあり」とも訳されていますし、「主が備えてくださる」とも「主が計らってくださる」とも訳されています。創世記22章14節にあることばであります。ここでは、神がアブラハムにあなたの子孫は星の数ほど増えると約束された、その第一子、イサクを、全焼のいけにえとして神にささげなさいと神はアブラハムに伝えるのであります。いえ、命令するのであります。なんということでしょう。愛する息子、神に約束された息子を、神にささげなくてはいけない。理不尽極まりないと思えるような、この神の要求であります。しかし、アブラハムは、神のこの命令に従います。なぜなら、神はアブラハムにとって絶対だからです。そして、神は約束を決して破られない方だと、アブラハムは確信しているからです。アブラハムは、はじめは、少し躊躇したかもしれませんし、戸惑ったかもしれません。

しかし、神の初めの約束「あなたの子孫を星の数ほど増やす」そのことを信じて、神の命令に従おうとして、刀を取って自分の子の命をささげようとした、、、その時、主の使いが天からアブラハムを呼び、「アブラハム、アブラハム、あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ、おしまないでわたしにささげた。」

アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいます。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。これが、「アドナイ・イルエ」であります。備えられた「脱出の道」なのであります。

主は、アブラハムの信仰を見、その信仰に応じて、最善を計らってくださり、そして、必要を備えてくださったのです、イサクの代わりに、雄羊を。

友の手助けも、お金の入金も、締め切りの延長も、神が必要を満たしてくださったのです。

しかし、これはあくまでも、表面的な脱出の道でしかありません。根本的な、普遍的な脱出の道は、何でしょう。「神はアブラハムの信仰を見て、」計らいと備えをなさいました。『神は信仰をみられるのです。』では、現在の私たちの信仰とは何でしょう。それは、皆さまはもうお分かりでしょう。イエス・キリストであり、神への信仰であります。イエス・キリストを求めることこそが脱出の道なのであります。

詩篇には次のような言葉があります。「御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主よ、あなたを求める者をあなたはお見捨てになりませんでした。」(9:10)ヨエル書には、「主の御名を呼び求める者は、みな救われる」(2:32)ともあります。脱出の道は、主ご自身であり、また主の言葉であり、主と主の言葉を求めることであります。そして主への信仰であります。求める者は、見捨てられず、試練に耐えるための整えを備えてくださるのです。どんな時でも、どんな試練にあっていたとしても、主イエス・キリストを求めてください。それが、私たちに与えられた、最高のそして唯一の逃れの道だからです。主はあなたを裏切りません。

主は、あなたを、そして、あなたの周りの人を、人生の成功者にしたいのです。イエス・キリストを信じて永遠のいのちをもってもらいたいのです。あなたの逃れの道は、イエス・キリストしかありません。どうか、イエス・キリストを信じ受け入れ、信じ続けますと決心してください。

もうすぐクリスマスです。今朝は、アドベント第二週。アドベントとは、キリストがこの世にお生まれ下さったクリスマス前の4週間を準備期間とします。何の準備期間でしょう。イエス・キリストの誕生の意味を知る準備期間です。イエス・キリストを受け入れる準備期間です。イエス・キリストは、人々を救いに来られました。ご自身の聖なるいのちを犠牲にして、人々の罪を帳消しにし、そして、三日目に死を克服し、よみがえって、、、私たちが、イエス・キリストを信じることで、自らの古い自分は、イエス・キリストとともに十字架につけられ、イエス・キリストとともによみがえって、聖霊様の力をかりて、私たちは新しい自分へと変えられていくのです。

キリストがお生まれになったのは、あなたに逃れの道を与えるため、いえ、あなたの逃れの道となるためであります、主なるイエス・キリストが。

この世は苦難でいっぱいです。しかし、神は真実なお方で、あなたを愛しておられます。あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道もすでに備えてくださっています、、、イエス・キリストという脱出の道を。

神はイエス・キリストをあなたの救いのために、備えてくださっているのです。

イエス・キリストをあなたの脱出の道としてください。

お祈りいたします。