メッセージ:「信仰による祈りは、主に喜ばれるささげもの」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

12月10日

担当:若竹孝行

メッセージ:「信仰による祈りは、主に喜ばれるささげもの」

今朝の聖書通読箇所:テモテへの手紙第一1章〜3章

2章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:2:3

「そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」

第一テモテの1章は、異なる教えについての警告と神の憐れみに対する感謝。2章は、祈りに関する教えと信仰にある男女のわきまえ。3章は監督者や奉仕者の資格と生ける神の教会のことが記されています。

今朝はその中の2章の3節を中心に学ばせていただきます。

4節「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」私はこの言葉を読んで、「真理」とはなんだろうと思っていました。初めは、次の5節「神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」という言葉かなと思ったのです。

しかし、「救われて」ということが初めにあります。つまり、「神を知る、神を信じる」ことが「救い」であります。また、神以外に救いはありませんから、神を信じ、神を知り救われてから、真理を知ることになります。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」ということも真理ではあると思うのですが、このことを信じなければ、私たちは救われません。

だとすると、救われた後に、別の真理を知ることになると思われます。では、いったいパウロは、その真理を何だと思っているのでしょうか。

それは、パウロの勧めの中にあるではないでしょうか。

1節「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」

パウロは、人のためにとりなしの祈りをし、また感謝の祈りをささげなさいと言っています。

なんのためでしょうか。

2節「それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。」

人の為にする祈りは、結果的に私たちの平安で落ち着いた生活を送るためであり、またそのような祈りが、3節「私たちの救い主である神の御前においてよいことであり、喜ばれること」であるとパウロは述べています。

つまり、他の人へのとりなしの祈りは、神に喜ばれ、また結果的に私たちに平安で落ち着いた生活を与えてくれる。これが、真理だとパウロは述べているのではないでしょうか。

では、なぜ私たちは他の人のために祈るのでしょうか。それは、主イエス様が「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃるからです。しかし、これは容易なことではありません。嫌いな人、苦手な人も愛さないといけないのです。ここでの「愛する」は好き嫌いのことではありません。イエス様は、どんな人のためにも父なる神に祈ったのです。

「互いに愛し合いなさい」とは実に「互いに祈りあう」ことなのです。

そして、祈りは、相手のためだとしても、父なる神は、その信仰を見て喜び、祈る者に、平安と喜びを与えてくださるのです。

また、ヤコブも祈りのことについて次のように述べています。(ヤコブ書5:15-16)

「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」

主に求め、主によりたのむ祈りをささげる人は正しい人であり、その祈りには力があります。

事実、箴言では「悪者のいけにえは主に忌み嫌われ、心の直ぐな人の祈りは主に受け入れられる」と言われ、これは全くの信じるに値する言葉です。

勘違いをしてはいけないのですが、私たちに力があるわけではありません。私たちがその人のために心からのとりなしの祈りをささげる時、神はその祈りをお聞きくださり、私たちの信仰を見、計らい、備えてくださるのです。神は、私たちの祈りを通して、私たちの信仰を見られるのです。

年老いた祭司ザカリヤとその妻エリザベツは、神の前に正しい人でしたが、彼らには子がありませんでした。しかし、神は彼らの祈りを聞き、かれらの信仰を見て、不妊の女と呼ばれてしまっていたエリザベツに男の子をさずけます。その子はヨハネと名付けられ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。また、イエス・キリストの誕生の準備として、神はヨハネを用います。神はエリザベツの祈りを聞き、信仰を見られたのです。そして、エリザベツを選び、ヨハネを送りました。

「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とヘブル書の著者は唱えます(11:1)。信仰によって、祈りは力をえます。そして、信仰によって、祈りは具現化していきます。

信仰に裏打ちされた祈りによって、私たちは癒され、平安をえることもできます。

信仰に裏打ちされた祈りによって、またそのような祈りを積み重ねることによって、私たちの願いは主に聞き届けられ、主が時を計らって、私たちのために、また祈りの相手に、備えてくださいます。

信仰に裏打ちされた祈りによって、私たちは主に喜ばれる存在となります。

信仰に裏打ちされた祈りによって、私たちの霊と霊である神様が交わり融合することができるのです。

信仰に裏打ちされた祈りによって、私たちは、イエス・キリストに倣う者とされるのです。「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めを守ることができるのです。

もうすぐクリスマス、主のご降誕をお祝いする日であります。主がこの世にお生まれになったのは、私たちを罪の奴隷から解放し、私たちを永遠のいのちへと導くためであります。しかし、それだけではないのです。イエス・キリストは、神様と私たちの仲介者であり、和解を成し遂げてくださいました。イエス・キリストは私たちを兄弟姉妹としてくださり、ゆえに、私たちは神様を「アバ父」と呼べる関係にもどしてくださったのです。

信仰に裏打ちされた祈りによって、イエス・キリストを通して、私たちは、いつでもどこでも、神様と霊的に交わることができるという特権をえ、天の御国にある平安と喜びを、この世で味わう、この世で満喫することができるようになったのです。

悔いた心とともに、信仰に裏打ちされた祈りこそ、私たちの神への捧げものなのです。

クリスマス、信仰に裏打ちされた祈りをささげましょう。

お祈りいたします。

主のいのり