ぶどうの木キリスト教会
礼拝シリーズ主題:『ヘブル人への手紙』
2020時年12月20日
礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り
礼拝:10:00
賛美: 新聖歌79「天には栄え」
使徒信条: 新聖歌p.826
賛美: 新聖歌82「牧人 羊を」
交読: 交読文13:詩篇第34篇:新聖歌p. 889-889
十戒: 末ページに記載
祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り
賛美: 新聖歌458「光の高地に」
聖書拝読:ヘブル人への手紙3章12節~19節(新改訳聖書)
中心聖句:
「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(14)
メッセージ主題:『最初の確信を終わりまで』
おはようございます、そしてお帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。
先週は、ヘブル人への手紙の第2章から、『救いの創始者であり完成者』と題しまして、神様からのメッセージをいただきました。この第2章では、イエス・キリストのみが、神様との和解をとりなし、人類の死への恐怖からの解放を成し遂げ、永遠のいのちへと導く方であることが唱えられています。この第2章を通して、救い主なるイエス・キリストの恵みについて思いをはせさせていただきました。
今朝は、ヘブル人への手紙の第3章から、『最初の確信を終わりまで』と題しまして、神様の御心に耳を傾けます。この第3章では、イエス・キリストにあって、神の安息にはいることが強調されています。不信仰が、信仰のゆるみが、イエス・キリストから離れ、神の安息に入れなくしてしまいます。ヘブル書を通しての、神の導きを学びたいと思います。
短くお祈りいたします。
今朝も寒いですね。雪国では、どか雪がふり、生活が脅かされる事態にもなっています。主のお守りがありますようにと祈ります。
さて、今朝はアドベント第4週です。いよいよクリスマス。私たちは、イエス・キリストがお生まれになった目的を、今一度、思い起こす必要があります。
12節では「あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気を付けなさい。」とあります。そして、その前に、ヘブルの著者は、モーセの民が荒野で試みにあわされた時に、神を信頼できず、不信仰に陥り、誰一人として、族長であるモーセでさえも、目的のカナンの地に入って安息を得ることができず、荒野で死に絶えたことを記しています。「悪い不信仰の心」とは、神を信頼できず、神を疑い、神を退ける心であります。
それは、私たち人類の父祖、アダムとその妻エバの犯した罪と同じであります。アダムとエバは、結果的に、神の戒めを守れず、知恵の木の実を食べてしまいました。それは誘惑にまけ、神の戒めを破った罪でもありますが、信仰に対する、心のゆるみでもあるのです。心のゆるみと不信仰と罪は、結局同じものなのであります。
この心のゆるみによって、生ける神から離れることとなり、神の安息に入れないことになるのです。もちろん、私たちの犯した罪は、悔い改め、神を神としてあがめることによって、赦されます。その罪の赦しのために、救い主イエス様はこの世にお生まれくださったのです。
しかし、心のゆるみは、私たちに罪の意識を感じさせないときがあるのです。心のゆるみは、罪に鈍感になり、イエス・キリストへの信仰から徐々に外れてしまうこともあるのです。そのことを危惧して、神は、ヘブル書13節を通して、「『きょう。』と言われている間に、日々お互いに励まし合って、だれも罪にまどわされてかたくなにならないようにしなさい。」と忠告するのです。
「きょう」と言われる間にとは、問題を明日に持ち越してはいけないということであり、毎日なにがしかの問題がでてくるのですから、先送りすることで、いくつかの問題、特に重大ではない、とるにたらない問題が解決しないまま、悔い改めないまま、忘れ去られていくのです。それが心のゆるみとなっていきます。
私たち人間は、忘れていきますが、神はすべてを覚えていらっしゃるのです。心のゆるみは、とても危ないのです。いつの間にか、不信仰となり、また神から、イエス・キリストから気持ちが離れることにもなりかねません。ですから、今朝の中心聖句のように、主は、ヘブル書を通して、「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」と励まします。では、ここでの「最初の確信」とは何でしょう。
私は、こう思うのであります。ヨハネの福音書3章16節の御言葉「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この御言葉が真実であり真理であり、この御言葉を中心とするイエス・キリストの福音を信じ、自らがイエス・キリストによって救われたという、救いの確信が与えられた。それが最初の確信であります。そして、そのイエス・キリストによる救いの確信を、この世を全うするまで、持ち続けなさいということであります。心のゆるみをなくしなさいというとこでもあります。
では、心のゆるみをなくし、信仰の確信を最後までしっかり保てばどうなるのでしょう。私たちは「キリストにあずかる者となる」と言われています。では、「キリストにあずかる者」とはどんな状態なのでしょうか。私たちが、キリストのもつものをすべて共有するということです。パウロはローマ書8章14節から17節で、次のように記しています。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊をうけたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
私たちは、イエス・キリストを通して、神の共同相続人となり、すべて受け継ぐことになるのです。なんと幸いなことでしょうか。しかし、それは今ではありません。私たちが、救いの確信を固く保ち、この世での命を全うする時です。ですから、心のゆるみからくる不信仰は危険なのです。
誰が、モーセの民の二の舞になりたいですか。「神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちではありませんか。」私は、私自身もそうですが、どなたもモーセの民の二の舞になってほしくはありません。私たちが、神の安息にはいるためには、信仰しかありません。信仰の前には、善行も良き行ないも意味をなしません。もちろん、善行も良き行ないも主から大いなる祝福を受けるでしょう。しかし、神の子どもとしての相続人となるためには、信仰以外はなにも必要ないのです。ゆえに、信仰は勝利です。
ヨハネは、ヨハネの第一の手紙で、次のように主張します。(5:1-5)
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。産んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
信仰こそが、世に勝つためのものであり、かつ、私たちが神の安息にはいるカギなのであります。
そのカギである信仰を、救いの確信を、私たちは、私たちの内にお住まいくださる聖霊様の助けによって、保たなければなりません。13節でもありましたが、「日々互いに励まし合って」、心のゆるみをなくすようにいたしましょう。
さて、天国長屋の八さん、熊さん、今朝のメッセージ『最初の確信を終わりまで』で、なにか感じられたこと、思わされたこと、示されたことはございませんか。
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八: 心のゆるみ、かあ。誰でもあるよなぁ、その心のゆるみってのがなけりゃ、なんか、こうぎくしゃくしちまうような気がしてよ。
熊: 八、それは、「心のゆるみ」っていうのを勘違いしてねぇか。牧師さんのいう、心のゆるみっていうのは、ピンとはりつめた心でいなさいってことじゃねぇよ。俺たちゃ、社会生活をふつうに暮らしていかないといけねぇ。その中で信仰を保たねぇといけねぇ。「心のゆるみ」を無くすというのは、なにも偽善者ぶるってことじゃねぇんだ。自然体でいいんだよ。
八: 熊、俺のことばが足りなかったかもな。「心のゆるみ」ってぇものはあるものだと思ってんだ。自然体でいたとしてもな。だから、「心のゆるみ」が、ねぇっていうのは、不自然だとおもうんだよな。
熊: そうか、そうだよな。俺たちが罪を犯したくないと思っても犯してしまうように、「心のゆるみ」も、生きているうちには仕方のないことだろうな。俺たちゃ、聖人君主じゃ、ねぇんだから。
八: だから、ヘブル書を書いた人は、「日々互いに励まし合いなさい」と言っているんだろうな。
熊: 俺たちゃ、交わりが必要なんだよな。楽しいだけの交わりじゃなくて、祈り合ったり、学び合ったり、それに、注意し合ったりすることも。
八: そうだよな。でもよ、今コロナ禍で、交わりができねぇな。
熊: だよな。ワイワイ騒ぐことはできねぇけど、祈り合うことはできるな。
八: そうよ。リモートでもできるしな。祈り合いをリモートでするっていうのは、まあ、コロナ禍にあっては、仕方のねぇことだ。
熊: リモートでもいいじゃねぇか。コロナに負けてどうする。集まれなければ、祈れねぇってぇのは、情けねぇや。礼拝だってそうさ。なんとか、ビデオ配信して、見てもらえばいいだよ。
八: まあ、リモートもできねぇ教会もあるから、いろいろ大変なんだよ。
熊: そりゃそうだ。でもやっぱり、なんとかして、祈らないとな。
八: おう、俺たちも祈ろうぜ。俺たちの心がゆるまないように、信仰がなくならないようにな。
熊: リモートか。
八: 何言ってんだよ。俺たちゃ、いっしょの長屋にすんでんだぜ。マスクだけで、いいんじゃねぇか。
熊: ちげぇねぇ。牧師さん、やっぱり、リモートでいいから、祈り合いしよう。お互いに、心がゆるまないようにな。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。八さんたちの言うとおり、コロナ禍であっても、何とかして、祈り会や他の交わりをもてる知恵を、神様からいただきましょう。信仰を保つ、心のゆるみをなくすようにするために。
さて、黙想いたしましょう。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇103篇をお読みいたします。
また、黙想の前に、ルカの福音書22章32節のイエス様のお言葉をお読みいたします。
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
(詩篇103篇)
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「最初の確信を終わりまで」と題しまして、あなた様への信仰が私たちを救うことを覚えさせていただきました。どうか、常にイエス様を思い、お互いに祈り合い、信仰をなおなお固くすることができますよう、お導きください。
私たちの主、救い主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。
賛美:新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」(献金の時)
献金の祈り
「主の祈り」(新聖歌p826)
頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」
祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
アーメン四唱:新聖歌59.7
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。