メッセージ:「熱い信仰」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

12月24日

担当:若竹孝行

メッセージ:「熱い信仰」

今朝の聖書通読箇所:ヨハネの黙示録1章〜3章

3章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:3:15-16

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」

黙示録3章14節から最後の22節まで、小アジア、今のトルコ周辺にある7つの教会のうちのひとつ、ラオディキアの教会へのメッセージが記されています。ラオディキアは7つの町の中で最も裕福な街で、銀行組織、羊毛の生産、目の軟膏を生産した医学校で知られていました。ラオデキアでは、温泉から町に水を引くために水道設備が整えられました。しかし、水が町に届くころには、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいだけだったということであります。

ヨハネはそのことを知っていて、ラオディキアの教会をぬるくてまずい水のようだと説いています。そのようななまぬるい、態度のはっきりしない教会は、イエス様の救いからもれることになると警告しています。それが、今朝の中心聖句15節16節であります。

では、なまぬるい信仰とはどんな信仰なのでしょうか。信者は無関心で怠惰になり、キリストのために何もしない、伝道も証しもしない。また、教会行事は行なっているという自己満足に陥り、例年通りの行事中心の教会活動、伝道には無関心か消極的で、教会行事という活動はしていますよ、一応伝道集会も行っていますよ、という自己満足。もしくは、日曜日の礼拝は行っているが、教会の外にでれば、クリスチャンであることを忘れてしまう。そして、次の日曜日、クリスチャンであることを思い出すために、礼拝に出席する。この繰り返しであります。また、牧師も牧師で、礼拝のメッセージさえしておけばいい。交わりなんて邪魔くさい。人との交わりより、聖書を読んでる方がいい。私は聖職者なのだから。引きこもり牧師であります。また、その逆もあって、交わり大好き、とくに食べて、信徒からちやほやされるのが大好き、しかし財布のひもは固い社交牧師。でも教会運営はうまくいっている。信徒に金持ちが多い。だから、これでいいんだと思ってしまう、信徒も牧師も。

ラオディキアは裕福な街で、ゆえに、教会も裕福。必要はすべて富裕層の献金で満たされていました。ラオディキアの教会は、目に見えるものの裕福さで、心の目はふさがれていました。目に見えない信仰や永遠のいのちに価値を見いだすことができなくなっていました。目に見えないものこそ、本当に価値のあるものなのですが、それに気付かないのは、まことに愚かでみじめであります。きらびやかな衣服を身につけていたとしても、実は裸なのであります。キリストはヨハネを通して、ラオディキアの教会のことを、17節で「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分っていない。」と嘆いています。

すべての人は分かっています。この世の富は、次の世には持っていけないことを。だれでも分かっています、目に見え、形あるものはいつか壊れてなくなってしまうことを。しかし、目に見えるものに頼ってしまうのが人間の常であります。

どれほどのものを所有しても、どれほど贅沢したとしても、いのちを保つのに必要なキリストとの関係がなければ、何ももっていないのと同じ、裸であるのと同じなのです。

キリストは、その裸であることの恥を隠すためには、白い着物を買う必要があるとおっしゃいます。その白い着物とはキリストであり、キリストを着る、キリストを心の底から信じ、自らを明け渡すということであります。

本当の豊かさを得るために、キリストから火で精錬された金を買う。金、つまり、本物の霊的な宝物、天の宝です。つまり、キリストである聖霊様をこころに宿すということです。聖霊様は、イエス様を信じた時点で、私たちの心におくだりくださいますから、結局、イエス・キリストを信じるということであります。

また、「目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」とは、心の目を開くということであって、イエス様のお言葉通りです。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」とヨハネ書に記されています。心の目を開くとは、イエス様を受け入れるということであります。

神様は、ヨハネを通して、ラオディキアが裕福となったこの世のものと、キリストを信じることを比較され、ラオディキアの教会の人たちを諭されました。

金や銀を中心とする銀行組織と、火で精錬された金であるイエス・キリスト。

羊毛生産と白い衣であるイエス・キリスト。

目の軟膏と心の目薬であるイエス・キリスト。

キリストは、ラオディキアの教会の人たちに、本当に大切なのは、神様との正しい交わりであり、それを成し遂げるために、キリストがお生まれ下さったことを示唆しているのであります。

キリストが、なまぬるい信仰を持つ者を叱ったり懲らしめたりするのは、その人たちを罰するためではありません。熱心になって、悔い改めて、永遠のいのちにあずかる、そして、キリストとともに神の共同相続人となるためであります。

キリストはいつも私たちの心の扉をたたいておられます。心の耳を傾けてください。あなたには、キリストの声が聞こえませんか。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛しているひとはわたしの父に愛され、わたしもそのひとを愛し、わたし自身をその人に現します。」(ヨハネ14:21)「だから、あなたは、心の扉をひらいて、わたしを招き入れてください。そして、わたしと共に永遠のいのちの勝利を得、天の父との親しい交わりに入りましょう。そして、共に父なる神をあがめましょう。」

今日は、クリスマス・イヴです。イエス様のご降誕をお祝いするクリスマス。

イエス様がお生まれになられたのは、自らのいのちによって、私たちの罪を帳消しにし、死を克服して、共に永遠のいのちにあずかるためだけではありません。共に父なる神をあがめ、キリストと神の共同相続人となるためであります。

今、あなたのさび付いている心の扉を、勇気をもって開いてください。主イエス様の愛にふれてください。なまくらな信仰を認めて、主に悔い改めましょう。活動中心ではなく、信仰中心の教会生活を送らせていただこうではありませんか。ヤコブは「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」と主張しました。しかし、そのヤコブの主張の根底には、『行いも信仰が伴わないなら、また口先だけではなく心からの祈りが伴わないなら、死んだものです。』という考えがあるのです。信仰は勝利です。しかし、生ぬるい信仰ではなく、熱い信仰が勝利なのです。共にイエスキリストにあって、勝利を味わうものとさせていただきましょう。

お祈りいたします。

主のいのり