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メッセージ主題:『必死の祈りは、神様への従順を育てる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヘブル人への手紙』

2021時年1月3日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌203「ああイエス君 こよなき友よ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌182「ただ信ぜよ」

交読: 交読文15:詩篇第40篇:新聖歌p. 890-891

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌137「聖なる、聖なる」

聖書拝読:ヘブル人への手紙5章1節~14節(新改訳聖書)

中心聖句:

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」(7-9)

メッセージ主題:『必死の祈りは、神様への従順を育てる』

明けましておめでとうございます、そしてお帰りなさい。

今日が2021年最初の主日礼拝であります。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、ヘブル人への手紙の第4章から、『大胆に恵みの御座に近づく』と題しまして、神様からのメッセージをいただきました。この第4章では、神の民の安息のことが第3章につづけて書かれています。キリスト者の願いは、神の安息に入ること、この一点であります。ヘブル書の著者はそのことを強調し、私たちを、共に恵みの御座に近づこうと励まします。先週は、その励ましを、素直に、受け入れさせていただきました。

今朝は、ヘブル人への手紙の第5章から、『必死の祈りは、神様への従順を育てる』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。この第5章では、偉大なる大祭司イエス様のことが記されています。イエス様は神様の御子として豊かであったはずなのに、私たちのために、肉体という弱さを身にまとい、人々を思いやることができる方であります。大祭司の役割は、私たちにかわって神様に仕えるということと、神様と私たちの間に立って、仲介者となるということであります。イエス・キリストは、もともとの弱さをもった人間の大祭司ではなく、わざと肉体という弱さをもった神の御子としての大祭司であります。今朝は、その大祭司であるイエス様のことを、そしてイエス様の従順を見つめてみたいと思います。

短くお祈りいたします。

7節で、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られたとあります。神様に向かって大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげたといえば、イエス様のゲッセマネの祈りであります。マタイにもルカにもありますが、マルコの福音書の14章32節から42節もあり、その中で36節のイエス様の神様への叫びを取り上げてみましょう。

「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

イエス様のおっしゃる杯とは、十字架のはりつけ刑を中心とした苦難であります。イエス様は、このゲッセマネの祈りの前に、エルサレムに向かわれる途中、道々、弟子たちに、次のように告げました。

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そしてあざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

イエス様はご自分に課せられている運命をご存じでありました。しかし、人間イエスとしては、その運命のすべてを受け入れることが、なかなかできなかったのではないでしょうか。割り切れないと言いますか。頭で分かっていても、気持ちがそれについていかない。ここに人間イエスがいらっしゃいます。すべてをお見通しということは、その苦痛もすべて分かるということです。もちろん三日目によみがえることも分かっているのです。しかし、いやな人間たちに引き渡されあざけり、ムチ打たれ、十字架にくぎ付けに、そのくぎがまた肉を裂く。想像を絶する痛みと屈辱のはずです。それを分かっていても、気持ちがついていかない。イエス様のゲッセマネの祈りは、同じようなことが3回繰り返されますが、祈っても祈っても、不安が取り除けない、そしてやっと3回目に頭と気持ちが一つになって、覚悟ができ、平安が訪れる。死を克服して、よみがえることが分かっていても、自ら死を選ぶ、それも痛い痛い思いをして、屈辱的に死んでいくなんて、なかなかできることではありません。

レベルは全く違いますが、私は高所恐怖症です。高いところが大の苦手。たとい命綱をつけたとしても、高いつり橋を渡るなんて、考えただけでぞっとします。安全が頭で分かっていたとしても、気持ちがついていかないので、足がすくんで、一歩で出ない。

皆さんもそんな経験ありませんか。人間の面をもつイエス様もきっとそうだったのではないでしょうか。私は、この度、イエス様のこの覚悟ができるまでの葛藤、あまりにもさらりと流してしまっていたのではないかと、反省しました。イエス様もこのゲッセマネの祈りは、格別だったと思うのです。これまで、イエス様が、父なる神様に対して、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげたという記述があったでしょうか。このゲッセマネの祈りによって、いろいろな意味での恐怖、例えば、死や痛み、侮蔑やあざけりからの恐怖、その恐怖にイエス様は打ち勝ったのであります。しかも、イエス様ですら、3回も同じような祈りをされて、恐怖や不安に打ち勝たれました。まして、人間である私たちは、あらゆる恐怖や不安に打ち勝つ、打ち勝たせていただくには、父なる神様に対して、何回も何回も、大きな叫び声と涙とをもって、必死の祈りと願いをささげなくてはいけないのではないでしょうか。

その必死の祈りを通して、そして実際の苦しみを通して、イエス様は神様に対して従順を学ばれました。それは、私たちに模範を示すためでもありました。私たちは、苦しみに打ち勝つために、苦しみを乗り越えるために、大きな叫び声と涙をともなうような、そんな必死の祈りをささげる必要があるのです。そして、その必死の祈りこそが、神様に対する従順を育てるのではないでしょうか。

私は、イエス様のゲッセマネの祈りの必死さを、あまりにも簡単に、通り過ぎてしまっていたような気がします。今回の神様からのメッセージで、神様への従順は、必死の祈りでしか育まれないのではないかと思わされました。今まで、本当に、必死に祈りをしてきたのか、なにも叫んだり涙を出す必然性はないとは思いますが、それでも、それに近いことをしてきているのかと、自らに問い直したしだいです。

さて、天国長屋の八さん、熊さんはいかがでしょうか。「必死の祈りは、神様への従順を育てる」このことをどう思われますか。

―――――

八: イエス様が同情して涙を流すことはあったとしても、神様への祈りで涙を流すっていうのは、このゲッセマネでの祈りでしかないのじゃないかな。

熊: おれも、他のところでは知らねえな。特に、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」というところは、よく説教でも聞くところだ。で、もって、俺たちも、「わたしの思いではなく、みこころのままに、なりますように」って、お祈りの最後に付け加えることが多いな。

八: だってよ。俺たちの思いや願いが、本当に神様のみ旨にそっているのかどうかなんて、わからねぇ時もある。いや、そっちの方が多いかも知らねぇ。

熊: ちげぇねぇ。俺たちの思いよりもはるかに超えたご計画をお持ちの神様だ。俺たちは俺たちのことしか考えていねぇけどよ、神様は、こう、高所からすべてをご覧になって計画されていらっしゃるから、俺たちよりもよく見えているはずだ。まあ、神様だからあたりめぇだけどな。

八: けどよ、イエス様は父なる神様のご計画、イエス様に対する目的をすべてご存じで、なおかつ、その運命を変えてほしいと願った。叫びと涙の祈りをもって、神様にお願いしたんだ。けれど、神様はご計画は変更されない。なぜなら、神様のご計画は絶対だからだ。

熊: イエス様は結局、神様のご計画に従うことになる。そこに至るまでには、いろいろと葛藤があったに違いねぇ。

八: 俺たちも、そうじゃねぇかな。まあ、イエス様と違って、神様のご計画は分かっちゃいねぇけどよ、自分の思いと神様のご計画が違っていれば、「はい、そうですか」って素直に従えるとは思えぇ。俺なんざぁ、神様に食い下がるだろうね。だって、そうしたいんだから。そこでいろいろとすったもんだがあって、結局、神様に従うことになるのさ。

熊: だったら、はじめっから従う方がいいのじゃねぇか。

八: かもしれねぇ、しかし、「従います」って言うのは簡単だけど、本音で従うためには、やっぱり、神様といろいろとせめぎ合いがあってこそ、本当の意味で、従うことができるんじゃねぇかな。

熊: 結局、従う、従順さっていうのは、すったもんだあってこその、結果かも知られねぇな。

八: イエス様が結局、納得したように、俺たちも100パーセント納得して、神様に従うことにしなければ、上辺だけの信仰になっちまうんだろうよ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。本当の意味で、神さまのご計画に従うためには、私たちはもっともっと、神様への真剣な祈り、必死の祈りをしなくてはいけないのでしょうね。それを経てこその、神様への完全な服従なのでしょうね。

さて、黙想いたしましょう。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇5篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マルコの福音書14章38節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

(詩篇5篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「必死の祈りは、神様への従順を育てる」と題しまして、イエス様がいかに必死に祈り、自分の思いと主のご計画をすり合わせ、主に従っていくかを学ばせていただきました。どうか、私たちが、祈りのなかで、私たち自身が、主の思いに寄り添うことができますよう、お導きください。

私たちの主、救い主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。