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メッセージ主題:『信仰と忍耐によって約束のものを相続する』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヘブル人への手紙』

2021時年1月10日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌199「主を仰ぎ見れば」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌201「イエスはわがいのち」

交読: 交読文16:詩篇第42篇:新聖歌p. 891-892

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌137「聖なる、聖なる」

聖書拝読:ヘブル人への手紙6章9節~20節(新改訳聖書)

中心聖句:

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。そこで私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」(10-12)

メッセージ主題:『信仰と忍耐によって約束のものを相続する』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、ヘブル人への手紙の第5章から、『必死の祈りは、神様への従順を育てる』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。この第5章では、偉大なる大祭司イエス様のことが記されています。イエス様は神様の御子として豊かであったはずなのに、私たちのために、肉体という弱さを身にまとい、人々を思いやることができる方であります。大祭司の役割は、私たちにかわって神様に仕えるということと、神様と私たちの間に立って、仲介者となるということであります。イエス・キリストは、もともとの弱さをもった人間の大祭司ではなく、わざと肉体という弱さをもった神の御子としての大祭司であります。先週は、その大祭司であるイエス様のことを、そしてイエス様の従順を見つめさせていただきました。

今朝は、ヘブル人への手紙の第6章から、『信仰と忍耐によって約束のものを相続する』と題しまして、神様からのメッセージを賜ります。この第6章では、神様の変わらざる約束がメインです。その神様の約束を今朝は黙想し、主に導いていただきたいと願っています。

短くお祈りいたします。

15節では、「アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」と記されています。アブラハムは、どんな忍耐をして、どんな約束のものを得たのでしょう。創世記には次のように記されています。「主がアブラムに現われ、そして、『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える』と仰せられた。」(12:7) ここには、二つの約束があります。アブラムに与えられる子孫とアブラムに与えられる土地であります。この時点では、アブラムは息子イサクを得ていませんでした。アブラムは、直系の跡取りが生まれないので、奴隷の子を跡取りにしようと考えていました。しかし、その時、主は仰せられました。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡をつがなければならない。」「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(15:4-5)そして、アブラムは、その主を信じ、主はそれを彼の義と認められました。そして、アブラムはアブラハムとなり、待ちに待って、忍耐の25年の末、アブラハムが百歳の時に、息子イサクが生まれます。主は、アブラハムへの二つの約束、子孫と土地を与えられました。

しかし、主は約束を果たされるのに、25年という忍耐をアブラハムに課しました。主の約束には、このように、私たちに忍耐が課せられることが多いのです。しかし、ただ単に忍耐を要求されるのではありません。アブラハムが、主を信じ、義と認められたように、信仰が伴わなければならないのです。いえ、信仰が伴わなければ、忍耐ができないのです。なぜなら、希望を持ち続けることによって、忍耐が可能になるのです。また希望は信仰という基盤がないと成り立たないのです。私たちクリスチャンの共通の希望であり究極の希望は、天にある永遠のいのちです。しかし、天にある永遠のいのちのほかに、個人個人によって、異なる希望があるはずです。

例えば、私は、ひとりひとりを大事にした、牧会をしたいと願っています。それが私の個人的な希望です。夢でもあるといえます。「もうすぐ65歳のおっさんがなにゆうてんねん」と言われるかもしれません。まあ、確かに、普通の会社だったら、定年退職している年でもあります。しかし、ヨエル書には、「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」(2:28)とあるように、私たちは常に、主にあって希望を持つことができるのであります。もう65歳なのか、まだ65歳なのか。気持ちの持ちようでもあります。そして、希望をもって、私は祈り待ち続けているのであります。もちろん、ぼーっと待ち続けているわけではありません。アブラハムを見てください。彼は25年間、だらだら待ち続けていたわけではありません。主を見上げながら歩んでいたのです。これが秘訣ではないでしょうか。

主を見上げつつ歩む信仰が基礎にあるからこそ、ローマ書の5章3節~5節の有名なみ言葉が成就するのです。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」「この希望は失望に終わることがありません」信仰に支えられた忍耐であり、信仰によって生まれる希望なのです。ですから、5節のつづきで、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあるように、神様の愛が私たちの心に注がれるとは、私たちが神様を見上げつつ歩ませていただいている証拠なのです。ポジティブな信仰こそが、希望である神様の約束を待ち望むことを可能にするのです。

私はここで、ポジティブな信仰と申しましたが、信仰は元来ポジティブなのです。では、私たちの信仰とは何でしょうか。ここで、信仰のことを少しおさらいさせていただきます。イエス・キリストを私たちの救い主と信じ、すべての罪、過去・現在・未来の罪はすべて、悔い改めた時点で、イエス様と共に十字架にかけられ、神の目からみて罪なきものとされているということです。すべての罪です。しかし、ひとつだけ赦されない罪がございます。それは、反キリストの罪です。キリストを信じ、聖霊様の内なる働きと、天の御国にある主の平安と喜びを知っているにも関わらず、キリストを否定する罪です。イエス様は、マルコの福音書3章28・29節で次のようにおっしゃいます。「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」「聖霊をけがす者」とは、すでに心の内にお住まいくださる聖霊様を否定することです。ですから、クリスチャンでありながら、キリストを否定し続ける罪です。反キリストの罪以外に赦されない罪はないのです。このことをしっかり覚えておいてほしいのです。このすべての罪の赦しに不安を感じれば、イエス・キリストの十字架は空しいことになります。ヨハネの第一の手紙には次のように記されています。「もし神が光の中におられるように、私たち(クリスチャンのことですが)私たちも光の中を歩んでいるなら(主を見上げる生活をしているなら)、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。、、、もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1:7&9)このことをしっかりと心に刻んでほしいのです。『わたしの罪は赦されないのではないか』という疑問を持つこと自体、悪の誘惑に陥る隙を与えているのです。

「罪を赦す」というのは神様のお約束でもあります。その約束を守るために、神のひとり子イエス様はこの世におくだりくださったのです。これは、全人類の共通のお約束でもあります。私たちからの、この神様のお約束に対するアプローチは、「イエス・キリストを自らの救い主と信じ受け入れる」ということだけです。善い行ないをすることが、それを積み重ねることが、神様のお約束へのアプローチではありません。

そして、神様との共通の約束は、すでに、聖霊様が私たちの心にお住まいくださることによって、実現されることは確実であります。しかし、個人との神様のお約束は、明確にはなっていません。神様のご計画は、ほとんど、私たちには知らされていないかもしれません。アブラハムになされた個人的な約束、民族的な約束は、特別だと思ってください。しかし、神様の私たちへのご計画は、必ずあって、私たちにとって、最も良いものなのです。そして、その約束が成就することによって、神様の栄光が現わされるのです。それを信じて、神様のご計画が私たちの内に現われますようにと、忍耐をもって、主を見上げつつ待ち続けることが大切であります。

さて、天国長屋の八さん、熊さんはいかがでしょうか。「信仰と忍耐によって約束のものを相続する」という神様からのメッセージをどう思われますか。

―――――

八: アブラハムは、子孫と土地が約束されてた、俺たちには、神様は何を約束されているのかね。

熊: 永遠のいのちのほかにだろ。そうだな、俺は、天の御国での平安と喜びを、この世で味わえるってことじゃねぇかなと思うんだ。聖霊様が俺たちの心にお住まいくださるっていうのは、そういうこっちゃねぇのかな。

八: ちげぇねぇ。俺たちには、いろんな夢がある。それは神様が約束されたものかもしらねぇ。けど、それは俺たちには分からねぇ。俺には何を約束してくださってんだろうねぇ。

熊: すべての夢が神様からの約束かどうかは分からねぇけどよ。少なくとも、夢を持たしてくれるってんだから、それも神様のお約束かもしらねぇな。

八: 俺たちゃ、俺たちの夢が、神様の約束だと信じて、その夢に向かって歩んでいくしかねぇのかもしらねぇな。違っててもいいじゃねぇか。神様は必ず俺たちに一番いい道を与えてくださるのだから。

熊: そうだよな、主を信じ、これが主の約束かもしらねぇと信じ、進んでいくしかねぇんだろうよ。その過程で、平安があって、喜んだりしていることが大事なんじゃねぇかな。

八: なるほどね。結果より、過程か。それもいい考え方だよね。その過程において、平安と喜びがあるのなら、いつも幸せでいられるってわけだ。

熊: 詩篇にこんな言葉があったなぁ。「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(73:28)常に神様を身近に感じ、神様とお話ししている、これ以上の幸せはないのじゃないだろうか。

八: だよね。日々の生活において、神様を俺たちの避け所し、神様を信頼する。

熊: 加山雄三も言ってたじゃねぇか。「幸せだなぁ、俺は君といる時が一番幸せなんだ」ってね。

八: ふるいねぇ。けど、そうだよな。俺たちは、神様といる時が一番幸せなんだって。

熊: だから、いつも神様のことを思っていないといけないんだよ。

八: 神様がいつも共におられる。これ以上の祝福はないのかもしれねぇな。

熊: 詩篇にもそのようなことが書いてあったよな。(たしか、41篇)

   「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

    わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」

八: 牧師さん、こんなところでいいですかい。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。結果より、過程ですか。そうかもしれませんね。アブラハムの忍耐の25年間。しかし、それは、主により頼んだ幸せなる25年間だったのかもしれませんね。私たちは、いつも主を思い、主を見上げて歩ませていただくことで、主が伴われ、それによって、主の平安と喜びを味わうことができ、それも神様の約束であります。

さて、黙想いたしましょう。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇84篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、ルカの福音書7章23節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

(詩篇84篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。今朝は「信仰と忍耐によって約束のものを相続する」と題しまして、約束されている天の御国での永遠のいのちと、主の平安と喜び、そして個人個人に約束されているものを、信仰をもって忍耐強く、主を見上げつつ待ち望むことを学ばしていただきました。感謝いたします。どうか、私たちが、主がいつも伴われることを確信し、歩み続けることができますよう、お導きください。

私たちの主、救い主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。