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メッセージ:『イエスを捜し求めよう』

2021.1.24主日礼拝メッセージ

メッセージ:『イエスを捜し求めよう』

聖書箇所:ルカの福音書2章45節

「見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

12月にも寄せていただきましたが、また1月もこのように皆様の元気なお顔を拝することができますことを心から感謝し、喜んでおります。世間では、コロナ、クロナとうるさいですが、こちらはクルナではなくて、大阪からでもコイ、コイとおっしゃってくださいますから、ありがとうございます。

さて、もうすぐ、節分でございますが、今年はなんと2月3日ではなくて、2月2日。節分が2月2日になるのは、1897年明治30年以来ということでありますから、124年ぶりでございます。この前の2月2日の節分、知ってるよっていう御仁がいらっしゃれば、長寿番付にのります。昔は、年の数だけ豆を食べたということでございますから、124個も食べないといけないとなると、胃が持たれますなぁ。節分といやぁ、「豆まき」でございます。「鬼は外、福は内」と威勢よく疫病神を厄介払いするわけでございます。今でしたら、「コロナ外」となるのかも知れませんが、クリスチャンの私たちは「コロナ外、イエス内」とやってみたいものでございます。余計なことをしゃべってしまいましたが、節分だけに「豆知識」でした。

「コロナ外、イエス内」で思い出しましたが、はるか昔、モーセの時代にも、次のようなことがございました。

モーセの民がまだエジプトにいて、さあ、エジプトを出ていくという時のことでございます。今、このコロナ禍で起こっているようなことがあったのでございます。

出エジプト記12章12節から13節のところでは、疫病のような恐怖がエジプトをおおったことが記されております。

「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」

ここでいう血とは、子羊ややぎの血であり、その血をユダヤ人の家々の二本の門柱と鴨居にぬったのであります。

エジプトに住むモーセの民であるユダヤ人たちは、声を潜めて、疫病のように音もなく忍び寄る神の怒りが通り過ぎ去ることを祈り、一夜を過ごしたのであります。もちろん、恐ろしかったに違いありません。しかし、夜が明けるとともに、死を免れたという安堵とともに、神への信仰が強くされ、感謝とともに、エジプトを脱出できるという希望がもてた、いや、もて始めたのであります。

今、私たちは、コロナの恐怖におびえております。怯えることが悪いと言っているのではございません。コロナ禍をやり過ごすことは、クリスチャンであろうがなかろうが、大切なことです。しかし、このコロナ禍にあって、モーセの民が一晩中祈りをもって恐怖と戦っていたように、祈りをもって、神に信頼し、コロナをやり過ごす必要があるのではないでしょうか。モーセの民が門柱や鴨居に塗った子羊の血は、今の私たちにとっては、イエス・キリストの血であります。私たちの体にはイエス・キリストの血が塗られ、心に聖霊が送り込まれ、神の怒りは私たちを過ぎ越していきます。そして、明けない夜はなく、夜明けには、死ではなく、救いの希望が待っています。「コロナ外、イエス内」でございます。

モーセの民がエジプトを出ていくことが可能になった、この神の怒りの出来事。これを記念して、ユダヤでは、「過越の祭り」というものを毎年行っております。

さて、今朝の聖書の箇所は、イエスの両親であるヨセフとマリヤが、毎年恒例になっていました、「過越の祭りにはエルサレムに上京する」というくだりでございます。

長いなが~い、まくらにお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

やっと本題に入っていきます。

(パチン)

マリヤ: ねぇねぇ、ヨセフさん、今年の過越しの祭りには、イエスを連れて行きましょうよ。

ヨセフ: そうだな。イエスも12歳だ。来年は「バル・ミツバ」13歳の成人式だからな。ちょうどいいだろう。よし、連れて行ってやろう。

マリヤ: あの子もはじめてのエルサレム。お祭りでごったがえしているから、都では、ちゃ~んと手をつないでおいてくださいね。私は荷物をもっていますから。

ヨセフ: ああ、分かってるよ。

目新しいものでいっぱいだから、興味津々だろうよ、イエスも。

(パチン)

という会話があったかどうかは知りませんが、彼らは都エルサレムに向かいます。エルサレムに行くのに4・5日、祭りの期間は1週間、帰りも4・5日、約15日前後の旅でございます。親戚や近所の人たちが長い行列を作って、エルサレムに参ります。エルサレムでの祭りも楽しいものでございますが、エルサレムまでの道のりもいろいろと道行く人たちと他愛もない話なんかもしたりして愉快なものでございます。

(パチン)

婦人:  ぼく、お名前はなんていうの?

イエス: イエスといいます。

婦人:  あらまあ、お行儀いいねぇ。うちの息子とはえらい違いだ。いくつになるの?

イエス: 12歳です。

婦人:  じゃあ、来年、バル・ミツバだね。でも、しっかりしている。

 しっかりしているから、おばちゃん、ご褒美あげるよ。

この乾燥イチジク食べるかい。

イエス: はい、いただきます。ありがとうございます。おばさんはどこからですか。

婦人:  あたしゃ、カナからさ。仲人や結婚式のお世話をしてんの。

イエスとか言ったね、ぼくは、どこからだい。

イエス: 宿場町のナザレです。

婦人:  あそこも、住みやすい町だね。ところで、お父さんとお母さんは?

イエス: 後ろで、親戚のおじさん・おばさんたちと話しています。

婦人:  あんたみたいなりっぱな子をさずかったんだから、さぞかし鼻高々だろうね。

 うちの子供に、あんたの爪の垢でも煎じて、のませてあげたいぐらいだよ。

 ところで、ぼく、いいなずけはいるのかい。

(パチン)

どこにでも、お節介焼きのご婦人はいらっしゃるようです。このような会話があったかなかったか、想像の域をでませんが、まあ、楽しい旅だったにちがいございません。なにせ、目的のエルサレムでは、祭りでにぎやかでございます。まるで、日本のお祭りのように屋台なんかがでたりしております。エルサレムの町は、ユダヤ人ばかりではございません。外国の商人たちも寄留しておりまして、外国人の墓地までございました。宗教的な巡礼とはいえ、お祭りでございますから、外国の商人たちが屋台をだしているところもございます。

(パチン)

団子屋: いらっしゃい、らっしゃい。そこのお若いの、みたらしなんかどうだい。

 ええぇ、おいしいよ。

イエス: お父さん、みたらしって言ってるけどどんな味。

父:   そうか、お前みたらし、食べたことなかったなぁ。あのおじさんが焼いている串団子があるだろ。そうそう、それだ。団子屋、これ一本もらうよ。これを、この壺ん中にいれて、タレをよく絡ませるんだ。こういうふうにな。そうして、これをこう、、、口にほおばるんだ。うめぇぞ。

イエス: お父さん、ずるいよ、じぶんばっかり。ぼくもやっていい。

父:   いいよ、やってごらんな。そうそう、そうそうそう。

 どうだ、うめぇだろ!

イエス: おいしいねぇ、このタレがいい。もういっぺんつけてみよ。

団子屋: お客さん、だめだめ。二度付けはご法度だよ。油断もスキもあったもんじゃねぇな。

父:   わるいな。団子屋。こいつは、はじめてエルサレムの祭りにやってきたんだ。

 なんもしらねぇんだよ。ゆるしておくれ。お代はここにおいとくぜ。

(パチン)

なぜか、ヨセフはきゅうに江戸弁になっておりますが、そこも想像力を豊かにしておいてください。通りを過ぎますと、正面に神殿がございます。大きな箱がボーンって、乗ったような感じでございまして、階段で上り下りをしないといけません。階段を上りますてぇと、神殿の庭にでます。そこでは、神殿に捧げる動物や穀物なども売っているわけでございます。

(パチン)

イエス: お父さん、あっちでハトが売っているけど、あのハトはどうするの?

父:   ああ、あれかい。神様への捧げものだな。

イエス: あのハト、宮の外で売ったらいいんじゃない?

わざわざ、宮の中で売り買いしなくてもさ?

父:   ここまで来るのに階段があっただろ?

ささげるための動物たちをここまで持ってくるのは大変なんだ、

それに、あのハト売りは、祭司たちに場所代を払ってんだよ。

ここは宮の一等地だからな。いい稼ぎになるんだよ。

 ほら、あっちにゃ、両替商が店をひろげてる。

イエス: 両替って、ローマ貨幣じゃ、宮に納められないの?

父:   宮に納めるのは、シュケル貨幣だ。ローマ貨幣は使えねぇんだよ、ここでは。

イエス: じゃあ、あの両替商の人たちからも場所代とってるの、祭司たちは。

父:   シーッ、声がでかいよ、イエス。大きな声じゃ言えねぇけどな、

 祭司たちは、ガッポガッポさ、懐具合はいいってわけよ。

イエス: ふーん、祭司のしごとも儲かるんだね。

(ジャラジャラリーン)

イエス: あれ、あっちでなんか大きな音がした。

父:   ああ、あれは、金持ちが、献金箱にお金をいれてんだよ。

 ああやってな、わざと大きな音を立てて、

「私はこんなたくさんの献金してますよ」って自慢してんだな。

イエスはあんな嫌味なことをしてはいけないんだぜ。

イエス: 分かってるよ、お父さん。

うち貧乏だからあんなたくさんの献金はできないけどね。

でも、献金は、金額じゃ、なくって、悔いた心だろ。

天のお父様は、献金する人の心を見られるんだろ。

父:  おお、分かってるじゃねぇか。大人になったなぁ。

で、誰に教えてもらったんだい、横丁のご隠居、あの横谷さんかい。

イエス: ちがうよ、天のお父様さ!

(パチン)

楽しい過越しの祭りも終わり、ナザレからきた一団は、帰り支度をして、家路につきます。来た時よりも、なが~い行列を作っております。エルサレム土産なんぞも買っておりますから、とくにご婦人たちはいろいろと話がつきません。

(パチン)

婦人A:  ちょいと、ちょいと、エルサレムの都には、

新しいファッションがはいってたね。

婦人B: お春さん、めざといねぇ。

ひょっとして、「ファッションだんじり」っておみせかい。

婦人A: あら、やだ。お夏ちゃんも。あそこの赤の紋が入った黒のベール。

 一目で気にいっちゃった、あたしゃ3枚買っちまったよ。

婦人B: 3枚、お春さんにしたら、控えめだね。あたしゃ、その3倍の9枚さ。

婦人A: 9枚? 9枚も買ってどうすんのさ。

婦人B: あたしんちは、旅籠やってるだろ。従業員のユニフォームにしようと思ってね。

婦人A: ところで、さっきからマリヤさん、きょろきょろきょろきょろしているけど

 どうしたんだろうね。

婦人B: ああ、マリヤさんちの息子さん、見当たらないんだってさ。

婦人A: ここは、ナザレ人たちの行列だから、どこかにいるんじゃないかい。

婦人B: 行列の先頭はずーっと、ずーっと前だから、、、、あら、やだ。

先頭の旅案内人の旗もちの人も見えないよ。あの明るい人。

婦人A: 今夜の宿の手配をしてるのかもね。ご苦労さんなこった。

(パチン)

のんきにぶらり旅を楽しんでいるご婦人たちとはちがって、ヨセフとマリヤは血相を変えてイエスを捜しております。エルサレムを出発して一日が過ぎたころでございました。

(パチン)

マリヤ: ヨセフさん、見つかった?

ヨセフ: いや、先頭のほうにはいなかった。マリヤはどうだった。

マリヤ: 後ろのほうにもいなかったよ。どうしちまったのかね。

ヨセフ: しかたがねぇ、エルサレムへ戻る道で、いろいろと尋ねてみよう。

マリヤ: 人さらいや、ご先祖さんのヨセフのように、奴隷に売られちまったら大変だよ。

ヨセフ: マリヤ、泣くんじゃない。それよか、Back to エルサレムだ。

(パチン)

そして、捜し捜して、三日の後、とうとうエルサレムの町まで戻ってきてしまいました。町は過越の祭りが終わり、しずかな日常へと戻っておりました。下町にも上町にも、イエスはいません。最後の頼みとして、まさかとは思いつつ、神殿を駆け上がっていきます。するとどうでしょう、庭には人だかりがありまして、イエスが教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしているではありませんか。そして、話を聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いておりました。

ヨセフとマリヤは、その様子をみて驚き、近寄っていきました。

(パチン)

マリヤ: イエス、(てなねき)イエス、ちょっとこっちにいらっしゃい。(てまねき)

 いいから、はやく、こっちにいらっしゃい。

 (みんなの方をむいて)すみませんねぇ、みなさん。お騒がせして。

 イエス、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。

 父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのですよ。

イエス: お母さん、どうしてわたしをお捜しになったのですか。

 わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。

マリヤ: 父の家ってなんだい、どういうことだい。ここは神殿だよ。

 もう、わたしは、あなたが人さらいにあったか、

それとも、死んでんじゃないかと、心配で心配で。

生きた心地がしなかったんだからね。

(パチン)

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられました。母マリヤはこれらのことを、みな、心にとめておいたそうです。めでたし、めでたし、でございます。

いえいえ、めでたちめでたしで、終わってしまってはいけません。

ヨセフとマリヤは、息子イエスを捜しました。それは、彼らがイエスを必要と思ったからではなく、子どもが両親を求めて泣いているのではないか。親と離れて心細く思っているのではないか。そのように心配したからであります。イエスには助けが必要だと思ったからであります。実際、迷子はそのような状態にあります。

ちょっと、目線をそらしてみましょう。今日本では、クリスチャン人口は全人口の1パーセントにも満たない状態です。そして、ある統計から、30年後には、今の教会の数は3分の1に減少するだろうともいわれています。私たち、クリスチャンは、牧師も信徒も、キリスト教を支え、助けようと一生懸命です。かつての昭和時代の栄光を再びとリバイバルを祈っています。あたかも、イエス様には、私たちの助けが必要だ、私たちが福音を伝え、教会を支え、信徒を増やさなくてはいけない。キリスト教を支えるために、イエス・キリストを支えるために。

私たちは、見当違いをしていませんでしょうか。私たちが頑張らなければ、教会を支えられなくなる。リバイバルを起こして、クリスチャン人口を増やさなければならない。

私たちがしなければならないことは、本気になってイエス様を見つけだそうとすることではないでしょうか。私たちの心に、イエス様はいつもいるでしょうか。いえ、イエス様は、私たちの心に、いつもいらっしゃいます。しかし、私たちが迷子なのです。イエス様はいつもの場所にいらっしゃるのに、天のお父様のところにいらっしゃるのに、私たちが、そのところに戻っていないのです。

イエス様はおっしゃいます。「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」

主はこう仰せられます。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:12-13)

主は、エレミヤを通して、バビロン捕囚のイスラエルの民たちに、真の神への信仰を貫くことの励ましを告げるのであります。

『異国の地、バビロンには、わたしの神殿はない。しかし、あなたがたがいるところで、あなたがたが生活しているところで、日ごとの祈りをささげ、わたしをいつも思うなら、わたしはあなたと共にいることになる』

また、主はヨシュアを励ました時のように、私たちをも励まされます。

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)

イエス様を捜し求めましょう。主が私たちを必要となさるからではなく、私たちが主を必要とするから。

イエス様を捜し求めましょう。イエス様なしには、神様を、また神様の恵みを、そして、永遠の救いを、天の御国での平安と喜びを失うからです。

イエス様を捜し求めましょう。イエス様こそ、私たちの過去・現在・未来の罪を赦し、神様と私たちの間をとりもち、神様との和解を成立させてくださるから。

イエス様を捜し求めましょう。イエス様が、私たちの心を新しく生まれ変わらせてくださる唯一の方であるから。

お祈りいたします。

イエス様、あなたさまが、まず、私たちを捜し出してくださいましたから、心から感謝いたします。イエス様はつねに天の父なる神さまの御許にいらっしゃるにもかかわらず、私たちは、不安になって、あちこちをうろうろしてしまいます。どうか私たちが常にあなた様を捜し得ることができますように、また、まず私たちがイエス様を捜し求め、イエス様の平安を得て、キリストのかおりを放つ者とさせてください。教会のリバイバルや伝道のことも大切ですが、まず、私たちがイエス様の変わらぬ愛をえて、喜びに満たされますように。その後のことは、主のご計画が現わされますから、感謝いたします。主イエス様の御名により、お祈りいたします。アーメン。