メッセージ:「失うもののない神の恵み」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

1月14日

担当:若竹孝行

メッセージ:「失うもののない神の恵み」(7分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:創世記40章〜42章

42章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:42:35

「それから彼らが自分たちの袋を空けると、見よ、一人ひとりの銀の包みが自分の袋の中にあった。彼らも父も、この銀の包みを見て恐れた。」

これは、ヨセフを通しての神の憐みであります。神の救いは、私たちが期待する以上のものであるというよい例であります。ヨセフの兄弟たちは、食料を求めてエジプトにやってきました。兄弟たちとの再会は、ヨセフにとって喜びのあまり、うれし泣きとなって表現されています。しかし、ヨセフは心を鬼にして、ヨセフの弟ベニヤミンを連れてくるように伝えます。彼らが持ってきた銀で買える食料をもたせ、そしてその袋に彼らの銀を忍び込ませ、帰りの道中の食料も持たせて、父ヤコブのもとに送り返します。

彼らは、もってきた銀で食料を買うことになったにも関わらず、銀は戻ってきた。何ひとつ損なうことなく、ただ恵みを受ける。それは、イエス・キリストの恵みそのものであります。イエス・キリストを信じた時点で、私たちは何も失うものはありません。しかし、信じたことによって、私たちの過去・現在・未来の罪を帳消しにしてくださり、それだけではなく、聖霊様が降りて私たちの心に住まれ、天の御国での平安と喜びを、この地上で味わうことのできる者とされ、最終的に、天での永遠のいのちにあずかれるのであります。

天のお父様がお喜びになるのは、私たちの悔いた心です。詩篇には次のようにあります。「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」(51:17)天の御国での神のすべてを相続できるのは、イエス様であり、そのイエス様を信じる私たちも、イエス様にあっての、御国の共同相続人とされるのです。私たちは、何も失うものはなく、かえって恵みに恵みが加わって、イエス様によって、豊かにされるのであります。パウロも次のように記しています。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)私たちは、何も失うものはなく、しかしかえって豊かにされるのです。これがイエス・キリストの福音です。

イエス様は、天のお父様のことを次のような譬えで示されました。有名な放蕩息子のたとえ話です。ルカの福音書15章11節~31節です。親から生前財産分与をしたお金で放蕩三昧。一文無しになって、父のもとに帰ろうと決心して戻っていきます。その時の父親の態度はどうだったでしょうか。父親はしもべたちに言います。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」これが、神様の愛です。憐みです。この譬えでは、息子は無一文同然でした。私たちも同じです。天のお父様のもとに帰るのに、この世の宝は無意味であります。この世の宝がなくても、いえ、ないからこそ、天のお父様への悔い改め、悔いた心で、天のお父様は喜ばれ、大宴会をひらいてくださるのです。

創世記42章のヨセフの行動も、天のお父様の導きなのです。私たちは、この世の宝を少しはもっているかもしれません。しかし、それは神様にとっては、意味のないものなのです。それよりも、あなたの砕かれた心を神様は見られ、喜ばれるのであります。そして、日々のかてを私たちにくださいます、平安と喜びと共に。その日々の糧は、聖書のみ言葉です、祈りであり黙想であり感謝です。それらの恵みを味わいましょう。イエス・キリストの恵みは、あなたの持っているものを損なうことなく、あなたに豊かに降り注がれるのですから。

お祈りいたします。

主のいのり