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15分メッセージ:『イエスとその救いを認める者とされ』

大阪朝祷会2021.1.25

15分メッセージ:『イエスとその救いを認める者とされ』

 

聖書:マタイによる福音書2章11節(新共同訳)

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

 

おはようございます。そして、みなさん、お帰りなさい。

1か月前は、12月25日クリスマスでした。

12月21日はクリスマスメッセージとして、マリアの賛歌を中心に主のメッセージを取りつがさせていただきました。そして、クリスマスから約1か月、今朝のところは、クリスマスの劇でもよく出て来るところでございます。三人と東方の博士が登場し、それぞれに、黄金、乳香、没薬を贈り物として、みどり児イエスの前にささげる場面であります。

 

東方の博士とは、占星術の学者さんたちであります。この占星術の三人の学者たちは、いえ、三人とは限りません、人数は書いてありませんから。黄金、乳香、没薬を贈り物としたので、一つずつイエス様に差し上げれば、劇としては恰好がいいので、三人の配役をたてているだけです。まあ、人数はともかくとして、その占星術の学者さんたちは、東方で見た星に導かれて、幼子イエス様のもとにたどり着きました。彼らは「ひれ伏して拝んだ」とあります。赤ちゃんをひれ伏して拝んだのであります。イエス様が何かをしたわけではありません。また、両親が高名な方でもありません。彼らは、幼子に神性を見たのであります、神の業と権威を見たのであります。異教の学者たちがです。

 

幼子イエス様を伏し拝んだ占星術の博士たちは、悟ったのではないでしょうか。目の前にいる小さな命が、すべての宗教の垣根を越えて、人類を救いに導くことを。彼らが崇拝する星が、彼らを幼子に導いたのであります。学者たちは認めざるを得ませんでした。この幼子が、われわれの救いとなることを。

 

後にペテロが、主イエス様のことを「あなたは、メシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白しました。メシアとは、「選ばれた者、油注がれた者」のことで、特別な職務につく人のことです。メシアだけなら、神と人間の間をとりもつ祭司職もそうです。しかし、使徒ペテロは、「生ける神の子」であると付け加え、神の子が、神と人間の間をとりもつ、救い主である、イエス様はその方であると認めました。しかし、ペテロは人間的な知恵によって、イエス様を生ける神の子と認めたわけではありません。使徒パウロはコリント人第一の手紙のなかで、次のように述べています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(12:3)つまり、ペテロが「イエスは生ける神の子である」と言い得たのは、聖霊の働きに他なりません。ですから、イエス様もペテロに答えられました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)

イエス様は神のみもとからこの世界に来られたということを私たちが認めようとするとき、聖霊が私たちに働いて、私たちの心を動かされるのです。

 

そして、幼子イエス様を伏し拝んだ占星術の博士たちにも、聖霊が望んで、彼らに、イエス様に神性があることを認めるように、目を開かれたのです。おそらく、聖霊が働かなければ、博士たちは、自分の知識ゆえに、目の前にいる、貧しい夫婦の、飼い葉おけに寝ている赤子を、天地の創造主なる神が地上にお降りくださって、その幼子にお宿りになっているとは、思えなかったでしょう。彼らの知性が、それを認めることを抵抗し邪魔したでしょう。しかし、事実は、彼らの知性を裏切る形で、彼らは幼子イエス様をひれ伏して拝んだのであります。神のご臨在の前では、人間の知性は、沈黙せざるをえないのです。

 

信仰の父である、アブラハムがまだアブラムの時、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)神はこの時、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」(15:5)と子孫繁栄を約束されました。その時、アブラムは主を恐れていました、つまりアブラムはひれ伏していたのです。また、アブラムが99歳の時、主はアブラムに現われて言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(17:1-2)その時、アブラムはひれ伏した、とあります。創造主である神のご臨在の前では、創造物である私たちは、ひれ伏すしかないのであります。

 

外見は単なる人間の可愛らしい赤ちゃんであったイエス様には、占星術の博士たちが、ひれ伏さざるしかない、真の神の神性、威厳が秘められていたのです。そして、神のご臨在の前では、自分たちが少数派であるとか、仲間の笑い種になっているとか、地位や権力や富があるとかないとか、そんなことは吹き飛んでしまうのです。

 

東方の博士たちは、その幼子に神性を見いだしただけではなく、自分たちの宝物を差し出しました。黄金、乳香、没薬です。この貢物には隠れた意味があると注解者たちは言います。キリストの三つの職務です。黄金は主の王たること、乳香は主の祭司職たること、そして、没薬は預言者を表していると言われます。確かにそうかも知れません。しかし、私はもう少し単純に考えたいのです。これらの貢物は彼らにとっては最高の宝物であったにちがいありません。神の臨在にふれ、東方の博士たちは最高の物をささげました。

 

では、私たちはどうでしょう。私たちにとって、最高のものをイエス様におささげしているでしょうか。詩篇は、次のように言います。

「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物がみ旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(51:18-19)

神様の喜ばれるのは、私たちの打ち砕かれ悔いる心であります。つまりは、主を礼拝するときの謙遜と感謝、それが私たちの献げものとなります。逆に言えば、私たちの宝は、主とまゆえる時の謙遜と感謝であるともいえるでしょう。

 

イエス様はおっしゃいます。「富は、天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ。」(マタイ10:20-21)まさしく、私たちの神を思う心が宝物なのであります。ゆえに、パウロは、次のように諭します。「私の福音の言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(新改訳2テモテ2:8)イエス・キリストを思い、神を見上げるその信仰こそ、私たちの永遠のいのちへとつなぐ宝であり、神が喜ばれることなのです。

 

今、コロナ禍にあって、礼拝に出席し交わりをするということが難しくなっていますが、主がお喜びになるのは、教会という礼拝の形式ではありません。個人個人が主にまみえ、御前にひれ伏し、謙遜と感謝によって主をあがめること、主を見上げ、主を思うこと。それが礼拝の心であり、主への献げものであり、私たちの天に積む宝ともなるのです。

 

一人一人の真摯なる、へりくだった、神への礼拝。イエス・キリストを救い主とみとめ、イエス・キリストに、私たちの砕かれた心をおささげいたしましょう。そして、イエス・キリストに喜んでいただきましょう。

 

お祈りいたします。