メッセージ:「親しき中にも礼をつくし、真摯に祈る」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

1月28日

担当:若竹孝行

メッセージ:「親しき中にも礼をつくし、真摯に祈る」(7分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:出エジプト記31章〜33章

33章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:33:11

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

この31章から33章までは、十戒が神の指でかかれた石の板のことが記されています。十戒自体は、20章に記されていますが、そこから31章までは、その十戒にまつわる細則や説明、そして幕屋のことが記され、モーセがシナイ山から十戒の石板を持って降りて帰った時、民たちは、金の子牛を作り、その偶像を拝むという、神の最も嫌うことをしているのを目の当たりにして、モーセは、その十戒の石板を投げ捨てて、山のふもとで粉々に砕いてしまいました。そして、モーセは、神の逆鱗(げきりん)に触れた民を成敗せよと、レビ族に命じます。はたして、彼らは約三千人を倒しました。

翌朝、モーセは、残りの民のために、とりなしの命の嘆願をしに、再び、主の山シナイ山に上って行きます。32章31節から33章5節まで、そのことが記されています。その後、モーセは、民の宿営から離れたところに会見の天幕をはり、民からの主への願いを取り次いでいました。モーセが天幕に入った時は、誰一人として、近づかず、自分の天幕の入り口まで戻って、そこで伏し拝んでいたとあります。つまり、モーセが会見の幕屋に入って、神と語るときには、誰もじゃまをしない、一対一の神との交わりがそこにあります。

モーセがこの会見の幕屋で、神と語り合っているさまは、今日の中心聖句に現されています。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」この短い表現の中に、私たちの静まりの時、神様との語らいの時、交わり時の重要な要素が記されています。

一つは、「主は、人が自分の友と語るように語る」ということです。友は、並列的に、同じ目線で語ります。しかし、主が民に語るとき、結構、命令口調が多いような気がします。少なくとも、民はそのように感じるはずです。なぜなら、民は神の神性を感じ、神を畏れ、ひれ伏しているからであります。しかし、モーセが幕屋で主と交わる時は、主はモーセと友のように語るのであります。主はあえて、自らを低くし、モーセを友のように扱い、モーセの心にあるものを、主に吐き出し、モーセの心を確かめるのでしょう。しかし、神とモーセが友のように、親しくしたとしても、神に対する礼を忘れてはいません。節度をもって接しているはずです。私たちも神に対して親しく何でも話せますが、節度を保つことを忘れてはいけません。もちろん、イエス様は私たちを友と呼んでくださいます。「わたしが命じることを行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのかしらないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことすべて、あなたがたには知らせたからです。」(ヨハネ15:14-15)イエス様が私たちを友とよんでくださるのは、私たちがイエス様の命令を守り行なうからであります。イエス様の命令とは、12節にありますように『イエス様が私たちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う』ということです。イエス様がなさったように、私たち自身が互いに愛し合うことをする、また、しようとしなければ、イエス様にとって、私たちは友ではないのです。しかし、イエス様の場合でも、イエス様に対する節度を忘れてはいけません。

もう一つは、「顔と顔を合わせて語る」ということです。「顔と顔を合わせる」とは、目線をはずさないということであり、語る方も聞く方も真剣であることが要求されます。もちろん、神様の顔を見るということは不可能であります。なぜなら、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と主はおっしゃるからです。(33:20) モーセと言えども同じことです。「顔を顔を合わせて」とは、実際的な顔と顔や目と目を合わせてというのでもなく、「まじめに」とか「真剣に」とかという意味の表現であります。また、「噓偽りなく正直に」という意味も含まれるかも知れません。

モーセの時の会見の幕屋とは、今の私たちには、ディボーションの時であるでしょう。私たちの黙想や静まりの時も、誰にも邪魔されないところを選びたいものです。神は私たちの願いや祈りを、友のように耳を傾け、また友のように、語ってくださいます。しかし、私たちは、礼を失することがあってはならないと、私などは思うわけであります。そして、私たちの願いや祈りは、嘘偽りのものではなく、正直で、真剣に、誠心誠意、心を込めたものでなくてはいけません。では、日々の私たちのディボーションは、そのようになっているでしょうか、願いや祈りをするときに、主に対して真剣に、かつ心からの祈りをささげているでしょうか。時として、なおざりになっていないでしょうか。ディボーションという幕屋に、真摯に向き合おうではありませんか。

そして、イエスキリストを信じる私たちはすでに神の宮であるとするならば、幕屋は私たちの心であり私たちは常に主とまみえていることになります。ディボーションは大切です。しかし、常に私たちが、幕屋の中で、聖霊様を通して、主とまみえ、主を声に耳を傾け、主に切実に願いをささげ、感謝の喜びに満たされるとするならば、私たちは常に主を思うことができるのです。どうか、そのことも忘れないでいてほしいのです。常に神の臨在を感じ、私たちはキリストの香りを放つ者であり続けることができるのであります。ハレルヤ。主に感謝いたしましょう。

お祈りいたします。

主のいのり