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メッセージ主題:『さらにすぐれた新しい契約の仲介者』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヘブル人への手紙』

2021時年1月31日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌220「恵みの光は」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」

交読: 交読文18:詩篇第50篇:新聖歌p. 892-893

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌458「光の高地に」

聖書拝読:ヘブル人への手紙8章1節~13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」(6)

メッセージ主題:『さらにすぐれた新しい契約の仲介者』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先々週は、ヘブル人への手紙の第7章から、『永遠にとりなしをしてくださるイエス・キリスト』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。この第7章では、創世記にでてきますメルキゼデクの祭司職のことが主に語られています。なぜなら、6章の最後に「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられた」とあり、そのことを受けて7章があるからです。へブルの著者は、キリストとメルキゼデクとが酷似していることを記しています。キリストはユダ族の出身なので、レビ系の祭司ではありえません。キリストもメルキゼデクも人であり、王であると同時に祭司であり、神様から直接任命され、「義の王」とも「平和の王」とも呼ばれたからです。先週は、イエス・キリストにのみ焦点をあてて、キリストの恵みを分かち合いました。

今朝は、ヘブル人への手紙の第8章から、『さらにすぐれた新しい契約の仲介者』と題しまして、神様からのメッセージに心をとどめたいと思います。この第8章の8節から12節までは、エレミヤ書31章31節から34節までの引用であります。神は、エレミヤを通して、イスラエルの民とユダの民に新しい契約を結ぶと宣言されました。なぜなら、神とモーセとの初めの契約は、モーセの民が契約を破って、神をあがめなかったことによって、反故となったからであります。今朝は、この新しい契約がいかにすぐれているのかを見させていただきたいと思います。

短くお祈りいたします。

先々週のヘブル書の7章を中心とするメッセージの中では、22節にある「イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられた」というところから、イエス・キリストを通しての新しい契約は、アダムとエバの契約よりすぐれたものであり、アブラムとの契約よりもすぐれたものであることを述べました。しかし、この8章では、イエス・キリストの新しい契約は、モーセとの契約よりもすぐれた契約であることが語られています。

5節では、「その人たち(つまり祭司たち)は、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。」とあります。つまり幕屋は、神にまみえる会見の幕屋であります。ここで時間をとって、モーセが幕屋をどう取り扱ったかについて記述しているところを見ていきたいと思います。

出エジプト記33章7節~10節までをお読みいたします。

「モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の幕屋と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおのの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。」

モーセは、民の宿営から離れたところに会見の天幕をはり、民からの主への願いを取り次いでいました。モーセが天幕に入る時は、誰一人として、近づかず、自分の天幕の入口で、そこで伏し拝んでいたとあります。つまり、モーセが会見の幕屋に入って、神と語るときには、誰もじゃまをしない、また、雲の柱が天幕の入口に立って、誰も入れない。一対一の神との交わりがそこにあります。

そして、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」(33:11)とありますように、モーセがこの会見の幕屋で、神と語り合っているさまは、この短い表現の中に、私たちの静まりの時、神様との語らいの時、交わり時の重要な要素が記されています。

一つは、「主は、人が自分の友と語るように語る」ということです。友は、肩を並べて、同じ目線で語ります。しかし、主が民に語るとき、結構、命令口調が多いような気がします。少なくとも、民はそのように感じるはずです。なぜなら、民は神の神性を感じ、神を畏れ、ひれ伏しているからであります。しかし、モーセが幕屋で主と交わる時は、主はモーセを友のように語るのであります。主はあえて、自らを低くし、モーセを友のように扱い、モーセの心にあるものを、主に吐き出し、モーセの心を確かめるのでしょう。しかし、神とモーセが友のように、親しくしたとしても、神に対する礼を忘れてはいません。節度をもって接しているはずです。私たちも神に対して親しく何でも話せますが、節度を保つことを忘れてはいけません。もちろん、イエス様は私たちを友と呼んでくださいます。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:14-15)イエス様が私たちを友とよんでくださるのは、私たちがイエス様の命令を守り行なうからであります。イエス様の命令とは、12節にありますように『イエス様が私たちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う』ということです。イエス様がなさったように、私たち自身が互いに愛し合うようにする、また、しようとしなければ、イエス様にとって、私たちは友ではないのです。しかし、イエス様の場合でも、神様のときと同様、イエス様に対する節度を忘れてはいけません。

もう一つは、「顔と顔を合わせて語る」ということです。「顔と顔を合わせる」とは、目線をはずさないということであり、語る方も聞く方も真剣であることが要求されます。もちろん、神様の顔を見るということは不可能であります。なぜなら、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と主はおっしゃるからです。(33:20) モーセと言えども同じことです。「顔と顔を合わせて」とは、実際的な顔と顔や目と目を合わせてというのでもなく、「まじめに」とか「真剣に」とかという意味の表現であります。また、「噓偽りなく正直に」という意味も含まれるかも知れません。

モーセの時の会見の幕屋とは、今の私たちには、ディボーションの時であるでしょう。私たちの黙想や静まりの時も、誰にも邪魔されないところを選びたいものです。神は私たちの願いや祈りを、友のように耳を傾け、また友のように、語ってくださいます。しかし、私たちは、礼を失することがあってはならないと、私などは思うわけであります。そして、私たちの願いや祈りは、嘘偽りのものではなく、正直で、真剣に、誠心誠意、心を込めたものでなくてはいけません。

ここで、ヘブル書に戻ります。今朝の中心聖句であります8章6節には、「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」モーセとの契約は、神に従えば、カナンの地という約束の地に導かれるということでした。そして、イエス様との契約は、イエス・キリストを信じれば、「罪が赦される」というものでした。罪が赦されれば、永遠の命に導かれます。イエス様はおっしゃいます。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:27)人間の違反によって無効とされたシナイ山での契約が古い契約とするならば、それに代わる新しい契約が、エレミヤによって預言されていて、イエス・キリストの血による全き罪の赦しによって、その契約は実現し、イエス・キリストを信じる人は、永遠のいのちを得ることになります。それも、ただただ、イエス・キリストを心で信じ、口で「イエスはわたしの主です」と告白するだけでいいのです。この新しい契約こそが、さらにすぐれた契約なのです。

しかし、それだけではありません。モーセが会見の幕屋で、主と語り合うことができたように、私たちには、イエス・キリストを私たちの主と受け入れた時点で、主は聖霊を私たちの心におおくりくださり、私たちは神の宮とされます。パウロはそのことをコリント人への第一の手紙3章16節17節で次のように語っています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですが。もしだれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」つまり、私たちは神殿であり、そしてモーセの時の会見の幕屋でもあるのです。ですから、私たちが静まって主を知る、主と語るデボーションの時もモーセの時と同じなのであります。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせて私たちに語られるのです。」

そして、イエスキリストを信じる私たちがすでに神の宮であるとするならば、幕屋は私たちの心であり私たちは常に主とまみえていることになります。ディボーションは大切です。しかし、常に私たちが、幕屋の中で、聖霊を通して、主とまみえ、主の声に耳を傾け、主に切実に願いをささげ、感謝と喜びに満たされるとするならば、私たちは常に主を思うことができるのです。どうか、そのことも忘れないでいてほしいのです。常に神の臨在を感じ、私たちはキリストの香りを放つ者であり続けることができるのであります。キリストの香りは、主と交わっているときに、放たれるのです。

私たちは、創造主である神がお送りくださったイエス・キリストの恵みを、聖霊の親しき交わりによって、フルに受けることができるのです。なぜなら、私たちの心に会見の幕屋があるからです。「さらにすぐれた新しい契約の仲介者」であるイエス様に、またイエス様をお送りくださった神に感謝いたしましょう。

さて、天国長屋の八さん、熊さんはいかがでしょうか。「さらにすぐれた新しい契約の仲介者」という神様からのメッセージをどう思われますか。

―――――

八: 俺は、イエス様に感謝してるよ。だって、そうじゃねぇか。アブラハムとの約束は、その430年後にできた律法によって破棄されたんじゃねぇ。だから、あの約束はまだ生きてたんだ。反故になってねぇ。だから、イエス様は、律法を成就してくださって、救いの約束は完了したんだ。

熊: そう、イエス様が十字架上で、テテレスタイとおっしゃられた、俺たちのすべての罪をぬぐいさってくださった、そのことが完了したとおっしゃったんだ。

八: それだけじゃねぇぞ、イエス様は死を克服してよみがえって、俺たちに、イエス様の平和という聖霊をくださった。神様との和解が成し遂げられたんだ。俺たちは、聖霊様を通して、神様とお話しすることができるんだ。もちろん、節度をもたねぇといけねぇ。でも、父親と話をするようにも話せるんだ。感謝じゃねぇか。

熊: だな。俺たちは、イエス様いのちだ。イエス様にとことんついて行くって決めたんだからな。なんせ、すべてのことは、さっきも言ってたけど、イエス様を信じさえすればいいんだ。誰だってできるんだよ。修行をするわけでもねぇ、またお金を積むわけでもねぇ。小さな子供から、もう明日の命も分からねぇような年寄まで、いや、年寄りだけじゃねぇ、誰だって明日の命はわからねぇんだな、だからみんなだ、誰だって永遠のいのちにあずかることができる。

八: そう、これ以上、神様からの素晴らしいプレゼントはねぇよ。みんなが、イエス様を心に受け入れてくれさえすれば、こぞって天国で再会できるんだけどな。こんな良き知らせはねぇんだけどな。みんな、何をためらってんだろう。

熊: イエス様や天のお父様である神様を信じたら、自由がなくなるとでも思ってんじゃねぇか。イエス様を信じたら、もっと自由になれるのによぉ。もったいねぇ、もったいねぇ。神様に感謝する一日一日、もっと大切にできるんだけどなぁ。

八: そうよ。一日を大切に生きることができる。でもそれだけじゃねえぞ。自分も愛せるんだ、本当の意味でな。なにせ、神様が俺たちを愛してくださってるんだ。神様の目からみて、俺たちは高価で尊い、っておっしゃってくださるんだから。不完全な俺たちでも、自分のことが好きになれる。クリスチャン人生、やっぱ、最高だな。

熊: いいね、いいね。早く信じれば、早く楽になれるし、喜びも心の底から湧いてくる。もったいねぇな、短い人生だ。もっと自由に生きれるのになぁ。なあ牧師さん、こんなところでよろしいですか。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。イエス様を信じるからこそ、自由に生きれる。楽に生きれる。そうですよね。みんな勘違いしています。宗教ってかたっ苦しいと思っていらっしゃる。確かに、宗教はかたっ苦しいところがあります。しかし、イエス様や天のお父様を信じるのは、宗教以上、イエス様がその宗教のバリヤをも取り除いてくださったのです。だからこそ、イエス様は「さらにすぐれた新しい契約の仲介者」なのです。イエス様を信じましょう。とことん、信じ、とことん、皆さんの人生を謳歌してください、神様を賛美しつつ。

さあ、黙想いたしましょう。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇96篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書5章17節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

(詩篇96篇)

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お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝のメッセージを感謝いたします。私たちに、イエス様という救い主キリストを、あなた様との平和を実現するために、お送りくださったこと、心からハレルヤとあなた様の御名を賛美いたします。今朝は「さらにすぐれた新しい契約の仲介者」と題しまして、天のお父様の愛と主イエス・キリストの恵みを再確認させていただきました。どうか、私たち、先に救われたものがつねに主を思い、主と語り、キリストのかおりを放つものとさせてください。そして、いつもキリストを証しできる者へとかえてください。

私たちの主、自由と平和をもたらすイエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。