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メッセージ主題:『全き信仰によって神に近づく』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヘブル人への手紙』

2021時年2月14日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌171「今日まで守られ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌104「十字架の上に」

交読: 交読文20:詩篇第57篇:新聖歌p. 894-896

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌378「罪の世人らに」

聖書拝読:ヘブル人への手紙10章19節~25節(新改訳聖書)

中心聖句:

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(22)

メッセージ主題:『全き信仰によって神に近づく』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、ヘブル人への手紙の第9章から、『救いの完成を待ち望もう』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。第9章では、第8章につづき、「キリストが新しい契約の仲介者である」ことが記されています。そして、キリストの再臨のことが最後に語られています。先週は、キリストが再びいらっしゃることとその目的を、神様にみちびいていただきました。

今朝は、ヘブル人への手紙の第10章から、『全き信仰によって神に近づく』と題しまして、神様からのメッセージに心をあわせさせていただきます。イエス・キリストは、ご自身が聖所の垂れ幕となり、私たちのために新しい生ける道を設けてくださり、私たちが大胆に神の御座に近づくことができるようになりました。私たちは、このイエス・キリストの恵みを十分にたのしむことが許されています。今朝は、このイエス・キリストの恵みをかみしめたいと思います。

そして、昨夜11時8分、福島地方で震度6強の地震がありました。被災地域の方々のために、まず祈りたいと思います。

そもそもの話ですが、「神に近づく」とはどういうことでしょうか。

ヘブル書10章22節では、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とありますように、「いっしょに集まる」「励まし合う」ということが強調されています。これはキリストのからだである教会が、信仰共同体として、神に近づくことを意味しています。「いっしょに集まる」なかには、共に主の御名を賛美し、主に感謝し、み言葉を学び、み言葉を味わう、またもちろん楽しく食事を共にすることも含まれています。また、「励まし合う」には、お互いに支え合う、祈り合う、こともあるでしょう。

では、個人個人が、「神に近づく」となると、まずは日々のディボーション(み言葉を味わい、黙想し、主の御名を賛美し、主と語る)、そしてディボーションの時間だけではなく、いつも主を思い、主と語ることなのでしょう。また、ヘブル書4章16節には次のようにあります。「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 「おりにかなった助けを受ける」ことが、「神に近づく」目的のひとつであるようです。祈りの中で、主に助けを求める。主に助けを求める時は、私たちは自然と神に近づきます。聖書中でも、イエス様に助けを求めた人々は、一様にイエス様に近づいています。また近づくことを希望していました。

その一つの例をあげたいと思います。ルカの福音書18章35節~43節です。少し長いですが、お読みいたします。「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。』と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか。』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです。』と言った。イエスが彼に、『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。』と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」

この盲人は、大声で、主に願い、周りの人が制するのも無視して、それだけ必死で、主に目が見えるようにしてくださいと願い求めました。主はその必死なる願いをお聞きとどけくださり、直されました。その時イエス様は「あなたの信仰があなたを直した」とおっしゃられました。これはとても重要なことだと思われます。主に助けを求める時、一点の疑いもなく主を信じ信頼して求めなくてはいけないのでしょう。そして、その盲人だった人は、「神をあがめながらイエスについて行った」とあります。彼は、神をあがめるイエスの弟子となったのです。つまり、神を信じ、イエス・キリストを信じる者とされたのです。しかし、それだけではありません。彼の賛美、彼の喜び、もちろんイエス様の起こした奇跡の業、それらを目の当たりにした民は、はじめはその盲人だった人をいぶかしく、またうっとおしく見ていて、彼がイエスに近づくのを制した人たちでありましたが、最後には、「神を賛美する」者へと変えられていました。イエス様のこの御業は、結局、神の栄光が現れ、神の御名を賛美するものだったのです。そして、イエス様の御業は、その力がありましたし、また盲目だった人の喜びは、民の頑なになっていた心をもとかし、神を賛美せざるを得ないくらいに、民の心を動かしました。

「神の助けを求める」とは、結果、神の御名があがめられるぐらいの神の栄光が現れ、そして、周りの人々が、神の御業を知らしめるとともに、民の口に賛美がとどまり、信仰へと導かれるのです。

「神に近づく」とは、これらの御業が期待されるのです。ヘブル書の著者は、「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と言われるように、大胆に神に近づいて、助けを乞い求めることは、その神の御業によって、神の栄光が現わされ、周りの人々が神の存在を知ることとなるのであります。

その上、「神に近づく」ことによって、世にあるものに対する恐れをなくすことができるのです。詩篇46篇1節~3節では、次のように記されています。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」 「神に近づく」ことによって、神を私たちの避難所とさせていただくことができるのであります。そして、先ほども申しましたが、神を避け所にすることによって、私たちから恐れがなくなるのです。恐れが無知から起こります。しかし、全能の神を信頼し、その庇護のもとにいれば、私たちには恐れがなくなり、平安に満たされるのです。

イエス・キリストを通して、私たちは大胆に神に近づくことができるようになりました。これは、キリストを信じる者の特権でもあります。私たちは、この特権をもっと楽しもうではありませんか、また神を遠くに感じるのではなく、常に、もっと身近に感じるようにさせて頂きましょう。

さて、天国長屋の八さん、熊さんはいかがでしょうか。「全き信仰によって神に近づく」という神様からのメッセージをどう思われますか。

―――――

八: 「神に近づく」ということなんだけどよ、俺は、詩篇の人々は、ほんとうに神様に近づいていって、神様といろんなお話をされてんじゃねぇかと思えるんだ。どう思う、熊。

熊: 俺も詩篇は大好きだ。祈りのお手本にもしているくれぇだから。本当にいろんなお願いをしているし、また、「どうしてですか、神様!」という感じで、詰め寄ったりしているのもあるし、今の俺たちよりも、もっともっと神様に近づいてるんじゃねぇかと思うときもある。

八: もしもそうだったら、イエス様によって、俺たちは、本当はもっと神様に近づけるんじゃねぇか。近づき方が甘いんじゃねぇかな。なんか遠慮しているような気がする。

熊: 神様に対して遠慮しちゃだめだよな。神様の力を限定しちまっている。それこそ、神様にとっちゃ、失礼な話だ。そのことで、思い出したよ。イエス様の言葉を。確かマルコの福音書9章20節~24節にあったやつだ。息子に悪霊がとりついて、悪さをする。そこで父親が「もし、おできになるのなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

八: おお、知ってるぜ、その下り。イエス様が、「もしできるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」

熊: するとその親父殿は「信じます。不信仰な私をお助けください。」って叫んだっていう。俺たちも、それに近いことを、イエス様に言ってんじゃねぇかな。こんなふうによ。「もしできますれば」とか「願わくば」とかさ。

八: そうか、それは気が付かなかったな。たしかに、その前振りのことば、いらねぇかもしらねぇな。でもよ、「願わくば」は、主の祈りにもでてくるんじゃねぇか。

熊: あれは、「願わくは」だ。「ねがわくは、御名をあがめさせたまえ」だろ。「ねがわくは」は「願いとしては」というような意味だ。けど、「願わくば」は「もし願うことができるのなら」という意味だ。「ば」と「は」でえれぇ違いだ。一字違いで大違いってやつだ。

八: 「もしできますれば」って、「自分の思いではなく、みこころのままに」という気持ちもあって、「もしできますれば」って使っているような気がするけど、そうじゃ、ねぇんだ。もっと大胆に、ストレートに、神様にお願いすべきなんだな。

熊: そういう意味では、詩篇はストレートだ。まあ、だから俺は好きなんだけどな。詩篇の時代でも大胆に御座に近づけるのだったら、それよりもすぐれたイエス様によって、「大胆にまことの聖所にはいることができる」とは、いったいどういうことだ?

八: 詩篇の時代には、律法という足かせがあった。しかし、今の時代は、イエス様がその足かせを取り除いてくださった。だから、もっと自由に、「天のお父様」と呼べるようになった。

熊: まあ、ど素人の俺からみりゃ、詩篇は、もっとも新約聖書に近いし、アンチ律法っていうか、律法を度返ししているみたいなところがあると思ってんだ。でも、たしかに、「天のお父様」って言えるようになったことは、でかい、ひじょうにでかいよな。

八: そうだよ。だから、もっともっと、天の親父殿に身近に感じて、なんでもかんでも相談すりゃいいのさ。俺たちゃ、まだまだ足らねえんだ、神様やイエス様におんぶにだっこの状態になるには。全くの信頼をイエス様に寄せてないんだろうね。牧師さん、こんぐらいでいいですか。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。確かに、詩篇は、旧約聖書中、もっともよく愛読されている書物です。私もよく詩篇を読みますが、イエス・キリストがオブラートにつつまれ、あの詩篇の中で息づいているのではないでしょうか。私にはそう思えてならないのです。ですから、詩篇をお手本にして、神様との信頼関係を、信仰をはぐくむのも「あり」ではないでしょうか。

では、これから黙想の時間にはいります。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇46篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、ヨハネの福音書14章6節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

(詩篇46篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。ハレルヤ!愛する天のお父様、御名をあがめます。今日のメッセージのなかで、私たちにはまだまだ、神の御座に近づく大胆さが足りないとしめされました。どうか、イエス様が私たちのことを友と呼ばれたように、私たちも、イエス様を友とよび、いままで以上に信頼し、親しく交わることができますように、私たちを励ましお導きください。

私たちの主、助け主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。