メッセージ:「聖なる会合」(7分間メッセージ)

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時)

2月18日

担当:若竹孝行

メッセージ:「聖なる会合」(7分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:民数記28章〜30章

29章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:29: 1-2

「第七の月には、その月の一日に聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。これを、あなたがたにとって角笛が吹きなさられる日としなければならない。あなたがたは、次のものを献げよ。主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一匹、傷のない一歳の雄の子羊七匹。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

28章から30章までは、「ささげ物に関する指示」が記されています。その中で、28章から29章にかけて、『聖なる会合を開き、その時は労働してはならない』と7回も記されています。28章では18節、25節、26節、29章では、1節、7節、12節、35節です。つまり安息日の規定でもあります。「聖なる会合」とは、神にささげる礼拝のこと、また、「労働してはならない」とは、日常的にしている仕事をしてはならないということです。つまり、聖なる会合のときは、神とまみえる時であり、非日常の時間であると強調しているのです。

日本でも同じ感覚の日があります。それは「晴れの日」です。天候の「晴れ」ではなく、「晴れ着」の「晴れ」であり、非日常の日であり、お祭りの日です。日本も同じで、この時は、神社にお参りにいったり、八百万の神の前で祭りの諸行事を行なったりするのです。昔は、祭りの時は、村では日常の仕事やお休みとなります。いえ、祭りの諸行事で、またはそれを応援することで、忙しいのであります。

この民数記に記されています「聖なる会合」も、仕事は休んでいますが、献げものをする準備などで結構いそがしいのです。ですから、もし労働がしたいと思っても、できないのです。私たちはここで、勘違いをしてはいけません。「聖なる会合」の日は、体を休める日ではなく、神に感謝をし、霊的に高められる日なのです。

「聖なる会合」は礼拝です。つまり、信仰を同じくする人々と集まり、神からの多くの恵みと喜びを分かち合い励まし合う日、また、主にあって痛みを共有し慰めあう日でもあるでしょう。そして、礼拝の時間を、日常から切り離し、主との時間を密にし、神から霊的な力をえることに集中します。詩篇46篇10節「やめよ(つまり心を世事に煩わせず、静まれ)知れ。わたしこそ神。」で言われるように、主と霊的な交わりを持つことに集中することが大切なのであります。礼拝はなにも日曜日とは限りません。礼拝は神との親しき交わりです。祈りをするとき、それが瞬間であっても、主との交わりとなり、主への礼拝ともなるのです。礼拝は形でもなければ、時間の長さでもありません。私たちの主への熱い思いと真実な心です。

また、主への全焼のいけにえ、焼き尽くす献げ物をささげるとは、家畜の中でも一番上等なものをおしげもなくささげることであり、神に最も良いものをささげる意味があります。現代の私たちにおいては、献金でありますが、献金の多さを問われているのではなく、主は、私たちの献金に対する心を見られるのであります。詩篇に「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」(51:17)とありますように、本当の意味で主に感謝をささげ、へりくだって、献金しているか、それを神様は見られておられます。神への究極の献げものは、私たち自身、牧師や伝道師になる献身という意味でもなければ、一生懸命、教会活動をするということでもありません。神にすべてを委ねるということです。

神が一番お喜びになるのは、神が私たちの人生のリーダーとなることです。人生のボスではありません、人生のリーダーです。ボスは指示だけをして何もしません。しかし、リーダーは、先頭に立って引っ張ってくれたり、後ろに回って後押しをしてくれたりします。人生のリーダーの座を神様に譲りましょう。そして、それを可能にするのは「聖なる会合」「主とのまごころからの交わり」からなのです。

お祈りいたします。

主のいのり