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メッセージ主題:『信仰によって』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヘブル人への手紙』

2021時年2月21日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌364「わが主イエスよ ひたすら」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌342「神の子なるイエス」

交読: 交読文21:詩篇第62篇:新聖歌p. 895-896

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌397「神の御子にますイエス」

聖書拝読:ヘブル人への手紙11章1節~16節(新改訳聖書)

中心聖句:

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(6)

メッセージ主題:『信仰によって』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、ヘブル人への手紙の第10章から、『全き信仰によって神に近づく』と題しまして、神様からのメッセージに心をあわせさせていただきました。イエス・キリストは、ご自身が聖所の垂れ幕となり、私たちのために新しい生ける道を設けてくださり、私たちが大胆に神の御座に近づくことができるようになりました。私たちは、このイエス・キリストの恵みを十分にたのしむことが許されています。先週は、そのイエス・キリストの恵みをかみしめさせていただきました。

今朝は、ヘブル人への手紙の第11章から、『信仰によって』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。ヘブル書11章では、まず、第1節で「信仰」の意味を規定しています。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。そして、「信仰とは、神がどういうお方であるかということについて、神ご自身がおっしゃっていることをそのまま信じるところから始まる」のです。この章の中では、「信仰によって」と20回、先人の信仰を例にだして、いかに神の御業に期待したかを記しています。今朝は、私たちも、私たち自身の信仰によって、どんな神の御業を期待してきたのか、また期待するのかを黙想したいと思います。

短くお祈りいたします。

先人の信仰者たちは、「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい」(16)ましたが、「約束されたものは得ませんでした。」(39) ここで言う「約束されたもの」とはキリストによってもたらされる恵みの祝福です。イエス・キリストこそが、「信仰の創始者であり、完成者」(12:2) であるのです。そして、イエス・キリストを通して、約束されたものである、天の御国での永遠のいのちを得ることができるのです。

しかし、それだけではありません。今朝の中心聖句、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」このことは、イエス・キリストを通してでしか成就しません。

この6節のみ言葉は、先人の信仰者たちの信仰の姿勢ではありますが、これだけでは、未完成だったのです。ですから、今を生きる私たちにとっては、このみ言葉は次のように書き換えられるでしょう。

●キリストへの信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。

●キリストを通して、神に近づく者は、神がおられることを信じられる。

●キリストを通して、神を求める者には、神は報いてくださると信じられる。

イエス様はおっしゃいます。

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエス様はただ単に、私たちの救いであり、永遠のいのちではないのです。門であるイエス様を通して、私たちは日常の生活において、安らかで、豊かな牧草をみつけることができるです。

また道であるイエス様を通して、神に近づくことができるのです。

またイエス様は次のようにおっしゃいます。

「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父をしらせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:27-30)

イエス様を通してでない限り、天のお父様である神様を知ることはできないのです。そして、イエス様を信じ知ることによって、私たちはたましいに安らぎを得、今の世が生きやすくなるのです。天の御国での平安と喜びを、今、得ることになります。それこそが、今の私たちに必要な、神様からの報いであり恵みであり祝福なのです。

さて、では、私たちは、自身の信仰によって、どんな神の御業を期待してきたのでしょう、また期待するのでしょうか。その前に、確認しておきたいのですが、私たちの信仰は私たちの力によるものではないということです。パウロはそのことを次のように説きます。「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』ということはできません。」(1コリント12:3)私たちの信仰は聖霊様の働きによるものです。そのことからも、信仰の主導権は聖霊様であり、その聖霊様をお送りくださったイエス様にあり、またイエス様をお送りくださった神様にあるとも言えます。

言い換えれば、神様が主導権をにぎっている私たちの信仰によって、私たちは神様の御業を期待できるのですが、私たちは、どんな神様の御業を期待してきた、また期待するのでしょうか。

私は、皆さまのことは分かりません。私に関していいますと、日々の生活においては、いつもイエス様を思い、神の平安に満たされることです。そして、クリスチャンとして、常に主にあって喜び、キリストの香りを放ち、主の愛の証し人として、つねに主をお伝えする準備をしておくということです。そして、使徒パウロと同じ気持ちでいます。「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(1コリント9:23)もちろん、まだまだ、この覚悟は未熟ではありますが、そのような者にさせていただけると確信しております。なぜなら、私に宿る聖霊様が、私の信仰を導き、そのような者になるために働いていて下さっておられるからです。私が自力でしたりなったりするのではないのです。すべては聖霊様の働きによるものだからです。今年、新たなビジョンが与えられました。それは、一軒家での福音伝道です。どのように、主が導かれるかは、私にはさっぱり分かりません。が、しかし、このビジョンが主から出たのであれば、主のタイミングで必ずそうなるでしょう。当然、今の私の経済力では考えられないことです。また、今私の置かれている、私の主の働き場を考えると、人間的には、今すぐということでもないのかも知れません。しかし、それは主がお決めくださることです。私は、それに従うだけ。聖書に登場する先輩信仰者のように、主を信じ、より頼んで従うしかありません。またその道がベストなこともよく知っています。

聖霊様が主導してくださる信仰によって、主に大いに期待し、福音伝道のため、どんなことでも喜んでします。私には、見えるのです。信仰によって、祈りの家で、主の御名をほめたたえ、平安と喜びにみたされている、小さな群れが光り輝いている姿が。

さて、天国長屋の八さん、熊さんはいかがでしょうか。「信仰によって」という神様からのメッセージをどう受けとめられますか。

―――――

八: 牧師さん、その「祈りの家」って、俺たちも、その群れに入っているよな。なあ、熊、俺たちも仲間にいれておいてほしいよな。

熊: 何いってんだよ。当り前じゃねぇか。俺たち三人は、切っても切れねぇ関係だ。俺たちがいなくて、どうするよ。

八: だよな。でもいいねぇ。ええ、祈りに始まって、祈りに終わる。いや、いや、終わらねぇんだ。集まりが解散しても、祈りがずっと続いている。そんな集まりであってほしいな。だれとなく、賛美を始めれば、みんなが、その賛美に合わせていく。

熊: いいねぇ。主の御名をあがめることばがでてくれば、それぞれの心が合わさって、主の御名をあっちからこっちからとあがめられる。だれも主の御名をあがめることを躊躇しねぇ。

八: もちろんだ。だって、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)とイエス様はおっしゃるんだから、遠慮しなくてもいいんだよ。祈りが上手下手じゃねぇんだ。聖霊様が導いてくださるんだから。

熊: 老人は夢を見、若者は幻を見る。(ヨエル2:28)いいねぇ。俺たちゃ、バカ者だけど、「祈りの家」の夢を見させていただくのは、うれしいじゃねぇか。

八: 俺たちゃ、バカ者だけど、そんじょそこらのバカじゃねぇぞ。イエス様いのち、っていうイエス様バカだ。俺は、その称号がうれしいねぇ。「おめぇ、イエス・キリストを信じるなんて、バカだな。」って言われたら、うれしくて、「へぇ、ありがとうございます。おかげさまで、毎日喜んでおります」なんて応えたいぐらいだね。

熊: イエス様バカが、祈りの家に集まる。いいなぁ。牧師さん、俺たちも、イエス様に期待して、いっしょに祈るぜ。

八: そうだ。聖霊様が導かれた信仰だ。神様が見させてくださった夢、「祈りの家」、実現することは、神様のお仕事だ。必ず実現するさ。イエス様はおっしゃいなさったじゃねぇか。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:22)って。それをとことん、信じようじゃねぇか。なあ、牧師さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。マタイの21章の22節「信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」、これこそ、信仰による主への期待ですね。ともに、祈ってくださること、心強いです。感謝いたします。さて、皆様は、何を主に期待されますでしょうか。

では、これから黙想の時間にはいります。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇145篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書21章21節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」

(詩篇145篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はわが力。わが救い、わがほめ歌。主の御名を賛美いたします。愛する天のお父様、今朝のお導きに感謝いたします。聖霊様の主導による信仰によって、私たちは主に期待し、主の御名を賛美することができますから、ありがとうございます。信じて祈り求めるものは、与えられると励ましを下さいます神様の御名をほめたたえます。

私たちの主、導きの主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。