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メッセージ主題:『走り続ける』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヘブル人への手紙』

2021時年2月28日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌353「主イエスは救いを」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 新聖歌356「目には見えねども」

交読: 交読文22:詩篇第65篇:新聖歌p. 896-897

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌355「主と共に歩む」

聖書拝読:ヘブル人への手紙12章1節~3節(新改訳聖書)

中心聖句:

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(1)

メッセージ主題:『走り続ける』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、ヘブル人への手紙の第11章から、『信仰によって』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。ヘブル書11章では、まず、第1節で「信仰」の意味を規定しています。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。そして、「信仰とは、神がどういうお方であるかということについて、神ご自身がおっしゃっていることをそのまま信じるところから始まる」のです。この章の中では、「信仰によって」と20回、先人の信仰を例にだして、いかに神の御業に期待したかを記しています。先週は、私たちも、私たち自身の信仰によって、どんな神の御業を期待してきたのか、また期待するのかを黙想させていただきました。

今朝は、ヘブル人への手紙の第12章から、『走り続ける』と題しまして、神様からのメッセージを味わいたいと思います。ヘブル書12章は、おもに、主による試練とクリスチャンとしてふさわしい生活が記されています。今朝は、初めの方の、父なる神による試練を黙想したいと思います。

短くお祈りいたします。

11章で、先の信仰者が、主にあって信仰によって歩まれた軌跡を学ばせていただきましたが、その先人たちが「雲のように私たちを取り巻いている」と述べられています。もちろん、先人たちの霊が私たちの周りにいるということではなく、先人たちの信仰が継承されているということではないでしょうか。そして「いっさいの重荷」とは、信仰をまっとうすることを妨げる障害物のことです。ある時は誘惑でもあるでしょう、またある時は自分のプライドでもあるでしょう、はたまたある時は、愛する人の何気ないつぶやきかもしれません。そして、「まとわりつく罪」とは、よく言ったものだと思います。罪はわたしたちの心の隙間に入り込むことを得意とし、そこから傷口を広げていきます。また、カビやサビのように、落としにくいものでもあるでしょう。それらから逃れ、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続ける」とあります。

では、「私たちの前に置かれている競争」とはなんでしょうか。不謹慎な私は、どうしてもこの表現を読むたびに、パン食い競争を思い出してしまうのです。おそらく、単なる走る競技なのでしょうが、ゴールは天の御国です。その賞金は永遠のいのちでしょう。パウロも1コリント9章24節で次のように述べています。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」パウロの意図するところは、相手との競争で勝ち抜いて永遠のいのちという賞を受けるということではありません。相手ではなく、自己とのたたかいと言いましょうか、信仰は孤独で個人的なものですから、誘惑や罪から逃げ勝つと言った方がよいのかもしれません。では、どうして「忍耐」が必要なのでしょうか。マラソンのような長距離走であれば、忍耐が必要でしょう。おそらく、そのことを示しているので、「走り続け」なければいけないのでしょう。では、そもそもですが、どうして「歩く」という表現を使わずに、「走る」という表現と使うのでしょうか。なぜ、このような質問をするのかと申しますと、私たちはよく、「主とともに歩む」という言い方をしますが、「主と共に走る」とはあまり聞かない表現だからです。ところが、人生はマラソンという表現がよく使われます。マラソンランナーは、普通の人が全力で走っていて、やっと追いつくぐらいの速さですから、マラソンの走りはむちゃくちゃ速いのです。そう、人生はアッという間に過ぎるのです。ですから、「走り続ける」というのは人生のことであって、アッというまに過ぎる、だからその短い期間を忍耐をもって走り続ける、歩いていては、いろんなものがまとわりついてくる。だから走るのです。人生という短い期間を。

では、ついでですから、「主とともに歩む」という言い方のイメージはどうでしょうか。新聖歌355番、聖歌588番「主とともに歩む」という歌があります。そのリフレインのフレーズで「ひと足ひと足、主にすがりて、絶えず絶えず我は進まん」とあります。ゆっくりと歩んでいるイメージです。私も、実を言いますと、このイメージで、イエス・キリストとともに歩んでいる感じです。なぜなら、創世記には、「エノクは神とともに歩んだ」(5:22&24)また「ノアは神とともに歩んだ」(6:9)という表現が出て来るからです。また、イエス様はいつも「歩いて」いらっしゃいました。イエス様が走っている姿をイメージできません。それに、私にとって強烈なのは、イエス様が湖の上をあるいておられたという事実です。ペテロが「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」とお願いして、水の上をあるいてイエス様の方に行きますが、風を見て、こわくなり、沈みかけたのをイエス様が手を伸ばして救われた状況が、頭の中に焼き付けられています。そしてイエス様はおっしゃいました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14章)私たちは、主に信頼し、主を疑わずに、主とともに歩み進むのであります。

信仰において、「走り続ける」には、まとわりつくものから逃げ続けるというイメージがあります。私たちは実に弱い。まとわりつくものと真正面から戦えるほど強くありません。「君子危うきに近寄らず」ともありますし、「逃げるが勝ち」ということもある意味正しいでしょう。危険なものかに近寄らないことも、また危険が近づいてくれば、逃げるというのも一つの知恵です。パウロは「弱いときにこそ、私は強い」と告白します。(2コリント12:10)パウロは自身が弱いと感じれば感じるほど、全能の主により頼むからこそ強いと言うのです。これはある意味、主に逃げ込む、主を避け所とするということでもあるでしょう。詩篇では「主はわが避け所」と何べんも何べんも謳われています。信仰において、「走り続ける」ということは、「主を避け所とする」という意味も含まれているかもしれません。忍耐をもって走り続けるとは、忍耐をもって主の御翼の陰に身をひそめるということかもしれません。そして、このイメージは、信仰をもって主とともに歩むと近くなるのではないでしょうか。やっと、かけ離れていると思われた「走る」イメージと「歩む」イメージの接点が見えてきた感じがします。その接点とは当然、我らが主、イエス様であり、主により頼み、主を避け所とする、という姿です。

人生を、一日一日単位でみると、主とともに歩むこととなり、それを振り返ってみると、主を避け所としながら走り続けてきたと思うのかもしれません。

さて、天国長屋の八さん、熊さんはいかがでしょうか。「走り続ける」という神様からのメッセージをどう受けとめられますか。

―――――

八: 「走る」というのと、「歩く」というのと、だいぶ違ったイメージなんだけど、牧師さんの話をきいていると、だんだんくっついてくるから不思議じゃねぇか。なあ、熊。

熊: なんか、狐につままれた感じだ。たぶらかされているのかも知らねぇな。

八: 牧師さんが、俺たちをたぶらかすことはねぇだろうけど、信仰の馳せ場を走り抜けるってイメージには、自力でがんばるっていう感じがあるから、牧師さんの「避け所」のイメージがくっつくと、なんか、ほっとするんだ。だってよ、信仰は自力でできるものじゃねぇ。信仰は聖霊様の働きによって成長するんだ。

熊: そりゃ、そうだ。信仰は、はっきり言って俺たちの努力じゃねぇ。俺たちが、神様に白旗あげて、降伏することによって、成り立ってんだ。白旗降伏は、幸福を生むんだ。

八:  お、熊から珍しく洒落が出たねぇ。

熊:  俺だって、洒落の一つや二つ、、、、それにしても、「走る」イメージと「歩く」イメージ、だいぶ違うよな。「信仰の馳せ場を走る」と「主のともに歩む」、どうなんだろうね。「走る」と言えば、こんなのもあったよな。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)

八: それなら、俺もちがうのを知ってるぜ、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ4:7)おいおい、ちょっと待てよ。これは両方ともパウロの言葉だよな。ほとんど、パウロの生涯が閉じようとしているときに、言ってねぇか。

熊: あ、そうか。じゃあ、牧師さんの言ってたメッセージの最後の言葉、「人生を、一日一日単位でみると、主とともに歩むこととなり、それを振り返ってみると、主を避け所としながら走り続けてきたと思うのかもしれません。」というのが、真実味をおびてくるじゃねぇか。

八: やっぱり、牧師さん、俺たちをたぶらかしてんじゃねぇんだよ。

熊: 牧師さん、悪かったな。疑って。かんべんしておくれ。

八: じゃあ、これで、いいよね。牧師さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「走り続ける」という意味には、「熱心にする、一生懸命する」というイメージもあります。また、「まとわりつくものをかなぐりすてて、走る」行為によって、主は私たちを重荷から自由にしてくださいます。私たちは、一心不乱に主を見つめ、信仰をまっとうさせていただく、そのような決意をもって、主にあって自由となって、主と歩ませていただこうではございませんか。

では、これから黙想の時間にはいります。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇119篇1節~32節をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書11章28節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

(詩篇119篇1節~32節)

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お祈りいたします。主は、私をひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってくださいますから、感謝いたします。愛する主なる創造の神、天のお父様、御名を賛美いたします。今朝の「走り続ける」というメッセージで、私たちに、信仰の馳せ場を走り抜けるとはどういうことなのかをおしめしくださいましたから、ありがとうございます。どうか、私たちが、主にあって自由で、かつ、主にこの身も心もあずけ、主を見上げて、主によってこの人生をまっとうできますから感謝いたします。これからも、常に私たちが主を思い、信仰の馳せ場を走り続けることができますよう、お導きください。

私たちの主、救い主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。