メッセージ:「ただ強くあれ、雄々しくあれ。」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

3月4日

担当:若竹孝行

メッセージ:「ただ強くあれ、雄々しくあれ。」(10分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:ヨシュア記1章〜3章

1章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:1:7-9

「ただ強くあれ、雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれではならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。

このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繫栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

この1章は、モーセの後継者として、民がヨシュアを認め、後継者としての宣言をしたことが記されています。

主がヨシュアをモーセの後継者として立て、それにヨシュアが答え、また民もヨシュアを後継者と認めるという、現代の教会における、任命式と同じプロセスが1章で行われています。

ヨシュアの族長としての任命の記録は民数記の27章18節~23節にあります。主はモーセに仰せになりました。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上におけ。かれを祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。」(18-19)モーセはそのように、自分の手をヨシュアの上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命したのであります。(23)族長としての按手式であります。

では、どうして同じようなことを、ヨシュア記の1章に記されているのでしょうか。

モーセが陣頭指揮をとって執筆されたモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の最後の申命記に、族長の座をヨシュアに、神の名において譲ることが記されています。そして、31章では、ヨシュアを励ます言葉、「強くあれ、雄々しくあれ」が3回もでてきます。神からの言葉、モーセがヨシュアに言った言葉、そして、民を前にして述べた言葉です。若いヨシュアに後をたくすモーセの強い願いが込められています。「わたしの民を約束の地カナンに必ず導きなさい」という熱意が伝わってきます。

ヨシュア記は、モーセの死後、ヨシュアが陣頭指揮をとって記されました。その1章として、まず、ヨシュアの族長としての継承がモーセを通しての神からの命令であり、申命記のそれと符合しなければなりませんでした。それゆえに、申命記で記されている「強くあれ、雄々しくあれ」というフレーズが、この第1章で4回出てきます。神からの言葉が3回。民からの言葉が1回です。偉大なるモーセの跡を継ぐというのは、民衆を束ねる上でとても大変なことなのです。それゆえ、神は、「強くあれ、雄々しくあれ」とヨシュアを励まし、また民に対して、ヨシュアには神の権威が備わっていることを示す必要があったのです。

つまり、神の命令である「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない、おののいてはならない」には、神の励ましだけではなく、神の権威が備わっています。ですから、9節のそのあとには、「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」があり、この言葉「神がともにおられる」は、神の最高の祝福の言葉です。7節に「あなたが行くところどこででも、あなたが栄える」とあるように、主は祝福してくださいます。あるひとつの条件のもとに。

その条件とは、「モーセが命じた律法のすべてを守り行う」ということです。それは別の言葉では、8節「みこしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさむ」ことです。そして、これはダビデの詩篇の第1篇と同じであります。「主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」(2-3)このことは、私たちクリスチャンにおいても、とても重要なことです。

ヨシュアの神も、ダビデの神も同じであり、御言葉を口にとどめ、いつも主を思い、主の戒めを守ることで、私たちは、「強くなり、雄々しく」させていただくことが出来るのです。それは、神の権威が備わった励ましでもあり、祝福でもあるのです。

では、主がモーセに命じた主の戒めとは何でしょう。それはイエス様もお答えになられました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)それと「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(39)この二つが律法の中で一番重要なのであります。そして、神の権威が備わった「強くあれ、雄々しくあれ」は、神の権威を振りかざすのではなく、イエス様がおっしゃるように、「私が愛したように、お互いに愛し合いなさい。」お互いに仕え合いなさい、ということでもあるのです。弱いものほど、権威を振りかざすからです。本当に強い者は、権威を内に秘めていますから、振りかざす必要はないのであります。私たちもそうでありたいと願います。

「強くあれ、雄々しくあれ。」私たちは、主の道であるこれらの戒めから、足しても引いてもいけませんし、右にも左にもそれてはいけません。また、主の道とは、イエス様ご自身であります。イエス様はおっしゃいます。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。、、、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:1&6)

「強くあれ、雄々しくあれ。」イエスさまが、神の権威を内に秘めながらも、柔和であったように、私たちも、柔和でありたいと思います。「強く、雄々しくある」者こそ、柔和であるのです。

主にあって、主により頼んで、強くあり、雄々しくあり、恐れず、おののかず、そして、日々静まって、主を知りましょう。また「ただ強くあり、雄々しく」あって、神の権威を振りかざすのではなく、内に秘め、柔和たるものとさせていただきましょう。

主のいのり