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メッセージ主題:『み言葉を聞き、実行する人に』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヤコブの手紙』

2021時年3月14日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌236「あだに世をば過ごし」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: ワーシップソング「主を見上げて」

交読: 交読文23:詩篇第66篇:新聖歌p. 897-898

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: ワーシップソング「永遠にあなたと」

聖書拝読:ヤコブの手紙1章19節~27節(新改訳聖書)

中心聖句:

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(22)

メッセージ主題:『み言葉を聞き、実行する人に』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、ヘブル人への手紙の第13章から、『賛美のいけにえと思いやり、ともに』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。ヘブル書13章では、神に喜ばれる生活・働きのことが書かれています。神は、人を思いやる心と神を畏れる心とを喜ばれます。先週は、主に近づくための賛美のいけにえ、そして主に近づいてこその思いやり、そのことを黙想させていただきました。

今週からヤコブの手紙に入ります。今朝は、ヤコブの手紙の第1章から、『み言葉を聞き、実行する人に』と題しまして、神様からのメッセージを拝します。ヤコブ書1章では、信仰と知恵、試練と誘惑、そして神の言葉の実践が語られています。今朝はその中でも、神の言葉を聞くことと実践することとはどういうことなのかを学びたいと思います。

短くお祈りいたします。

ローマ書には次のようにあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」この時代、民衆は説教者から、神の言葉を聞きました。「聞く」という行為は、ただ単に「聞こえてくる」のではなく、「耳を傾ける」ということです。相手の言うことを、注意して、また敬意を払って聞くということです。もちろん、初めは「聞こえてくる、耳にする」という事かもしれませんが、次第に「耳を傾け、聞き入る」ようになるのです。ですから、神のことを知るのは、「聞こえてくる、耳にする」ことがきっかけかもしれませんが、信仰が芽生えるには、その神の言葉に「耳を傾ける、聞き入る」姿勢がはぐくまれなければいけません。パウロの言うところの「信仰は聞くことから始まる」は、この姿勢があってこそのことです。

教会の礼拝では、例えば「神を信頼すること」これを、手を変え品変え、いろいろな聖書の御言葉から、学びます。なんどもなんども。それは、一種の刷り込み作業かもしれません。別の言葉で表現すれば、洗脳かもしれません。「洗脳」と言われると悪いイメージですが、世の人からみると、クリスチャンは、キリスト教に洗脳されていると思われているかも知れません。そう、クリスチャンは、創造主に、喜んで洗脳されているのです。世の価値観によって、汚染された脳を、神の価値観に書き換えられようとしている、創造主が私たちを造られた時のように、聖書の御言葉によって、汚れを洗い流してくださっているのです。それが、御言葉を聞く作業でもあるのです。それを、ヤコブは、1章21節で「心に植え付けられたみ言葉」という表現をしているように、何べんも何べんも御言葉を聞いて、御言葉が心に植え付けられていないといけないというのです。

御言葉を心に植え付けるとは、必ずしも、聖書の言葉を一字一句覚えていくという作業ではありません。空で言えるほどに、御言葉を暗記することは素晴らしいことですが、それが、心に植え付けるということではありません。神の心が私たちの心に植え付けられるということでしょう。また、み言葉が、その人の言動に作用しなければいけません。み言葉がその人の生活を変えていくようでなければなりません。「み言葉に生きる」とか「み言葉にいのちがある」とか「み言葉が生かす」とかいうのは、そのようなことではないでしょうか。

では、ヤコブの言う21節の「心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい」とは、どういうことでしょうか。イエス・キリストを神の子と信じ、イエス・キリストと主として受け入れ、「イエス・キリストはわが主です」と口で告白しなければ、御言葉が心に植え付けられたことになりません。その「み言葉をすなおに受け入れる」とは、「み言葉に従う」ということでもあり、また「イエス・キリストはわが主です」と告白し続ける、つまり、イエス・キリストを信頼し続けるということでもあるでしょう。そして、これこそが、御言葉によって、たましいが救われるということなのです。イエス・キリストを思うとき、私たちの心は、癒されます、励まされます、喜びます。神の御言葉は、私たちにとって、今をイキイキと生きるための「いのちのパン」「日々の糧」なのです。もちろん、私たちの最終的希望は、天の御国での永遠のいのちとその平安と喜びの礼拝生活です。しかし、この世でのせっかく命を与えられ生きているのですから、イキイキと生活しないと損だと私は思うのであります。

さて、では、22節の「みことばを実行する人になりなさい」とは、ヤコブは何のことをいっているのでしょうか。善行を行いなさいと言っているのでしょうか。たしかに、27節では、「孤児ややもめたちが困っているときに世話をする」とあります。困っている人たちに手を差し伸べる行為は尊いものです。しかし、それは、ヤコブの意図する「み言葉を実行する」意味の一部でしかありません。ヤコブが重きをおいているのは、その後の「この世から自分をきよく守る」ということです。なぜなら、ヤコブは、この1章の中で、次のように説きます。

2節「私の兄弟たち、さまざまな試練に合うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

12節「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

14節~16節「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

試練に耐え、誘惑から遠ざかる、それが「この世から自分をきよく守る」ことです。

しかし、このことは一朝一夕にはできません。み言葉が心に植え付けられるほどに、毎日「日々の糧」である聖書を読み、祈り、黙想し、いつも主イエス・キリストを思うのです。「み言葉をただ聞くだけの人」とは、福音である御言葉がしっかりと心に植え付けられていない人、御言葉がその人の内で生きていない人です。主イエスを信じていると思っていても、彼を心の中心にお招きしていない、心の中心は自分でしかない人です。また、もう少し厳しいことを申し上げれば、そのような人は、礼拝を終え、教会を出たとたんに、クリスチャンという服を脱いでしまう方です。説教の内容を忘れてしまっても大丈夫です。その日の御言葉を覚えていなくても大丈夫です。ただ、イエス・キリストとキリストの愛と十字架を忘れてはいけません。初めの頃に申しましたが、御言葉を心に植え付けるとは、御言葉を丸覚えるするということではありません。御言葉に生きるということであり、み言葉は、キリストご自身ですから、キリストに生きるということになります。ですから、「み言葉を聞き、御言葉を実行する」とは、「イエス・キリストに聞き、イエス・キリストに従い、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストがあなたの心の中で生きている」ということになります。皆さんは、どうでしょうか。イエス・キリストが皆さんの心の中で、いきいきと生きて働いておられるでしょうか。

さて、天国長屋の八さん、熊さんはいかがでしょうか。『み言葉を聞き、実行する人に』という神様からのメッセージをどう受けとめられますか。

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八: はじめ、「み言葉を聞き、実行する人」って聞いて、俺はまたてっきり、善行をしないといけないのじゃないかとヒヤヒヤしたよ。だって、そりゃ、なかなかできるもんじゃねぇからな。なあ、熊。

熊: 「善人はいない」って言われるからな。でも「善」をすることは、いいことじゃねぇか。

八: そりゃ、そうさ。でもそれが、今朝の御言葉の中心じゃねぇんだと分かって、安心したんだ。「み言葉を実行する」ということは、「み言葉を心にとどめて、主を賛美する」ってことなんだって。俺たちゃ、「イエス様いのち」だ。それでいいんだって、神様はおっしゃってくださっているんだと思えて、ちょっとほっとしたのさ。

熊: 俺はよぉ、「み言葉を聞き、実行する」ってぇのは、御言葉を聞いて、自分のものにするために、咀嚼して、そのみ言葉を栄養にすることなんだって思ったよ。み言葉は日々の糧だ。だから、食べて消化して栄養にして、その日その日を元気で生きるんだ。だから、毎日、聖書を読んで、御言葉を食べないとな。それに、イエス様といつもお話し相手になってもらわないと、俺りゃ、困るんだ。だって、悩みの多い乙女のような64歳のおっさんだから。

八: なにが、悩みの多い乙女のような、だよ。おめぇに、悩みなんてぇのは贅沢だ。けど、イエス様がお話相手か。話し相手だったら、この俺もいるじゃねぇか。

熊: 八っぁんも大事だよ。でもよ、「イエス様だったらどうなさいます」って聞きたいとき、同じレベルの八に聞いても、答えはたかが知れているじゃねぇか。

八: 同じレベルで、たかが知れてて悪かったな。両方とも貧乏だし、チョンガーだし。

熊: 懐かしいな、チョンガーっていう言葉。ついぞ、聞いたこたぁねえや。けど、そういう意味じゃぁよ、牧師さんもそうだ。貧乏だし、ひとりもんだし。

八: まあ、牧師さんも含めて俺たち人間だから、五十歩百歩さ。相談相手は、イエス様に限る。

熊: だからよ、「み言葉を聞き、実行する」っていうのはよ、とどのつまり、「イエス様に聞き、イエス様に従う」てぇことになんねぇかな。

八: おぉ、八。おめぇうまいこと言うじゃねぇか。「イエス様に聞き、イエス様に従う」か。イエス様に聞いた限りは、そのアドバイスに従わねぇな。イエス様がせっかくアドバイスをくださったのに、やっぱ俺はこっちのがいいって、イエス様のアドバイスをなかったことにしてしまう、ないがしろにしてしまうなら、結局は、イエス様いのち、じゃねぇ。それに、失礼だ。相手は、神の御子イエス様だ。まちがうはずのねぇお方だ。その人のアドバイスを無視するってぇのは、神様を無視しているのと同じだ。

熊: だよな。でも、俺たちも、そんなこと、気が緩むと、やっちゃいそうで、自分が怖いよ。

八: だから、「目を覚ましていなさい」。まあ、心の目のことだけどな。イエス様から目を離してはいけねぇ、そらしてもいけねぇ、ってことだろうよ。

さて、貧乏で、チョンガーの牧師さん、これでいいかい。

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八さん、熊さん、貧乏で、チョンガーで悪かったね。チョンガーってもう死語ですよ。いいじゃないですか。同じ「イエス様いのち」組のおっさんトリオで。仲良くしてくださいよ。でも、コメントありがとうございますね。熊さんがおっしゃった、「イエス様に聞き、イエス様に従う」。いいですね。私も大賛成です。「聞いた限りは従いましょうよ」これでなくちゃね。これでこそ、イエス様が私たちの内に生きて働いてくださっている証しですから。

では、これから黙想の時間にはいります。今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇81篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書7章24-25節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」

(詩篇81篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。万軍の主、私の王、私の神よ。御名をほめたたえます。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。主が私の神であられることを感謝いたします。今朝は、あなたのみ言葉を聞き、実行する幸いを学びました。どうか、私たちが、常に主の声に耳を傾け、主のみ旨がどこにあるのかを知ることができますよう、お導きください。また、主の声を聞けば、素直に主に従うことができるよう、私たちの心を整え、自分の思いである誘惑からも守ってくださいますように。

私たちの主、助け主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。