メッセージ:「主は一つ」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

3月18日

担当:若竹孝行

メッセージ:「主は一つ」(10分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:士師記19章〜21章

21章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:21:24-25

「イスラエルの子らは、そのとき、そこからそれぞれ自分の部族と氏族のもとに戻り、そこからそれぞれ自分の相続地に出て行った。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

士師記の最後の三章19章から21章までは、あるレビ人が旅の途中、キブアというベニヤミン族の町に滞在している時に起こった、そのレビ人のそばめが暴行殺害されるという事件に端を発し、イスラエルの12部族間の争いへと騒ぎが大きくなり、シロの祭りの時に、その地の娘たちを略奪し婚姻関係を結ぶ略奪婚で終わります。

元来、「祭り」というのは、村や町の間での交流の場でもあり、集団見合い、今でいう婚活パーティの場でもありました。日本でもまったく同じことが行われていました。お互いに気に入った人が見つかれば、村や町の長や有力者を通して、相手に結婚の意志を伝えると習わしがありました。しかし、それは略奪婚ではありません。略奪婚をしてしまえば、村八分となり、村を出て行くしかありません。

しかし、この21章で起こったことは、計画的集団略奪婚であり、とてもゆるされるべきものではありませんでした。このように、同じイスラエル人にも関わらず、12部族は、それぞれの立場で、それぞれ自分たちに都合の良いように、神をあがめていました。つまりは、神の名のもとに、神の権威を利用し、自分たちで正しいと思ったことを主張し合い、実行し、政治的にも信仰的にも混とんとした時代でありました。その結果が19章から21章に記されているのです。

王のいない同族間での争いは、自分たちの義を主張するだけで、収拾がつかなくなります。このイスラエル人としてのまとまりのない事は、他国の勢力に攻め入る隙をあたえます。他国には王がいて統制がとれていたからです。士師の時代に不安を覚えた民は、政治的経済的安定を求め、また信仰的リーダーとしての王の擁立を願い始め、やがてサウル、ダビデ、ソロモンを生むことになります。

日本には、「船頭多くして船山に上る」ということわざがあります。また、英語圏では、「多くのコックさんは、だし汁を台なしにする」ということわざがあります。コックさんがひとりひとり、いろんな調味料をいれてしまい、だし汁が台なしになるというのです。

パウロは、その事を危惧して、いたるところで、教会に対して、「ひとつ」であることを強調します。エペソ人への手紙の第4章はそれの最たるものの一つでしょう。

「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。」(4:4-6)

私たちの主は、イエス・キリストおひとりです。もちろん、考え方や解釈の違いで、さまざまな教団教派がうまれています。しかし、私たちは、イエス様において一致しなければなりません。違いを強調して、自分のアイデンティティを主張するのではなく、イエス様に兄弟姉妹であり、イエス様を信じる者としてのアイデンティティだけでよいのではないでしょうか。「船頭多くして船山に上る。」私たちは、主を目ざしているのでしょうか。また、「多くのコックさんは、だし汁を台なしにする。」私たちの行ないは、世の人に訴えかけているのでしょうか、世の人の興味をひいているのでしょうか。

クリスチャン人口1パーセントに甘んじてはいけません。一致することで、力を得ることができるのではないでしょうか。パウロは、私たちに、今の低迷を訴えています。

「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(4:3)

お祈りいたします。

主のいのり