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メッセージ主題:『信仰と行ない』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヤコブの手紙』

2021時年3月21日

聖書拝読:ヤコブの手紙1章19節~27節(新改訳聖書)

中心聖句:

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(26)

メッセージ主題:『信仰と行ない』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。今朝は、鳴門の教会でのメッセージ奉仕に朝早くからでかけておりますので、メッセージのみで失礼いたします。

先週からヤコブの手紙に入りました。ヤコブの手紙の第1章から、『み言葉を聞き、実行する人に』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。ヤコブ書1章では、信仰と知恵、試練と誘惑、そして神の言葉の実践が語られています。先週はその中でも、神の言葉を聞くことと実践することとはどういうことなのかを学ばせていただきました。

今朝は、ヤコブの手紙の第2章から、『信仰と行ない』と題しまして、神様からのメッセージを拝します。ヤコブ書2章では、人を分け隔てせずに、隣人を自分のように愛することと、行いを欠く信仰は死んだも同然であることが記されています。今朝は、その中の後半部分を主に「信仰と行い」のことについて、主から学ばせていただこうと思います。

短くお祈りいたします。

ヤコブは14節で「自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役にたちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と訴えています。この部分だけをとりあげて、強調してしまいますと、「行ないを伴わない信仰では救われない」と誤解してしまいます。私たちは、「行ないがあるないにかかわらず、信仰によって救われる:信仰義認」の恵みの上に立っています。例えば、死を直前にして、主を求め、主を信じ、そのように告白した、つまり洗礼を受けた人がいたとしましょう。その方には、狭い意味の「行ない」は、ありませんでした。「行ない」などできるはずもありません。死をまじかにして病床で、主を信じたのです。それ以外になにもできませんでした。しかし、その人は、イエス・キリストを信じた信仰ゆえに救われるのです。心から主イエス・キリストを信じる。それだけで、救われるのです。そうでないかぎり、イエス・キリストの十字架は空しくなります。イエス様は私たちのために十字架にかかり、尊い命を犠牲にして、私たちの罪を背負われました。イエス様の命によって、私たちの罪は贖われ、帳消しとなり、神様からは私たちは「罪なき者」とみなされるのです。

ヤコブはこの信仰義認のことを重々理解した上で、この言葉を述べていますから、「義の行ないによって、またその行ないを積むことによって、救われる」というわけではございません。「行ないは、信仰を裏付ける」ということです。ヤコブの主張の根底には、「主イエス・キリストを信じる信仰があるなら、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』は実践できるはず。目に見えない信仰があるかどうかを裏付けるには、目に見える行ないがあるかどうかを見極めることである」そして「信仰があり、神の愛を実践するなら、そこに行ないが伴われるはずだ」というような思想があるようです。

例えば、私は結婚式の司式をしています。「愛」というものには、形もなければ見ることもできません。しかし、結婚式では、愛のちかいの印としての「指輪」の交換があります。指輪という印をとおして、愛を確認します。目の見えないものは、人間は不安なのです。ですから、目に見える形をみて安心するのです。

しかし、義の行ないがあるからといって、信仰があるわけではありません。世の中には、信仰がなくても、とても素晴らしい行ないをなさっておられる方は山ほどいらっしゃいます。ですから、行いだけをみて、信仰を図ることはできません。しかし、主イエス・キリストにあっての信仰があれば、愛の行ないが伴われます。私の言う「愛の行ない」とは、狭義の行ないではなく、「広義の行ない」であります。先ほども申しましたが、私の言う「狭義の行ない」とは、一般的に言う「行ない」であります。例えば、人にやさしくしたり、親切にしたり、手助けしたり。主に人を相手にする行ないです。一方、私のいう「広義の行ない」とは、「狭義の行ない」である「人への行ない」と「神様への行ない」であります。たとえば、「神様への祈り」、「神様への賛美」、「神様への献金」などが「神様への愛を示す行ない」であります。

ヤコブのいう所の「行ない」とは、この広義の「愛の行ない」のことではないかと、私はひそかに思っているのです。そう考えますと、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけで、死んだものです」というヤコブの訴えは、説得力をもちます。イエス・キリストを通して神様への信仰があるなら、少なくとも、「祈り、賛美」を主にささげることができるでしょう。主に祈りや賛美をささげない信仰は、信仰ではないでしょう。ヘブル人への手紙によれば、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」なのですから、信仰が目に見えないものを確信させるとき、私たちは祈り賛美をささげているはずなのです。

信仰によって、私たちは、神に祈りという形で願い求めることができるのです。

信仰によって、私たちは、神の御業に感謝し、賛美をささげることができるのです。

信仰によって、私たちは、望まぬ現実に対して、忍耐することをおぼえるのです。

信仰によって、私たちは、今は目に見えない天の御国に希望を見いだすことができるのです。

信仰によって、私たちは、天の御国での平安と喜びを、この世で味わうことができるのです。

私はこれらのことを、神様への愛の行ないだと認めるのです。

さて、いつもでしたら、ここで、天国長屋の八さん、熊さんに登場していただくのですが、今朝は、すでに鳴門と方へでかけておりますので、今から黙想に入りたいと思います。

今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇34篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、ヨハネの福音書3章14-15節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまたあげられなければなりません。それは信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

(詩篇34篇)

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お祈りいたします。見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。主の御名を賛美いたします。愛する天のお父様、実に私たちは目に見える者に弱いものであります。信仰と行ないはコインの裏表にあると思われます。行ないは愛の行ないであり、それは、人に対してのものだけでなく、神様あなたに対してのものでもあります。私たちは、信仰によって、日々、祈り、賛美し、感謝とともにささげものをし、また忍耐を覚えることも、平安と喜びに満ちあふれることもできます。それは、すべてあなた様からの憐みであり恵みであります。どうか、私たちが常にあなたの御言葉を口にとどめ、主を思うことができますように、お導きください。

私たちの主、助け主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の曲

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